令嬢は自身を語る
それを「 」と呼ぶならば、世界はあまりにも滑稽だ。
テラスの外でどさりと、音がする。木々の枝から雪が落ちたのだ。静かなこの場所では幾らか大きく響いた。だというのに二人はそれに眼もくれない。少女はうっすらと微笑み、少年の顔は強張っている。
「私はね。別に名声なんて要らないわ。だって名声は人を縛るもの。将軍ナウロンは自己の名声に縛られて戦死したわ」
彼女は過去の悲劇の名将を上げた。勇猛果敢と唄われたナウロンは他者と、自身にすらその戦い方を縛られ、最後は無謀な突撃により戦死した。
「私はね。大して富というものを欲していないわ。だって富は人を腐らせるもの。商人クリストは己の富に心を腐らされ、殺されたわ」
今度は童話の架空の商人の名を挙げた。人格者クリストは物語の中で成功し大成し、それ故驕り蔑ろにした奴隷に殺された。彼女は粛々と言うのではなく『読み上げる』。自身の中の知識を披露していく。
彼女のような眼も眩む美しさはいらない。
彼のような恐るべき力はいらない。
彼らのような固い絆もいらない。
知識の深さに少年は嫌悪しながらも、どうしても耳を傾けてしまう。しかし朗々と続いていた言葉がぴたり、と止まる。ここからは読み上げるのではなく、彼女の心をぶちまけるのだ。赤い喉の奥から言葉がせりあがる。
「でもね、理不尽は絶対に許せないの」 だって今の私は悪くない。
「何もしていないのに何かが奪われるなんて許容できないの」 まだ何もしていない。
「そんな『寒さ』は耐えきれないの」 理不尽に耐える必要なんてない。
彼女は右腕をテラスに差し込む日光に当てる。優しい陽光は少女の肌を温めていく。
「私は特別な何かが欲しいわけじゃない。当たり前のことを要求しているだけよ。人並みの幸せが欲しい。何も悪くないのに誰かに自分の物を奪われたくない。どう? これがおかしいこと? 悪いこと?」
悪いわけがない。道徳的に、少女は一片たりとも間違ったことは言っていない。
だがそれを少年は肯定することはできなかった。
「私はこんなところに一人閉じ込められるほど悪いことをしていないわ。ルゥという少女は、親を奪われ、雄をあてがわれる雌馬のような仕打ちを受ける悪行は犯していないわ。友も作れず、人も愛せず、親の愛情も奪われるほどの謂れをなんて何一つない」
そう、今の私は何もしていない。
最後の呟きが何を意味することなのか少年には分かりかねた。しかしなるほど、少女の意図は読めた。
が、冷静に務めた声で反論する。
「だからどうしたというんだ。理不尽? 横暴? 悪? 御高説もっともだが、ここでは誰も耳も傾けないさ。いやお前の優しい僕たちは涙をこぼすかもしれないが、それが一体何の意味を持つと言うのか。正論だろうが、聞くべき人が聞かなければ何の価値もない」
「あら、政争に敗れて落ち延びた人が言うと重みが違うわね」
カタリ、つい少年は持っていたカップを、音を立ててテーブルに置いてしまった。
視線が切っ先となり少女に突き刺さる。それをどこ吹く風とルゥは流した。
「ねえ? 私たちの人生はこんなところで終わりを迎えるの?」
その代わりに少女が流し込んできたのは毒だ。
「こんな寒い土地に閉じ込められて、畜生のように番を決められて」
「親からは引き離され。理不尽を押し付けられて」
「正論を言えば下らないと笑われ」
「力がないから悪いと罵られ」
「お前たちが悪だと」
「断じられ嗤われ」
「そんな」
一呼吸を置いて、次の言葉が来ると思われたタイミングで少女は口を閉ざしてしまった。劇でいうならば役者が突然と表情を消して棒立ちになってしまったかの様だ。本来ならば、白け欠伸も出てこよう。
だが不思議とそうはならない。乾いた砂に染みるように、ひたすらに先程の言葉が少年に染みわたっていった。
「そんな悲劇にもならない、只々無為で無価値な人生が私たちの生なの?」
「……」
少年は黙り込んだ。何も言葉を発さないライの意を一向に介さず、少女は椅子から身を乗り出す。上半身が少年に近寄る。瞳が、青い双眸が少年の眼を映しだした。そこにあるのは嫌悪感だけではなかった。
少女の皮を被ったこの化け物に対する驚愕、己が失った火を持つ者への憧憬が含まれていた。
そして僅かにだが籠る……そう、これは少年が笑い飛ばした本の内容にあった「 」
馬鹿馬鹿しい……悪趣味にも程がある。そんなことを少しでも考えてしまったライは怖気すら覚えた。
「何度でも言うわ。私は寒いのはもう嫌なの。死んでも御免。無駄に無為に無残にこの地で死んでいくなんて死んでも。それこそ『死んだ後でも』許容なんてできないわ」
「御高説感謝する。だがこんな極寒の地で娘が一人、何ができる。馬鹿馬鹿しい。付き合い切れんよ」
これ以上はまずい。心がかき乱されている自覚を覚えた少年は席を立とうとする。
しかし少女の方が一枚上手だった。止めるわけではない。先を制するかのようにルゥは少年の横にまですっと移動すると、耳元に顔を寄せた。
そして囁く。
「『何ができる』、『変わらない』、『意味がない』数々のお言葉ありがとう、ライ様。ここまで否定されると私も少し傷つくわ。でもね、少し嬉しいこともあったわ……」
だって、
「貴方は一度も間違っている。したくないとは言わなかった……貴方もそうなんでしょ? 理不尽と運命にすべてを奪われるのは嫌だって思ってる。小娘一人では何もできないと言ったけど、貴方様が一人ついたらどうなるのかしらね。『諦めるな、進め、歩け、勝利と生還は歩む先にある』」
最後にルゥは本の中の一節を拾い上げて終わる。
そして囁き終えるとルゥは両手で少年の両頬を覆った。お互いがお互いの熱を感じあった。
びくりとライの身体は震えた。これが眼の前の人物がか弱い少女でなかったら、振りほどいていたことだろう。
「じゃあまた。ごきげんよう。残ったお茶は是非味わっていただければ幸いです。まあ見ていてくださいな」
私が理不尽をぶち壊すところを。
それでは。
少女はそう言い残して、自らが立ち去っていく。少年は脱力したように少女の後姿を見つめた。
陽気に可憐に歩いていく様は、先程の北方の風を思わせるかのような雰囲気が、まるで幻であるかのように感じさせた。
完全に少女の姿が見えなくなってもライは動かなかった。眉をひそめ、冷めていく紅茶を見つめる。
「理不尽……理不尽だと?」
どんな環境だろうが理不尽などありえない。理不尽などと言ってはいけない。
それは敗者の言葉だ。ずるい、卑怯なんてやられた負け犬が吐く言葉。少なくとも彼が王都にいた時は断じてそんな言葉で自身の立場を現さなかった。なぜなら吐いたところで事態が好転することはなかったからだ。
しかし立場が吹き飛んでしまった今、その言葉はどこまでも少年の心を侵食し、それに立ち向かう少女の姿が、彼の脳裏に強く刻み込まれたのだった。
ああ、これこそが「 」なのか。なんとも……馬鹿らしい。
王都では最近人々の心が乱れることが続いている。
小規模とはいえ冷害による作物価格の高騰。それに伴う食料物価の全体的な上昇。致命的とは言わない。だが日々食べる食事の値段が僅かばかりとはいえ上がるのは、民の生活に直撃する。
そして近頃は王政府内で大規模な人員の再編成の事態が起こった。
聞けば権力争いに負けた一派が一掃されたことで、多くは中級、一部は高級役人達が罷免され。
更には王族の一人、若い男児が粛清に会い辺境に流されたのだとか。
下々も御上も乱れるような話ばかり、暗い話ばかりが王都の民たちを覆っていた。
ああ、早くこの事態が過ぎないことか。多くの臣民たちはそう嘆く。
そんな沈鬱な雰囲気が最近流れる王都フェニイア。
王国東部の国境から三日馬を走らせた位置にある王国の最大にして最良の首都。
その特徴はなんと言っても、都市を中心に王国各地にまで伸びる街道だ。上空から眺めれば蜘蛛の巣の様に地平線の彼方にまで伸びる石街道が見えるだろう。
この近隣都市を軽々と超える整備された交通網が、政治の中心にして一大商業都市であるフェイニアを支える大動脈であった。
まあ嫌な話題ばかりが流れる王都ではあったが、それで人々に変化があったかと言えば大して無い。
都市は夜の帳が払われ人々が動き出している。遥か上空から覗き見れば、春に訪れる渡り鳥の様に商人と住人たちが足早に家から飛び出していた。いつもと変わらない、活気ある人の営みが始まろうとしている。
幾ら気分が落ち込もうが人間なのだ。日々を生きていかなければならない。
それはこの国の中心たる王都の中核にして、神聖不可侵とされる王城とて変わりがなかった。
それどころか王国の勤勉たる統治者は朝日が昇るその少し前には、その手に羽ペンを握らせていた。
「あの子はどうしているかな?」
ある建物の一室。その中の中心部、豪華な調度品で彩られた執務室で、ふと書類を持った手を止め男は呟いた。父親と同じ赤色の瞳が手元から外され、視線は暫し虚空を漂う。
突然思いついたにしてはあからさまで、気にしているにしては声に熱が籠っていなかった。
歯に衣着せない物言いで有名な男にしては似合わない言葉回しだ。そこには男の複雑な心境が含まれている。
「順調にいけばティエリウスに着いていることかと」
それを長年連れ添ってきた従者である男は、彼と同じように感情を抑えて返答をした。
顔に深く刻まれた皺は、笑みも怒りも示すこともない。
気遣わず、ただ職務に忠実に。主人の思いを痛いほど分かるからこそ、敢えて冷徹に務める。
時を重ねた、四十代の男にしかできない忠誠がそこにはあった。
「そうか。母親はどうした」
「ご指示の通りに蟄居すれば罪には問わぬと伝えましたところ、深く御身に感謝し邸宅にて暮らしております」
ありがとう、と従者に告げる。そして男は執務机に置かれた水差しから、水をコップに注ぎ一杯呷った。
深く、溜息がつかれる。
手荷物書類を机に置く。そして曖昧な言葉を従者に投げかけた。
「私は間違っていたかな」
「シャウル様自身はどうお思いで」
「でき得る限りの最善は尽くしたつもりだ。だがな……嫌にはなる。今の私は色々と考えすぎる。余計なことを。昔のころの私は、いや『俺』は敵を排除するにしても間違っていると思ったことは、やったことがなかった」
「弱者の、しかも御親類の身包みをはいで辺境に送る真似を?」
「しかも自分が嘗て味わった辛酸と同じ真似をだ」
眉を顰め、口元を軽く噛み締める。シャウルは過去のことに思いを馳せる。
現在の自身を恥じるつもりは彼には毛頭ない。彼はいつでも全力で道を歩んできた。
そこで大切な者と、それを守る力を得てきた。そこに何を恥じる要素があろうか。
それでも。重圧がかかっている両肩と、現実を知り若さが失われた今のシャウルは、純粋さにかけては以前の自分に劣っていると思っていた。
「子供のころの世界は狭かった。俺と彼女と……そして『あいつ』だけしかなかった。だから悩んでも、納得のできる選択ができた」
「昔のように視野が狭いままでは困ります」
冷静な言葉を聞いても納得がいかない男は背もたれに身を任せる。そこには弱さが見えた。
普段の男からでは想像もつかない様子だ。
人によっては叱咤するべき場面なのかもしれないが、従者は、男がようやく身に着けた優しさだと歓迎している。
「ですが排除するにしても、なぜよりによってティエリウスに送ったのですか」
ティエリウス。四公位の一つ『ルーベ』を何百年にも世襲してきた一門の名前。そして一門の発祥地の名。
少年はそこに送られた。かつてのシャウルと全く同じように。
ただ生かすだけならば幾らでも他の選択肢があっただろう。それなのに何故環境的にも政治的にも厳しいところに送り込んだのか。
「機会を与えたかったのかもしれん」
そう一人ごちる。
「あの子は確かに政治的には弱者も良いところだった。四公位の支持どころか侯爵位の信任も得られず、軍部の掌握も手近な数個騎士団のみ。これで俺と競おうというのだから片腹痛い」
今の王政府は彼の庭だ。四公位全ての支持をとりつけ、軍部の将官級の半分が彼の息がかかった人物である。正しくこの王国を実質的に支配しているのは彼であった。
そんな人間にその程度の戦力で争おうなどとは。
「愚か者にしかできない発想だ。だが彼が愚か者で何が悪い。まだ成人もしない子供だぞ。俺に力が及ばない? 当然だ。俺よりも思慮が足らない? 至極普通だろう。あの子は別に俺よりも劣っているのではない。ただ時間が足りなかったのだ」
少年は弱者だ。今はまだ弱者だ。だがもしも順調に成長していったとしたら。
栗色の毛先の合間から見える、あの強い意志を感じさせる瞳は、一体どこまでの未来を見渡すことができただろうか。
彼は思う。もしもあの少年が自身と同じ時に生まれて争っていたとして。
負けるなどと腰抜けな発言をするつもりはない。だが、必ずや大きな障害になっていただろう。
「だから俺は彼をあそこに送った。あそこは何もない代わりに政治は及ばない。そして俺の力が届かない数少ない場所だ。可能性など皆無だが、再起するならあそここそが最適だからな」
シャウルの心に渦巻いているのは羞恥心と後悔だ。
あの素晴らしい少年の未来を、自身は大人気もなく奪ってしまったと。
「貴方様が感じられているその感情は痛いほど理解できます。しかしそれは詮無いこと」
従者そう切り捨てた。
「貴方様の発言が正しいというならば。この国の、貴方の才に匹敵する全ての者に同様の機会を与えなければならない」
なるほど。確かに彼の主の行為はある種非道さを秘めている。不平等で、不正義で、不義理だ。
だが彼に言わせればそれが何だというのだ。この世は主の行いと同じ。
平等と正義と、義理が完全に成立する世界などそれこそ『本』の中にしか存在しえない。
「貴方の行動は最善ではなかった。だが次善ではありました。反逆まがいのことを起こした彼を処刑せず。実質流刑とはいえ形式的には無罪放免。あまつさえ、再起の可能性をほんの僅かでさえ与える。これ以上は望めません。これ以上は御伽噺の中にかないのです」
そうではありませんか?
従者は同意を求める。それは問いというよりも主を納得させる説得である。
暫し主は、シャウルは黙り込む。迷っているのではない。広げた感情を自身の中に畳み込み、整理をつける。綻ばせた表情を整える。
少し間を置けば、そこにいるのはこの国の過去から現在において、最良と唄われる次期君主がそこにいた。
「良いだろう。だが報告は適時上げろ」
「承知しました。わが主よ」
恭しく一礼をし、
そして王国は、一人の少年を欠いたとしても平穏に廻る。