七
あの時は香月を憎んだが、大神殿の巫女になって良かったと思う。外の世界が見れたのだから、文句は言えまい。あのままあそこにいたら島の女になっていただろう。
「子珞、そこに立って」と狭良は庭の一角を指し示した。
あの刀は子穂が置いていったものではない。
あれは、私の《守刀[もりがたな]》。御子に選ばれた際に、神殿の泉から取り出したーーそして、栢香神の気を纏っている。自分に残された時間を考えると、守刀を子珞に残す必要があった。先程子珞が守刀を手にした時、あれの波動が大きくなった。この国の国王がその身に神を宿していることは、当時神官たちが自分と香月にのみ教えた。もしかしたら子珞に宿っているのは栢香神なのかもしれない…そう思った。
子珞は何も分からず、示された場所に立つ。
昔覚えた唄が口から流れ出る。それは古代白澪語ーー。これは栢香神を恋う唄ーー俗に『香恋歌』と呼ばれる。遙か太古の昔、栢香神は人間の娘と愛し合ったから。
貴方の心はわたし一人を
愛してくれないでしょうけど、
わたしはいつでも 貴方のことを
心よりお慕いしております
闇を下す我が君は
まるで鴉を従えているよう
御存知ですか
鴉は時に儚げで 時に美しく 時に冷たい
まるで貴方様のようでございますね
闇を愛する貴方は
以前わたしにこう仰いました
「お前はまるで私の月だ。
明るく照らして私の指標になってくれ」と
わたしは貴方の月になれましたでしょうか
あぁ、わたしも神として生まれたかった
これほど人の身であることを呪ったのは
生まれて初めてです
日に日に老いてゆく私の隣には
出逢った頃と同じ姿の貴方がいる
わたしも出逢った頃のままでいたい
姫神にならせていただける程
わたしは善い人ではなかったように思う
次に生まれ落ちるならば
貴方の隣に立つ女神がいい
それまで待っていていただけますかーー
空気がざわりとどよめいた。子珞は唄いながら舞う母の姿をじっと見つめていた。その姿は一度見ただけでまぶたの裏に焼き付くほど、感慨深いものだった。
シャラン シャラン シャランラン
規則正しい鈴の音が聞こえ、それが母の足首についている鈴だとわかった。紅い紐で結んであるそれを彼女は外したことがなかった。だが、その音を耳にしたことは一度たりともない。
狭良は唄い終えてもなお、舞い続けていた。その舞と鈴の音を聴いていると、だんだん眠くなっていく。その代わりに自分の奥から、何か別の存在が這い出してくるのを感じた。
「『そなたが私を呼んだ御子か』」
自分の口から別の声が発されたと同時に、子珞は意識を手離した。
狭良は舞うのを止めた。目の前に立つのは息子ではなく、偉大なる栢香神なのだ。咄嗟に最高礼を取れば、彼は頬を赤くして言った。
「お初にお目にかかります。御子…いえ、今は子珞の母でございます。狭良…と申します」
「あぁ…。またまた良き器を産んでくれたものだ。…そなたもまさか自分の息子が私に憑かれているとは思っていなかったろう?」
栢香神は妖艶な笑みを浮かべた。
「そうですね。正直なところ驚きました」
素直に述べれば、子珞の顔をした栢香神はニンマリと笑った。
『それで?お前が頼みたいことはなんだ。頼みがあるから、呼んだのだろう?』
すべてお見通しだった。もう御子ではない、一介の女が頼んでよいことではないのだ。そんなことは百も承知の上である。狭良が頼みたいことはただ一つだった。
「今夜、霧[殺し屋]が来るでしょう。私はこの子を波蘭と共に逃がします。私の命と引き換えに子珞を生かすと約束して下さいませんか」
『霧[殺し屋]…』狭良の頼みには返事をしず、栢香神は怪訝な顔をした。『何故、奴らの名が出てくる?お前の先見の能力は歴代の御子たちの中でも群を抜いていたから本当に奴らは来るのだろうが、奴らに狙われることをお前はしたのか?』
「朝顔の君(壱ノ妃の異名)のお怒りを買ってしまいましてね。入内してからろくなことがありませんでした。この離宮に住み始めたのも、元はと言えば白粉に毒が仕込んであったことが始まりでしたし…。とはいえ、ここに来ても無臭の毒が仕込んでありましてね、近々栢香神様のお国に呼ばれる予定で…。私、死相が出ているでしょう?久々に先見をしてみたら、霧[殺し屋]が来るなんてことを知りました。嫌ですね…自分たちが殺しの対象になるというのも」
『逃がす…となるとそなた、死ぬ気か』
栢香神の問いに狭良は微笑んだ。
「言わずともいつか知れること。私は自らが成したことに後悔はしない主義でして…最後に子穂にも会えましたし」
栢香神は黙った。