鎖雨樋(改稿版)
鳴り響いた軽快な電子音が、読んでいた小説の世界から現実へと私を引き戻した。見上げれば壁の時計は三時を指している。箱から飛び出した小人たちは、それぞれがそれぞれに定められたコミカルな踊りを黙々とこなしていた。
薄暗いリビングに人形たちのワルツと、振動する水槽のモーター音が響いている。その隙間を縫うようにして細い雨粒の音色が混ざり込んでいる。
開いていたページに栞を挟んで小説をテーブルに置く。視界の端に小さなカップを満たす黒い液体が飛び込んできた。一口も手をつけなかった自家製のドリップコーヒー。薫り立っていたはずの湯気は、とっくに見えなくなってしまっている。微かに胸の中で漂っていた物語の空気が、朝霧のように散っていった。私は冷え切ったカップを手に取った。
黒々とカップの中で揺らめく液体を見つめる。波紋の中に私を見上げる顔が浮かび上がる。精気のない疲れ果てた顔だ。虚ろな瞳でじっと私を、私の奥を見返してくる。さざ波の下で大海の血潮が大きくうねりを打った。
カップをテーブルに戻す。少し気分が悪くなっていた。目を閉じ、深く空気を吸い込んで、身体中に酸素を行き渡らせる。吐き出す息に、堆く積みあがった鎖の欠片が少しでも含まれていればいいのにと思った。
いつの間にか時計の音が止んでいた。目を向けると、小人たちはまた、まあるい木枠の中へ帰ってしまったようだった。ぶーんと、コケばかりが生す水槽のモーター音が少しだけ大きくなったような気がする。こぽり。水面に浮かび上がった熱帯魚が声を発した。
視線を水槽から目の前のカップへと戻す。テーブルに肘を突き、添えてあったスプーンでカップをかき混ぜた。コーヒーがぐるぐると勢いよく渦を作リ始める。これなら私の顔など見えなくなってしまうだろう。そう思いなんだか安心した。私は私に見つめ返されたくない。怖いのだ。私という全てに対して疑問を投げかけられているような気分になる。
でも、一体誰から疑問を投げられているのだろう?
スプーンが止まる。塞き止められた渦が徐々にその速度を落として、小さく小さくなっていく。私はスプーンを手放した。カチリと、カップが小さな悲鳴を上げる。何処からともなく形容し難い徒労感のようなものが這いずり上がって来ていた。
雨の時期になるといつもこうだ。どうしても身体がだるくなって、感覚が一つぶ厚い緩衝材に阻まれたようにおぼろになってしまう。
きっと私が雨を心底嫌っているからなのだろう。私は梅雨時の、あのか細い水の音色がどうしても嫌いなのだ。時折怖気が走るほどだ。だから、雨が降るといつも憂鬱になる。全てを壊したくなる。どうしてもこの世界が憎らしくなってしまう。それはひとえに私の中で雨が決して消すことの叶わない幼い日の記憶と強く結びついているからなのだろう。
全て過去の、過ぎ去った遠い傷跡だというのに、未だに覆われたかさぶたの下で傷は疼き、痛みは蠢くのだ。
目を閉じれば今でも鮮明にあの日のことを思い出す。次第に大きくなる雨の音。暗闇の奥から近づいてくる記憶のスクリーン。そこに焼きついてしまった光景は、特にこんな細い雨の日だと、簡単に再生出来てしまうのだ。
浮かび上がる、酒に酔い、叫び、昂ぶった感情をそのまま暴力に替えていた父の姿。そして、その矛先にうずくまる母の背中。まだ幼かった私は、そんな一方的な力の行使に対して何も対抗しうる力を持っておらず、ただ時が過ぎるのを怯えながら待ち続けるしかなかった。音を立てて床に散らばっていく食器の数々。なぜかテーブルの上から落ちなかった一升瓶。謂れのない罪に対して謝罪しながらうずくまっていた母の姿は、まるでいもむしみたいに弱く醜くいものだった。
ゆっくりと目を開く。両腕をさすって、鳥肌が立っているのを確認した。忌まわしい記憶はその内容が忌まわしければ忌まわしいほどに、ひどく鮮明に、そして明確な形をもって私の中に保存されているのだ。
しばらくじっと部屋の一点を見つめていた。それからふと思い出して、時計に目を向けた。見れば、時刻は二十分を回ろうとしている。息子の大輝の迎えに行かなければならない時間が迫っていた。私はコーヒーカップを手にシンクへ向かう。銀色に輝く流し台に、一口も飲まなかったコーヒーを全て捨てた。排水溝に向けて、傾いた銀色の表面を黒い液体が流れていく。カップをシンクの底に置き、蛇口を捻って水を流した。
こうやって、全て流れてしまえばいいのに。
カップに注がれ、止めどなくあふれ出す流水を見つめながらそんなことを思った。
開いた傘を雨が絶え間なく叩いてくる。柄を握る右手が微かな振動を感じるくらいだ、思っていたよりも強く振っているようだ。少し大輝のことが心配になった。
梅雨時の雨というものは、にじりにじりと降り続きふと気が付いた時にはもう河川を猛らせんばかりに増水させたりするから厄介だ。きっと、大輝はまだ幼稚園の中で友達と一緒に遊んでいるのだろうとは思うが、一介の親としては正直気が気でない。もし万が一なにかあったら……。もう少し早く家を出るんだったと、今更ながらに後悔した。
歩調を速めて目的地へと急ぐ。と、目の前から小さく話声が聞こえてきた。傘を少し上げ、視界を開く。道の向こう側に仲良く並んで歩く母子の姿があった。距離が狭まる。次第に会話の内容がはっきりと聞こえてくるようになった。
「うわぁ。すっげえみずたまり。ねえママ、すごいみずたまり!」
「ちょっと靖矢。入らないでね。靖矢の服買ったばかりで新品なんだから」
そんな母親の忠告など何処吹く風、男の子は意気揚々と水たまりの中へと入っていく。加えて中で飛び跳ねてしまった。着地と同時に飛沫が円状に拡散する。男の子はさることながら、一緒に歩いてきていた母親にも当然のごとく水がかかってしまった。
「コラ靖矢! 濡れちゃったじゃない」
そんな二人の横を通り過ぎる。すれ違う際に、二人に会釈をした。肌の若い優しそうな母親が恥ずかしがりながらも、柔和な笑みを湛えて会釈を返してくれた。少し胸がほっこりとする。先を急ぐ私の頬には先ほどの母親の笑顔が移ってしまっていた。
雨の道を急ぎながら私は様々な物事を目にした。先ほどの親子に然り、時折目に留まるアジサイに然り、私にはあまりいい印象のない雨だけれど、いたるところに素敵な場面があることを私は知っている。そっと、あるだけで誰かを笑顔に変えてくれる物事は、案外こんな雨の中にだってたくさんあるのだ。
そして、それはきっと幼稚園に通う子供たちの方がよく知っている。水溜り、雨の音、傘を打つ断続的なリズム、カエルの鳴き声。それら全てに対して、彼らは驚きを表し、がむしゃらに楽しむことが出来るのだから。見るもの感じるもの全てが新鮮で楽しくて、心の底から毎日を謳歌している彼らの世界は、きっととても素晴らしいものなんだろう。羨望を抱きながら、そんなことを時々考えてしまう。私にもあったはずの幼い、輝きに満ち溢れた煌めき。一体どこへ行ってしまったのだろうなと、時々どうしようもなく虚しくなることがある。
それでも、失くした分だけ得たものもがあるじゃないか。今の私は自らに胸を張ってそう言い聞かせることが出来る。年を重ねるということは私という引き出しの中身を入れ替えることなのだと、この歳になってようやく思えるようになったのだ。
幼稚園が近づく。歩調は更に速くなる。門を通り過ぎるや、私はすぐに玄関の受付に顔を出した。髪を後ろでまとめた保母さんがそんな私に少し驚いた後、季節を先取りしたひまわりのような笑顔を浮かべて大輝の名前を呼んだ。私はひとまずほっと胸を撫で下ろす。よかった。大輝はやっぱり幼稚園にいたのだ。安堵で胸を一杯にして私は玄関で息子が現れるのを待つ。しばらくして保母さんが奥から大輝を連れて来てくれた。
「今日は大輝くん、お外で遊べなくて少し残念だったみたいです」
そう言って気持ちのいい笑顔を向けてくれる保母さんと二、三の言葉を交わす。私はそんな保母さんの隣に立つ大輝の手を差し伸べた。
「帰ろうか」
「うん」
そう私の手を握り返しながら返してくれるたったそれだけの言葉で、私の心に花が咲く。前歯が抜けた、少しへんてこりんな顔が満面の笑みを浮かべてくれるだけで、暗い影を落としていたわだかまりや悩みがどこかへ飛んでいってしまう。
いや、そんなものはどこかへ飛ばさなければいけないのかもしれない。
繋いだ手。小さな温もり。これが今の私の宝物なのだ。私が手に入れたもの。手放さない、守りたい、大切な煌めきなのだ。
雨の中へ二人で足を進める。大きな傘の中に、合羽を着た大樹と二人きりだ。
「でね、しょうこちゃんがひけるっていったから、だいきもひくっていったの。でもしょうこちゃんひかしてくれなかった」
「残念だったねえ。次は翔子ちゃんが座る前に席取っちゃわなきゃ。でも、翔子ちゃんもうピアノ弾けるのね」
「だいきも。だいきもできたもん」
「ああ、ごめんごめん。大輝もだね。大輝もピアノ上手」
そんな会話をしながら二人で歩いていく。繋いだ手をぶらぶらさせて、ゆっくりと雨の音色を楽しむかのように。本当のところ、大樹の黄色い合羽はかなり目立つのだけれど、大切な宝物だから全然恥ずかしくない。ちょっと離れて後ろから見ると、小さなロボットが懸命に歩いてるように見えて結構可愛らしいのだ。
「ねえおかあさん、あしたはれるかなあ」
「んー難しいねえ。まだ雨降りだと思うよ」
「そっかー……」
そう言って露骨に肩を落とした大輝の反応が気になった。ただでさえまだ小さな身体だというのに、更に小さくなってしまった。元気という強い心を失った子供の姿は、とてもじゃないが笑って見ていることなど出来なくなってしまう。明日、明日は何か予定があっただろうか。そう思い出そうとしてみるが、まったく思い出すことが出来ない。仕方なく、俯き加減で隣を歩く大輝に聞いてみることにした。
「どうしたの? 明日晴れなきゃダメなことでもあったかな?」
「……ぼく、あめきらい」
ぽつりと呟いた大輝の言葉を聴いた瞬間、脳裏に父の面影が再生された。母を否定する罵声。繰り返される暴力。一瞬にして肌が粟立つ。雨音が大きく聞こえ始める。動機が激しく、耳の奥で心臓が脈を打つ。
思わず、繋いでいた左手に力を込めてしまった。
「おかあさん?」
大輝がそれに気が付いて私を見上げてくる。澄み切った純粋な瞳だ。私の過去など知らない、私のような過去を持っていない澄み切った疑問の表情だ。この子に、私の過去を、暗い雨を伝えるわけにはいかない。私はとっさに破顔し、出来るだけ明るい声色で言葉を続けた。動揺を隠し切らなければならない。
「ねえ、どうして大輝は雨が嫌いなの? 何か嫌なことあるの」
「え、だっておそとであそべないんだもん。つまんないよ」
その答えに、私は一瞬思考が止まった。この子は今なんと言ったのだろう。外で遊べないから? ああそうだ。そう言ったのだ。そんななんとも単純で明快な回答だった。そう大輝の返事を反芻し、後ろの鎖を思い出して、私は唐突に噴き出してしまった。
「なんだ、そんなことなのかあ」
「そんなことじゃないよ。ぼく、あめ、だいきらい!」
そう言って頬を膨らます我が子の表情を心から愛おしいと思った。大丈夫だ。この子には絶対に私みたいな思いはさせないんだ。そう強く決意を固めた。大丈夫。もう、過去は怖くない。今の私には大切な大切な輝きがある。消せない影など決してありはしないのだ。
「ああ! おかあさん、はやくいえにかえろ」
「ええ、どうしたの?」
「ハイパマンがはじまっちゃう!」
「ああ、そうね。じゃあ、走ろうか」
「うん。おかあさん、はやくはやく」
この笑顔を守りたい。ずっと、ずっと。少し前で無邪気にはしゃぐ小さな光を見つめ、そう思った。
「も、もうおかあさん、ちょっと、疲れちゃった。大輝。先行ってて」
「ええ、おかあさんもうちょっとだよー?」
「ダメダメ。もう無理よ。ね、おかあさんもすぐ行くから」
「……わかった」
「合羽だけしっかり玄関で脱いで部屋に家の中入ってね」
「うん!」
頷き、駆け出した背中を見送る。隠し切れない興奮をあらわにする黄色い背中が愛らしかった。
比べて私の体たらくときたら。すこし走っただけだというのに、完璧に息が切れてしまった。情けない。思わず自嘲的な笑みを浮かべてしまった。
大輝にかなりの時間遅れて家の扉の前に辿り着く。開けっ放しの扉に思わず苦笑が零れ落ちる。そう言えば扉を閉めなさいとは言わなかったような気がするわね。こちらの落ち度かと、玄関の中に入った。
妙な違和感を覚えた。いつもの玄関。傘を傘立てにしまい、靴を脱ぎ、見回してみる。何かが足りない気がした。決定的に足りない何かが存在していた。
そうだ、合羽がない。先に帰ったはずの大輝が脱いだ合羽が、この玄関には存在しないではないか。どういうことだ。もしかして、言いつけを守らずに合羽を着たまま家の中に入ってしまったのだろうか。
「ちょっと大輝。合羽は脱いで上がるよう言ったはずでしょ」
声をかけながらリビングへと向かう。だが、開いた扉の先に大輝の姿はなかった。テレビはおろか電気すら点いなかった。薄暗い室内を埋め尽くすのは虚しく響く水槽のモーター音と、微かに溶け込んだ雨音だけだ。空気は重く滞り、人気配などどこにもない。まるで私が家を出た時のまま時間が止まっていたかのような、そもそもここには誰もいなかったような錯覚に襲われた。
こぽり。熱帯魚が返事をする。ぽちゃりと、シンクの底で水を湛えたカップに水滴がこぼれた。
なんだ。なにが起きたのだ。その滞った空気に思わず数歩退いてしまう。心臓が激しく音を立て始めていた。雨音が激しくなる。慌てて、私はリビングから飛び出した。おかしい。おかしいおかしい! こんなことはあるはずがない。いたのだ。さっきまで。私の隣で。手を握って。笑顔で会話をしていたのだ。大輝はいた。絶対に。そうだ。この掌が覚えているじゃないか。
そう、半ば祈るようにして舞い戻った玄関には、しかし大輝がさっきまで履いていたはずの長靴の姿までもがなかった。
嘘だ。嘘だ。こんなことはあるわけがない。
「大輝、大輝。何処にいるの。隠れてないで出ておいで」
声を荒げ、家中を探し回る。リビング。寝室。子供部屋。トイレ。押入れ。箪笥の中。けれど、探しても探してもどこにも大輝の姿がない。どうして。ついさっき別れたばかりだというのに。
いないいないいないいないいないいない。
どこにも大輝がいない!
訪れた脱衣所から出た私は、まるで死人のように力なく、ふと洗面台を見た。目の前にわざわざ汚れをつけたかのように薄汚く汚れた鏡があった。そっとその表面を手でなぞる。指の跡が線となって現れた。同時に、そこに鏡本来の輝きが戻ってくる。
どくんと大きく視界が揺れた。スクリーンが脳裏に浮かび上がる。がたがたと歪な音を立てて投影機が忌まわしい記憶を再生し始める。雨音が更に大きくなりだした。
掌がまるで何かに導かれるようにして台の上に置かれたタオルを握り、鏡の汚れを落とし始める。次第に輝きを取り戻していく鏡を目にしながら、そして再生される記憶を見ながら、私は知らず知らずの内に涙を流していた。
鏡は全てを明らかにする。見えなかった家の中も、見えなかった私の実像も、見えなかった私の記憶も。その全てを映し、鏡は真実を照らし出す。
その本来の輝きを取り戻した鏡を前に、私は映し出された私という実像を見て思わず顔を覆った。声を、喉の奥から溢れ出す震える声を止めることが出来なかった。
父ではなかったのだ。母ではなかったのだ。そしてあの時。あの記憶のスクリーン。私の後ろにもうひとりいたのだ。泣きじゃくる大輝。怒り狂った夫は、遂にその矛先を私からあの子へと向けて……。
手を外す。目の前の鏡には老婆が独り映し出されている。その眼からは大粒の涙が溢れていた。
鎖樋に溜まった雨水は、静かに時を告げている。