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令嬢は婚約者と会う

 ティエリウス家は今蜂の巣を突いたような事態に陥っていた。

 あの事件以降百人いた使用人は減少の一途をたどり、つい最近は静かであった屋敷は、息を吹き返したかのように騒がしい。


 使用人達はせわしなく動き、指示する者達も一瞬たりとも立ち止まらずに動いている。

 倉庫にしまわれていた来賓用の家具を引きずり出し、丹念に掃除された廊下をもう一度拭き、並べられた調度品の埃を掃う。活気とある種の高揚がそこにあった。それも当然だろう。何せ王都から高貴なる方が来るのだ。


 誰しもが興奮せずにはいられないのだろう。

 落ちぶれた我が家にまさか、まさかこのような晴れ舞台が来ようとは。

 かつての忌まわしい過去を懐かしむものなど誰一人いなかったが、それでもあの権勢の時代を忘れられた者はいなかった。だからこそ、久しぶりの大事件に使用人達は張り切っていたのだ。


「ねえ、御嬢様の婚約者は一体どんな方なのかしら」

「我らの可愛い御主人様の旦那様だぞ。優しく、逞しく、麗しい方以外にありえるか」


 勤勉に動きながらも、嬉しさの余りに準備をしていた男女が言葉を交わす。

 怠けているのではない。そんな負の感情など二人にはなかった。


「やっとあの子にも幸せになる時が来たのよ」

 

 噛み締めるように女は呟いた。長年主人を見守っていた彼女はつい自分事のように喜んでしまう。

 男もそうだった。いや男だけではなかった。ちらりと二人を見ている周りの使用人達も、口元がついつい綻んでいた。


 やっと自身の主が報われる時が来たのだと、彼らは頬を緩ませている。

 ここにいる使用人たちは多かれ少なかれこの屋敷と、ティエリウスという家を大切に思う者たちだ。

 あの『暴君』が北の監獄に収監されてから、ここに愛着を持たない者たちは全員離れてしまった。

 なので、彼らは一人残らず、誰もが我らのティエリウスの再興を、我らの主人の幸せを祝っていた。


 憐れな、可愛らしい我らが主人。貴方には何の罪もない。

 そんな貴方にここの雪だけしか与えられないなんて間違っている。

 無垢には花を。優しさには微笑みを。寂しさには愛情を!

 ああ! 栄光あれティエリウス! 栄あれ我らがリトルレディ!


 無言の唱和が屋敷を包んでいた。



 ある一室を除けばだ。



「ティエリウス様。どうか御手を挙げていただけますか」

「ええ、勿論。マーサ」


 そこでは小さな背丈の少女が手を横に広げ立っており、その前に使用人の衣服を纏った女性が傅いている。

 この屋敷で一等上質な服を持ち、少女の腕に通していく。

 にこにこ、と少女はまるで歌いだしそうな笑顔をしていた。だが、黒髪の女性の表情は硬い。

 そして動作も遅い。女性はここに長く仕えた熟練した女給だというのに、まるでその手の動きは新米のそれのようだった。


 それを見て、少女はふふふ、と声に出して微笑んだ。手が止まる。


「マーサ。手が止まっているわ。頭を動かしてもよいけど、手も動かしていただけるかしら」

「っ。申し訳ございません。御嬢様」

「いいのよ。皆が大変なのは分かっているつもりだから」


 ころころ、と小さな主人はもう一度笑う。金の絹でできているかのような少女の髪が揺れると、仄かな花の香りが女性の鼻孔をくすぐる。青い瞳は優しく彼女を見つめ、心配しないでと言い聞かせているようだった。


 動作が遅い理由は一目瞭然だった。彼女はこの小さな主人が恐ろしいのだ。

 ルゥ・フェイティアル・ルーベ・ティエリウス。

 あの暴君の家系の、枝葉の先で生まれた子供。前のここの主がルーベという名を汚し切った後で誕生し、後継ぎで悩む侯爵が苦肉の策で引きずり出した子を産む道具。


「いいえ。御嬢様。忙しいなど、言い訳にもなりません。大変申し訳ございませんでした」

「もう、マーサは固いんだから。そんなんだから婚期を逃すのよ。私が良いと言っているんだから良いの」


 憐れな少女だった。没落した家を救うためとはいえ、二歳の時に両親に売られた少女。

 親の愛は得られず引き取った当の侯爵も、それで用が済んだとばかりに彼女をこの屋敷に押し込んだ。

 幼少期の彼女は泣いてばかりだった。母はどこ、父はどこだと泣き叫んできた。


 それに心傷めない人間が一体どこにいるだろうか。

 当時の使用人たちは、なんとか少女の心を慰めようと、使用人という立場の中とはいえ精一杯彼女を慰めた。彼女だってその中の一人だった。


 そんな彼女の感情が変わったのはいつだったか。


「それよりも胸の痕は見えない? 私は気にしていないけど、王子様が気にされると困るから」

「ええ、大丈夫です。御嬢様。胸のお飾りが綺麗に隠していますよ」


 十年前痛ましい事故があった。暖炉の残り火が燃え広がり、一室を焼いた事件。

 原因は入ったばかりの小姓が管理を間違えたことによる。

 当然その時この屋敷は騒然となった。それこそこの世の終わりと皆が叫ぶほどに。何故なら焼けた一室は主である少女のところであったからだ。


 しかし結果は今見れば分かる通り、少女の命が奪われることはなかった。代償として、彼女の身体には小さくない焼け跡が刻まれてしまったが、それでも皆は涙を流して喜んだ。

 彼女も手を叩いて喜んだ。


 そうだ、そのときからだと彼女は思い出した。

 気付くと、喉にナイフが突きつけられているかのように、ひゅっと乾いた声を出してしまった。


「そう良かった。隠れてなかったら、それこそ本を抱いて隠して行くしかないもの」


 彼女の胸に大きな四角い傷跡ができたその時から。

 まるで以来少女が大切に読んでいる本のような痛ましい傷が刻まれた時点から。

 少女の瞳の奥に、嘗ての苛烈な暴君が。奴隷だった頃の自分の主人が垣間見えるようになったのだ。

 どろどろと、泥を煮詰めて腐らせたあの地獄が彼女を覗き込むのだ。

 そう今も綺麗な青い瞳を通して。


 そう思い至った瞬間。彼女は青ざめる。眼の前の気味が悪かった少女が、一気に化け物に見えだした。

 悪い馬鹿な考えだとマーサは自覚していた。

 それでもそれでも女の身体は震えて収まらない。咄嗟にぎゅっと両腕をかき抱いた。あの日の鞭の痛みを庇うかのように。


 途端彼女の手の動きが速くなった。

 素早く主人の支度を終えると、簡単な礼をして逃げるようにその場を後にした。


「仕上がりは上々。後は誰が彼女の引き金を引くのかしら」


 残された彼女の表情は変わらず微笑んだままだ。

 優雅に辺りを一瞥する。春の訪れからか窓から注ぎ込まれる日差しは暖かく、また暖炉の火も轟々と燃えていた。廊下では吐く息も白いが、この部屋の中ではそんなこともない。

 少女は呟いた。


「寒い」


 彼女は陽の当たる窓に近寄った。窓際には先程座っていた椅子と机がある。椅子に腰かけるが、彼女はそれでも満足できない。時間が経ち太陽が傾いたのか、椅子の場所は少し陰っていた。

 代わりに机の上が太陽に照らされていた。

 ルゥは手を伸ばす。陽光が手のひらにあたった。気持ちよさそうに彼女は目を細めた。


 彼女は精一杯に手を広げる。太陽に身をさらすように。少しでも陽に当たるように。

 

 手のひらの下にある机はさっきとは違い二本の影に覆われていた。

 煌びやかに日を反射していた机は、今は彼女の手に遮られて少し陰った。温まった表面は冷えていく。

 それでも少女の口からは言葉が漏れ出た。


「寒いのはもう嫌なの」


 足りない。もっと。もっと。彼女は口すさんだ。










 馬車の揺れに少年は苛立った。

 短く切りそろえられた栗色の毛先が、ちらちらと視界に入るのさえ腹ただしい。


 舗装されていない道では、如何に乗り物が上等なものであろうがどうしても揺れてしまう。

 こんな片田舎の、しかも雪が積もった悪路だ。これで快適な旅路を送ろうと思うこと自体が間違いだろう。


 そんなことは彼にも分かっていた。

 だが少年はどうしようもなく苛立つのだ。これが自身の敗走の惨状だと思うと収まりがつかなかった。


 足を組むと、この馬車で何回目になるかも分からない溜息をつく。


 花と権力が渦巻く王都から引きずり落とされ、今はこうして馬車という牢獄に閉じ込められている。

 集め付き従えた家臣たちはここにはいない。政争に勝った彼の兄が全てを持ち去ってしまった。

 昔はあれ程鬱陶しいと思った自身に群がる貴族達でさえ、現在の彼には恋しく感じられてしまう。


 それも仕方がないだろう。彼にはもはやその命しかないのだから。

 

 年が離れた兄が、こうして彼を生かしているのは情けだろうか。それとも勝者の余裕だろうか。

 聡明な少年の頭は前者だと答える。

 昔は苛烈と言われた皇太子は、今や民の誰からも慕われる優しき王者だ。兄と兄の妻に火の粉がかかるならば兎も角も、そうでないならば極力生命を奪わないのが彼の兄であった。

 良い兄だった。敵対した彼でさえ、どうしても敵視しきれない男だった。


「どちらが王になるべきなのかははっきりとしているのだ」


 漏れ出たのは敗北を認める言葉だった。

 まだ十五になって実績もない自身と、功績を立て三十代という兄との差。常識的に考えてどちらが次代の王に相応しいかなどと、考えるまでもなかった。


 馬車の車輪が大きな石を跳ねたのだろう。一際大きく車体が揺れた。


「それでも負けたくなかったのだ」


 だが感情と理論など一致する機会はそうないものだ。一致しないからこそ人は駆り立てられる。

 彼は物心ついた時から兄がどうしようもなく羨ましかった。

 その聡明さから王である父に気にかけられ、側室の母からは惜しみない愛情を注がれ。

 自身で愛する者を勝ち取り、愛する者と笑って生きている兄。


 羨ましかった。妬ましかった。自分があそこにいればと思った。

 自分が彼と同い年ならばまだ諦めがついた。競い、負けたのならば納得もできたのだ。

 生まれたときには既に周回差をつけられ、同程度の才能を見せても注目は自分には向かず、何の成果も出せないのかと母に落胆される。


 そんな仕方がない、道理である現実を彼はどうしても受け入れられなかった。

 だからこそ彼は無謀にも年上の兄に挑み、破れ、追放された。

 

「最早どうしようもない」


 これから行くのは極寒の地にある鳥籠だ。

 そこで一生生きるのだろう。初めて会うあてがわれた貴族の娘とともに。

 逆転の目は潰えた。政治的な力など彼にはもう砂粒ほども存在していないだろう。

 こうして結婚せずに婚約者として送られているのがそれを物語っている。


「落ちぶれたものだ。この俺が婚約者などと」


 通常ならば王族の者と婚姻する機会があれば、婚約者などとまどろっこしいことなどせず、とっとと婚礼の議を上げるだろう。もたもたして誰かに奪われてはたまらない。

 それなのに相手は結婚ではなく婚約を持ち掛けてきた。例え王族とはいえ、次王に喧嘩を売った者をその血に加えても大丈夫かどうか不安がったのだろう。

 北の大貴族とはいえ『あの醜態』から落ち目にある、ティエリウス家にさえそう思われたのだから、どうしようもないということだ。

 再起の芽など無きに等しかった。


「十五で余生のことを考えなければならないとは、数年前なら思ってもみなかった」


 ドアに身を寄せれば、馬車の窓からはこれから向かう建物が見えた。

 古いながらも丘の上に立つ、立派な白塗りの屋敷だ。管理する者たちの手が行き届いているのだろう。

 外壁に目立った傷は見当たらなかった。敗者が行き着く檻にしては上等すぎるものなのかもしれない。

 そう彼は自嘲した。


 あとはこれから会う婚約者とやらが、せめて踊りや茶会に没頭する一般的な令嬢ではなく、少しは知性がある女性ならば満足だ。少年は一人ごちると車内の背もたれに身を任せる。

 到着するまであと少し。


 ゆっくりと少年の身体が斜めになる。

 丘に上がるカーブしている道を登っているのだ。身体にかかる力に身を任せて横になった。もうすぐ着くというのに彼は目を閉じる。これからの薄暗い未来にしばし彼は目を背けた。


 もうすぐだ。

 彼女と彼が出会うのは。

 今すぐだ。

 彼女と彼が出会ってしまうのは。

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