その14
――七年前。
「ママ! なんでわたしだけみんなと一緒に行けないの!」
先月、十三歳になったばかりの椿が、真新しい建物の一室で悲鳴に近い声を上げていた。
椿の悲痛な声を、平然とした様子で受け流している女性がいる。濃紺色の長い髪で切れ長の目をした美しい女性だ。椿の母、神埼百合子である。その両隣には、腰まである黒髪の美しい女性と、プラチナ・ブロンドの髪を短く刈り上げたサスケとキリーの姿があった。
「今度のターゲットは、Aランクのブラックリストですよ。あなたにはこの計画に参加するのは早すぎます。あなたは、まだハンターになって半年も経っていないのですよ! ――それから椿、会社では社長と呼びなさいっていつも言っているでしょう! 何べんも言わせないで!」
百合子は、両手を腰に当てながら興奮気味の椿を厳しい口調で怒った。
「あたしだってクラスBのハンター・ライセンスを持っているのよ! 皆のサポート役ぐらいできるよ! だから連れてってよ!」
まだ外見は大人びていても、まだ幼さが抜けきれない椿の顔が、興奮のあまり紅潮している。
「ダメです! あなたには他にやることがたくさんあるあるでしょう。まずそれをやりなさい。――いいですか、これは命令です! 命令が聞けないのならハンターなんか辞めなさい!」
語気を少し荒げて叱りつける百合子の言葉には、反論を許さない迫力が込められていた。
「もういい! ママなんか知らない!」
一瞬、言葉に詰まった椿は、涙目になって百合子を恨めしそうに睨んだが、居たたまれなくなったのか部屋から勢いよく飛び出していった。椿が、やり場のない怒りをドアにぶつけたために、ドアの閉まるけたたましい音が室内に響き渡った。
「まったくあの子ったら、いきなり新居を壊すつもりなのかしら。しょうがないわねぇ」
ブツブツと文句を言いながら、百合子は、椿の出て行ったドアに傷がついていないか心配した。
昨日、渋谷にあったオンボロ事務所を引き上げ、広尾の高級住宅地の一角に建てたビルに引っ越してきたばかりだった。十階建てのこのオフィスには、奮発して買ったマホガニー製の高級机が一つと、社員用の机が三つ、それと引越ししてまだ開封していないダンボールが部屋の隅に山積みしているだけで、室内の広さを持て余していた。
今、新しいオフィスになって一発目の仕事を打ち合わせしていたのだが、今回の仕事は危険と判断した社長の百合子が、新人の椿を仕事から外すことを決定した。すると、怒った椿と百合子が言い合いになり、自分の意見が通らないことに腹を立てた椿がオフィスから飛び出して行ったところだった。
「ドアに八つ当たりしやがって、困った奴だなぁ」
半開きになったドアを見ながらキリーがぼやいた。
「百合子さん、椿さんをこのままほっといていいのですか?」
サスケが百合子に少し困惑した顔を向けた。
「いいのよ、放っておきましょう。そのうち興奮が冷めたら帰って来るでしょ」
百合子は椿を突き放すように言ったが、言葉の割には心配そうな表情をしている。
「わたしたちなら一緒に仕事しても構いませんけど? 新人といっても、椿さんなら十分にわたしたちと働けると思いますけど……」
サスケの言葉に百合子が首を振った。
「わたしはあの子の実力に不安があるから、今回の仕事に同行させないわけじゃないのよ。あの子の実力だったら足手まといなんかにはならないわ。我が娘ながら、あの子の働きは大したものだからね。でなきゃ十二歳で最年少ハンターになんかなれないわよ。
でも、わたしが気がかりなのは、あの子がハンターになるまでとんとん拍子で来ているでしょ? これまで上手くいきすぎてしまっているせいで、この仕事に対する怖さがあの子には欠落しているのよ。まるで遊びに行く感覚で仕事をやっているって感じ……。わたしは、それが心配なの。見た目は大人びれているけど、あの子はまだ十三歳の子供よ。この仕事を続けていけば、必ず、この仕事の闇の部分を経験することになるわ。特に、人の死を目の当たりするには、あの子には早すぎるのと思うの。まして、あの子が犯人を殺してしまうことなんてあったら、優しいあの子は、相手が罪人でも人を殺したという罪悪感に耐えられないはずよ。わたしでさえ仕方なく犯人を殺めてしまった時でも、嫌な気持ちが何日も続きますからね。――だから今は、あの子には簡単な仕事に専念させて徐々に経験を積ませたいのよ」
そう話す百合子の目には、ハンターとしての強い信念が伺えた。
「わかりました。わたしたちも、そのことを気に留めておきます」
サスケは、百合子の真意を掴んで納得して頷いた。
「でも、あの子は納得しないだろなぁ……まったく親の心子知らずってよくいったものだわ」
そう言った百合子の顔は、ハンターではなく優しい母親の顔に戻っていた。
一方、椿はというと――
「もうっ、ママのバカバカバカーっ! せっかくハンターになっていつも一緒にいられると思ったのに、大きな仕事になるとわたしだけチームからのけ者にするんだから!」
椿は会社から飛び出した後、引っ越しする前から目をつけていた会社近くにあるパイ専門店で、ブツブツ文句を言いながらお店おすすめのバナナクリームパイを頬ばっていた。
赤レンガで造られた建物が特徴のこの店は、アメリカンタイプのボリュームたっぷりのパイを十種類以上も置いてある女性に人気のお店である。店は、お昼前のゆっくりとした時間を過ごす広尾のマダムでテーブル席は満席だったので、椿は、窓際のカウンター席に座っていた。
甘さを控えたまろやかな味のバナナクリームパイにフォークを突き立て、椿は無心にパイを口に放り込んでいた。眉をひそめながらもパイの美味しさで自然と口元が緩んでいる椿の顔を見て、店内を覗き見する通行人が、訝しげな視線を椿に送りながら通りすぎていく。
(ママは、わたしのことを足手まといにしか思ってないのよ! いいわ。今回のターゲットを先に捕まえれば、ママもビックリしてわたしのこと見直すはずだわ! ――そうよ! わたしだってAランクのブラックリストの一人や二人、捕まえて見せるわ!)
椿は、カバンから携帯端末を取り出すと、慣れた手つきで電話機能のボタンを押した。
「――あ、百の眼さんですか? 椿です。ちょっと教えてもらいたいことがあるんですけど……」
「椿ったら引越しの荷物も片付けないで、どこをほっつき歩いているのかしら? もう夕方になるのに連絡もしてこないし、連絡しようにも携帯電話の電源は切ってあって繋がらないし、困ったわ。これからを仕事に行かなきゃいけなのに……」
百合子は、いらいらしてマフォガニーの机を指でトントンと叩いている。
「椿のヤツ頑固だから、仕事に一緒に連れて行くっていうまで帰って来ないんじゃねえかな。今朝だって、恨めしそうに俺たちを睨んでたからな。百合子さん、もしかしたら一生口も利いてくれないかもよ」
キリーが笑いながら言う。
「もう! キリーは他人事だと思って簡単にいうわね」
百合子が口を尖らせて怒ると、サスケがなだめるように言った。
「まあまあ。椿さんだってちゃんと説明してあげればわかってくれるはずですよ」
「そうかしら? そうだといいのだけど」
百合子の顔には、思春期の子を持つ親の気苦労の多さが表れていた。一流のハンターでも、子育てはやっぱり大変らしい。
「ここで悩むよりも、仕事を早く片付けて一緒に週末を過ごせば、椿さんもすぐに機嫌を直しますよ」
そう言って、サスケがチケット二枚を百合子に差し出した。横から覗き込むようにしてチケットを見たキリーが驚いた顔になった。
「おっ! こりゃあ、マリオワールドの開園記念式典の招待状じゃねえか!」
サスケが差し出した銀色に輝くチケットは、黒い文字で〈夢と冒険の島・マリオワールド〉と印字されている。
〈夢と冒険の島・マリオワールド〉――東京・大井埠頭の三キロ沖合に、東京湾にぽっかりと浮かぶ人口の島がある。そこに今週末に開園することになっているテーマパークができた。それが〈夢と冒険の島・マリオワールド〉である。大手ゲームメーカーが生み出した、世界中で大人気のゲーム・キャラクターのマリオ(愛嬌のある髭を生やした派手な中年オヤジ)が活躍するゲームの世界をモチーフにした巨大テーマパークが、今夏、開園されることになっている。
開園式典には、宣伝を兼ねてマスコミの他に芸能人・スポーツ選手・政治家・実業家などの様々な有名人だけを招いて開園セレモニーを開くことになっているが、特別な人にしか招待されない〈マリオワールド〉の開園セレモニーの銀色のチケットは、まさに文字通りのプラチナチケットになっていた。
「週末に椿さんと楽しんで来てください。椿さんも相当行きたがっていましたから」
サスケのその言葉に、〈マリオワールド〉のチケットを見つめていた百合子がいきなりサスケに抱きついた。
「なぜあなたは、そんなに気が利くの? ――ありがとう、サスケ! 遠慮なく使わせていただくわ」
きつくサスケを抱きしめながら、百合子は満面の笑みを浮かべると、キリーに向かって言った。
「キリー、あなたもサスケの百分の一ぐらい気が利いてくれたら助かるのになぁ」
「ほっとけ! どーせ俺は気が利きませんよ」
キリーはそっぽを向いて、ぶっきらぼうに言った。
「冗談、冗談よ! そんなことより、さっさと仕事を片付けるわよ!」
百合子は、サスケから貰ったチケットを大事にジャケットの胸ポケットにしまうと、嬉しそうに声を上げた。ちょうどその時、仕事に向かおうとした百合子の携帯電話がけたたましく鳴った。
「はい、百合子です。――ああ、百の眼? どうしたの? あなたの方から電話して来るなんて、なんかいい情報でも入ったの? ――えっ?椿があなたの所に電話を? なんですって! 今日のターゲットの情報を聞いてきたですって! それで? ……教えたの! ――そう、わかったわ。わざわざ、ありがとう」
携帯電話を切った百合子の青ざめた顔から、ただ事ではないが分った。
百合子は、机の上に無造作に置かれた銃をひったくって叫んだ。
「サスケ、キリー! 急いで大井埠頭に行くわよ! ――あの子、わたしたちより先に今日のターゲットを捕まえる気よ!」