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令嬢は微笑む

 ぱたりと、本が閉じられる音がした。続いて石造りの部屋の中で、少女、いやかつて少女だった女は白い息を吐く。

 そして白い水気を失った右手で表紙の上をなぞりながら、軽く眼を瞑った。

 彼女は読後の余韻に耽っていた。

 内容を自身の中に溶かし込み、そして本の中に広がる世界に身を投じていく。この時間は狭い世界に閉じ込められた女にとっては唯一の娯楽であり自由であった。


 十分、二十分。


 ベッドの上に置かれた本を震える手で何とか持ち上げると、横にそびえる本の塔に積む。

 そしてその後彼女は横に置かれていた別の本を膝の上に乗せる。


 女性はかじかむ手を必死に動かし、手元にある本の表紙をなぞった。

 何度も手にとられたそれは、色あせ四隅はよれている。紙を束ねている糸が今にも切れそうであった。

 それを大切に大切に、愛し子を撫でるかのように優しく扱う。


 この極寒の地に来てから文字は最後の友になって久しいが、この一冊は彼女にとって格別の存在。

 親友とも言える一品だった。


 辺りを見渡した。そこにはあらん限りの本が積まれている。学術書、歴史書、思想書。辺境で手に入れられる本の全てがここにあった。

 石造りの壁は完全に本で埋もれ、まるで本の壁に囲まれているようだった。

 そんな彼らは石造りの部屋に唯一の色彩をもたらしてくれている。


 本は彼女に様々なものを与えてくれた。常識、知識、感動、興奮。甘いものも苦いものもあった。

 数えきれるものではなかったが、その全ては確かに自分の内に納められている。

 からっぽの、くだらない教養と虚栄心しかなかった過去の彼女はもういない。


 今彼女が言葉を語るならば、どんな学者だろうとほうと、関心の声を上げ。

 どんな演者だろうと彼女の抑揚ある声に心を惹かれただろう。

 財も地位も失って久しいが、代わりに人間としての中身は今が一番に充実していた。


 それは流刑地に流された彼女を慰めるものであった。

 だが同時に黒く泥のような負の感情を呼び起こしもしていた。

 

 今の自分を磨けば磨くほど、過去の愚かしい自分が脳裏をちらつく。

 愚鈍な、唾棄すべき間抜けな過去が視界をうろついていた。


 それを今まで見ないふりをしていた。送られてくる本を読み漁り、没頭し考えないようにしていた。

 何故なら意味なんてないから。害悪でしかないから。


 しかしこの時間が終わりを迎えようとしている今。自身の親友を手にとった現在。

 それは抑えきれず心の底から噴出する。


 不意に咳き込む。唾液とともに手にこびりついたのはどす黒い血。


「もしも……」


 血を拭いながら呟く。血は止まらない。呂律が怪しい口元もだ。まるで血とともに押し殺して来た感情が漏れ出る様に止まらない。最後に残った矜持を振り絞り、今まで口にしてこなかった後悔の言葉。


「もしも昔の私が今の私なら」


 言った。言ってしまった。


 愚かな私ではなく、学のある私だったなら。

 人を見下した私ではなく、きちんと向き合える私だったなら。

 捨てられて何もできなかった私ではなく、前に進み何かを拾い上げることができる私だったなら。

 ならば、ならば、ならば。

 

 仮定が、ありえない過去が次から次へと漏れでた。呪詛の言葉だった。

 誰にあてたかは分からない。彼女を追いやった周りの人物たちにか。こんな状況を引き起こした自身にか。

 それともその全てにか。


 なんと無駄なことだろう。惨めなことだろう。哀れなことだろう。

 聡明な、聡明になってしまった彼女は自身を嗤う。


 こんなことしても何も変わらない。変わるとしたら今の自分が余計に惨めになるだけ。

 だから今までしてこなかった。でももういいのかもしれない。

 惨めな状態になったところで誰も気にもとめない。唯一気にする自分もあと少し。


 親友たる本を身に寄せぎゅっと抱きしめる。

 急に部屋の寒さが感じられる様になった。寒い。でも温めてくれる人なんていない。

 金だけ掛かった暖炉もない。義理で私に仕える使用人もいない。ついぞ自分に笑いかけてくれなかった婚約者もいない。


 ついに瞳から、あの日以来流してこなかった涙がでる。そうなったら自分ではどうしようもない。

 一滴もれでたら、二滴、三滴、最後は河となって頬を伝う。

 嗚咽で息が詰まる。

 身体から力が失われ冷たい床に身を投げ出す。


「そう、だったなら、そうだっ、たならっ。彼女のように、なれたかしら」


 紡いでしまった言葉。それが自身の耳に入ってしまった瞬間全てが決壊してしまった。

 むせび泣き口から漏れ出るのは意味を成さない単語だけ。

 なぜ、もっと。もしも、ならば。


 抱きしめた本にかける力が増す。

 この地に流されてから読んだこの本。この物語を読んだ時自分はまるで雷にうたれたようであった。

 主人公の性格は冷徹で傲慢だった。親からは疎まれ、婚約者からも愛はもらえないていなかった。

 それは使用人からは嫌われ。親の顔も見たことがなく、婚約者にも捨てられた自分と全く同じ。

 そんな破綻者にここに来るまでの自分を重ねた。


 同時に本の中の彼女は自分とは似ても似つかなかった。

 彼女は賢く冷静で周りから畏怖と声望を勝ち取った。全てをその微笑の元葬り去り目的を遂げた。

 それは騒ぎたて愚行を犯し、最後にこんなところに捨てられた自分とは全く違う。

 そんな成功者に自分は憧憬と嫉妬を覚えた。


 昔の自分が今の自分ならなれただろうか。

 まるで自分のようで、それでいてまるで自分と似ていない彼女のようになれたのだろうか。


 意識が暗くなっていく。病からか床の冷たさからかは知れないが、急に微睡みが自分を誘う。

 それに抵抗するつもりはない。もう疲れたのだ。

 だから医者も断った。本以外の差し入れも食事を除き全て捨てた。もういい。もういいのだ。


 それでも最後の矜持が彼女を動かす。

 最早殆ど動かぬ身体引きずり起こし床を這いずる。石造りの床が彼女の肌を擦切らすが気にも留めない。

 何とか机に身体を持ってくると、机上に置かれた簡素なランプに手を伸ばした。

 手に取り投げる。先は彼女の友の元へ。油が入ったランプは本の上に倒れると油と火をまき散らした。


 瞬く間に炎となり広がっていく。石造りの牢獄だが燃える物が全くない訳ではない。

 直にこの火が彼女の最後を彩るだろう。満足げに眺めると最後の親友たる本を抱きしめながら、机にもたれかかる。

 親友を腕で隠し身体の内へ内へと隠す。落ちぶれきった彼女でも、最後には誰かに居てほしかった。


 身を焼く前に炎は彼女に熱を与える。一時の、ほんの少しの間だがそれは人肌の様に感じられた。

 だが違う。圧倒的に。


「寒い……」

 

 その身が火で焼かれようとしているのに、彼女が感じていたのは別のものだった。

 火は本を吞み込みながら広がり、ついには彼女の衣服すら焦がし始めた。

 だがなお彼女が感じていたのは肌を刺すような極寒の冷気だ。

 

「寒い、寒い、寒い」


 炎が皮膚を焼く。絹の服がただれ肌に張り付く。地獄のような痛みだった。熱さだった。

 遂には、彼女のかつての自慢であった金色の長い髪も燃え始めた。


 しかしそれでも彼女の心は温もりを求めていた。

 寒さは渇きに似ていた。乾く喉が理屈もなく水を欲するように。彼女の心は身体が焼き尽くされながらも、このまま死にいこうとするその瞬間でさえ何かを求めていた。


「いや、だ」


 こんな惨めな状態で生き続けるのなんて嫌だ。

 このまま『寒さ』を抱いたまま死ぬのなんて嫌だ。

 

 言葉も満足に紡げない。自分ですら何を言っているのかも分からない。

 最後に声が発せられる。


「嫌、だ。こん、な、みじ、めに、死ぬ、なんて」


 最後は、

 最後、に、は。

 ……………………………



 その日流刑地では簡素な葬儀が行われた。

 流刑に処された犯罪者に葬儀が執り行われるなど異例のことである。

 理由は故人の元の地位の高さからくるものだったのか、それともそれ以外の要因か。

 知る者は誰もいない。

 そもそも彼女について語る人が殆どいなかった。

 ただ極寒の地王国最北端の監獄で、女性ながらも五年も生きながらえた囚人がいることを、看守がその日酒の席で話題に上げただけであった。













 木々からどさりと雪の塊が落ちた。


 王国北部ティエリウス。一年の半分を雪に覆われる極寒の地にも漸くの春が訪れようとしている。

 雪は水へと変わり細い小川を造りだしていた。雲から覗く陽光は日増しにその熱を強めている。

 直にこの地にも動植物が生を謳歌する季節が訪れることだろう。


 見ればこの地の大部分を占める平野部には、既に幾つか動く影がある。白銀の絨毯を踏み鳴らしているのは厚着をした農民たちだ。彼らは春を待たずに田畑を見回っていた。

 ティエリウスの気候は他地域と比べかなり特異なもので、他の常識は一切通用しない。中でも特徴的なのはその雪解けの早さだ。うかうかすれば忽ち種まきの季節になる。

 だからこそ農民たちは春を追い越し動き出していた。


 その農民の中の一人、水路の点検をしていた恰幅の良い青年がふとあることに気が付き作業を止める。

 水路近くの大きな道、ティエリウスでは主要道に当たる道に二本の長い線が描かれている。屈んだ状態を起こし見てみると、線はそれこそ地平線の彼方から続いていた。そして向かう先はここから一番近くにある丘の上だ。


「ああ、それは馬車が通った跡だよ。ついさっき上等な馬車がここを通ってったぞ」


 疑問を覚えていた青年に同じ村の若者が声を掛けた。青年と良くつるむ、仲の良い知り合いだった。


「領主様の馬車か? 珍しいなあ」

「いや、領主様の馬車じゃねえぜ。来たのは丘の反対側。つまりは村の外から来た」

「こんな貧相な所になんで馬車なんか来るんだ」


 馬車といえば貴族や豪商が乗るものであり。そこらの木っ端な農民や役人が乗るものではない。

 ここらで見る馬車など年若い、周辺を治める女領主以外にはないはずであった。


「それがよう」


 とここで若者は声を潜めた。辺りに人はいないが、それでも用心したくなるような話らしい。

 青年も自然と静かに、辺りを気にしながら耳を傾けた。


「領主様の館に仕える俺の親戚が言うには、なんと近々領主様の婚約者が来ることになっているんだと。恐らくそれじゃねえか?」


 しかし出てきた話はさもない話だった。貴族の娘に婚約者が居ることなど、それこそ農民が土地を耕すことと同じくらい当然のことだ。

 何を声を潜めているのだと、彼は呆れて咎めようとしたが、若者の話にはまだ続きがあるようだった。

 それこそ蚊の鳴くような声になるまで潜めて青年に告げた。


「で、気をつけなきゃいけないのはそこじゃねえ。なんとその婚約者はどうにも、王様と市井の娘との子。つまりはご落胤の王子様って話だぜ」

「……まじ、かよ」


 普段なら楽しく笑うお偉方の醜聞に対して、青年は苦虫を嚙み締めたような顔をする。

 何故ならば。


「侯爵様は懲りてないのか。ここがこんなに寂れた原因から20年も経っていないぞ」

「逆にそんなに寂れたからこそもう後がないと思っているんじゃないのか」


 二人は辺りを見渡す。

 そこにあったのはぽつりぽつりと数十人の農民の姿があるだけで、閑散とした光景が広がっていた。

 幾らこの地が極寒の地で人が住みにくいとはいえ、領主の館がある、しかも侯爵の血を引く娘がいる土地だ。そんな中心地がこんな状態なのは異常としか言いようがなかった。



 










 丘の上の館の一室で、少女が窓越しに走る馬車を見つめている。

 馬車は雪道に二本の長い線を残しながら、ゆっくりとこちらに近づいていた。それを心底楽しそうに見つめながら、椅子に座り少女は本を読んでいる。

 愛おしいように一ページ、一ページを捲っていった。

 事実彼女にとっては本は大切なものなのだろう。手にしている本は折り目が一つたりと存在していない。


「可哀そうに。こんな寒い地に。見捨てられた地に来るなんて。なんて可哀そうな王子様」


 くすくすと、たまらないといった感じに彼女が笑う。その眼は冷たかった。

 そこに同情など一欠片も存在しない。


「そんな彼をどうしてあげたら良いのかしら。慰めてあげれば良いのかしら。嗤ってあげれば良いのかしら。それとも、助けてあげる? 苦しめてあげる? うん? そうね」


 彼女は本にある一節を読み上げる。過去の偉大な哲学者が述べたものだ。


「『根源的に悪である人間がいるはずがないのだ。人は他人の不幸は許せない。表層がどうであろうと、人は他者の幸福を望むものなのだ』」


 朗々と語るさまは、例えその言葉に反した考えを持つ人間だったとしても、まさにその通りと頷いてしまうような説得力があった。


「そうよ。私は人間。彼も人間。ならば助けてあげるのは当然じゃない。悪いことをしてはいけないなんて、子供でも分かっていることだわ。だから私は悪いことなんてしないわ」


「助けて、利用してあげないと。私と彼を助けてあげないと」


 そう納得し、微笑んで彼女は読書に戻る。答えを得た彼女はとても楽しそうだった。

 長い金の髪は静かに揺れていた。

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