八
『いいだろう。だが、私の加護をもってしても、霧[殺し屋]の追跡から逃れることはできぬ。奴らは必ずやまた命を狙ってくるだろうからな』
それは重々承知の上だ。彼らは目標を狙い続け、その命を奪うまで、その依頼を遂行する。
「付け焼き刃だということはわかっております」
狭良は眉を寄せ、言う。栢香神はため息を吐いた。
『ならば良い…』
彼は瞳を閉じた。張り詰めた空気が緩む。二重に結界が張られていたのだ。狭良が張った結界よりも、何倍も強い結界。
子珞の中で、栢香神の意識が溶けていき、自我が目覚めていくのを感じた。
「母上?」
なんとも言えぬ不思議な倦怠感を感じながら、子珞は瞳を開け、狭良に声をかけた。あの舞の拍子と動作がいつまでも頭の中でぐるぐると回っている。
「なにか、あるのですか?」
この世には訊いてはならぬことと訊くべきことがある。後から考えると、あれは訊いてはいけなかったのかと思うことがあるが、この時はまさにそれだった。訊いてはならなかった問いの返事は想像以上に辛い傷跡を残す。
狭良はしばらく考え込むと、静かにその言葉を口にした。
「私を置いて、波蘭と逃げなさい」
子珞の顔が一気に青ざめた。母の雰囲気が最近変わってきたことは薄々ながら感じていた。しかし、「逃げろ」とはどういうことだ。
「どういうことですか、ちゃんと説明してください!」
焦燥に満ちた表情をして、彼は母に詰め寄った。狭良の瞳は静かであった。
「説明は…波蘭から聞きなさい」
子珞が言い返そうとしたその瞬間、その首に手刀が叩きこまれた。段々と暗くなっていく意識の中で見た彼の母は涙を零していた。
「ありがとう、波蘭」
狭良は服の袖で涙を拭うと、崩れ落ちた子珞を支える波蘭に礼を言った。波蘭は静かに問いただす。
「あんたは後悔しないの? このままじゃ、この子は罪悪感にまみれて生きることになる。母の身体のこと、私たちに起こっていたこと、全てを気付けなかった自分の無力さに。それでもいいの?」
…よくない。できることなら、ずっと子珞のそばにいてやりたい。だが、それができないことくらいわかっている。
「今朝、吐血したの」その言葉に波蘭が息をのんだ。「持ちこたえて三日…この毒は吐血してからの方が毒の回りは速い。眠るように死んでいけるのに、死んだ後は腐るのも早い。そんな姿を見せたくはないのよ。子珞にも波蘭にも、…もちろん子穂にもね。だから、逃げて。奴らは今夜必ず来る。私は屋敷に火を放つわ」
波蘭はもう何も言わなかった。黙ったまま、小さく頷く。
「子珞には、眠り香を嗅いでおかせて。文と髪を後で持たせるわ。あと、以前、祭の出店で描いてもらった絵札も」
「…わかった」