霧の街ベル
「これを」
フィンはおずおずと書類をさしだした。
皮のカバーで綴じられた書類は2㎝ほどあり、軽く読み流せるようなものではなかった。
「これは?」
アリサは当然の疑問を口にした。
「この国の収支と、資金の流通についてです。僕も見て驚きました。まったくと言って良いほど、デタラメです。直ちに手を打たないと10年も経たずして、この国は破綻いたします」
何をいっているのか、理解出来なかった。
この国ベルは豊かで国庫は富み、流通は滞ることなく活気に溢れている。
どうすれば破綻するというのだろうか。
「何かの間違いでは? 叔父様からそんなこと、聞いてないわ。問題があるのなら、すぐに話してくれるはずよ」
「その問題がロキ様にあるとすれば、アリサ様にお話しされることはありません」
アリサの整った眉が不愉快を表すように歪む。
「フィン。あなた今何を言っているのか、わかっているの?」
大胆な告発をしたフィンは、体と顔をビクビクさせながら、ひきつった笑顔で答えた。
「ベルの一大事についてです」
フィンは今年で11才になったばかりだ。神童として名を馳せ、10才で大学を卒業した。特に数字に強く『未来の内務大臣』と持て囃されている。
一方のアリサは14才。整った顔立ちに愛嬌のある笑顔、どんな服を着せても似合う姿に、人形姫と愛称される王女。
国といってもベルは都市国家だ。
領土はそれほど大きくなく、主たるベル本島に6万人、点在する島やその他の土地に20万程度の規模だった。
霧に覆われることが多く、特に冬は1ヶ月以上日の当たらないこともあり、霧の街ベルと呼ばれる。
島はもともと小さく人が住むには適さない。
だが、大陸同士の交易が頻繁になるにつれて、宿場町から交易所へ、交易所から都市へと成長を遂げた。
増築を重ねた街は気付けば、半分以上が海に浮いたような作りになっている。
その結果細い路地に渡し橋、水門に停船所と、とても馬車など使えず、人々は舟を交通手段とし、水と暮らした。
度重なる水害に諦め放棄し、建物ごと水に沈んだ地区もある。
そんな場所は子供たちの格好の遊び場になっていたが。
それでも人々は水と街を愛した。
「わかったわ。もしそれが本当だと仮定して、なぜ今まで誰も気が付かなかったの? それに叔父様に問題って、どういうこと?」
アリサは王女だがまだ王位を継承していない。先代の王だった実父は、9年ほど前に亡くなり、王妃も喪が明ける前に病でなくなった。
王座を空席にするわけにもいかず、さりとて幼少のアリサを王座につけるわけにもいかず。結果王弟であったロキが宰相につき、時期が来ればアリサを女王とするように段取りがなされた。
だが5年が過ぎた頃、政策に人気を後押しされ『王に』という国民の声によって、ロキは王位につく。それでもロキは『然るべき時期が来ればアリサに王座を譲る』と公言していた。
アリサは優秀で誠実なロキのことが大好きで、それこそ本当の親子のように接していた。
「ベルの問題に気付いている人もいるかもしれません。ただ気付いていたとしても、なにもしていないのは事実です。ロキ様の問題というのは今お話ししても、ご理解いただけないかと思います」
言葉を選びながらフィンは答えた。ここでアリサの機嫌を損ねることは、自身の命に関わるかもしれない。
「掴み所のない話ね。あなただけが問題に思っていて、あなただけが解決したいという問題もあるわ。ベルが破綻すると言われても、私には想像もできない」
飲みかけの紅茶はすでに冷えてしまっていた。非公式な謁見だったので、アリサ個人の客室を使っている。人払いをしていたので、紅茶を淹れ直してくれるメイドもいない。
それから2時間ほど話したが、アリサがまったく理解できない内容も何点かあった。
「(あぁ、こういう人のことを本物っていうんだろうな)」
などと思っていた。
「少し話が長くなってきたわね。疲れたわけではないけれど、ちょっと考えたいわ。あなたが集めた資料もみてみたいし」
「わかりました。今日のところは失礼いたします。ただ話の内容はくれぐれもご内密にお願い致します」
フィンはやや言い足りない風ではあったが、何も罰せられなかったことに安堵を感じていた。手早く散らばった資料を集めて、必要な分をアリサに渡す。
「わかってるわよ、そんなこと」
アリサは少し膨れっ面をしたが、それでも美しかった。少し赤くなったフィンはうつ向き、
「では」
と言って部屋を出ていった。