四
子珞の瞳がスゥ…と細められる。この様を自分は知っている。幼少の頃、子穂自身もそうであったのだから。"これ"をしなくなったのはいつだったろう。やっているうちは無意識だが、やらなくなるとわかるのだ。何かが外れていたということに。…確か、10歳かそれくらいでそのことに気がついた。相手に打ち込む時に目を細めるこの仕草を続けている間は、この幼い少年は国でも類を見ない剣士になる。子穂でも気が抜けなかった。
幾度も木刀が交わる。その度に鈍い音が響いた。
「……っあ゛」
妙な掛け声と共に、子珞は打ち込んでくる。重い…。
しかし子穂は何も言わず、息も乱さずして、子珞の刀を凪払い、彼の喉元に木刀の切っ先を突きつける。
「…ぅ、参りました」
子珞は悔しそうな顔をする。
「…大人気ないですよ」
「…何を言うか」
思わず笑みが浮かんだ。
ふたりでクスクスと笑い合う。
「父上…大きくなったら、父上のようなお人になれるでしょうか…」
何気なく呟いた息子のその言葉に、子穂は笑うのを止めた。無言のうちに、先へと促せば彼は口を開く。
「いつまで経っても強くはなれないし、背も高くならないし、…それに、…もしも母上が……」
「狭良がいなくなったら、守る者がいなくなる……と」
子珞は頷いた。子穂は幼子の頭をくしゃりと撫でた。この子は母親の命数が幾ばくもないことを本能で感じている。子穂にも同じ経験があるため、その感覚がわかるのだ。龍王の血を継いだ子を産み落とした母親は短命である。子穂の母も、子春の母も若くして亡くなった。妾妃、貴妃に関わらず、それはどの世も同じである。その事実を知ったのは子珞が産まれた後。そのことを知るのは王である者、王になる者…のみ。
「お前が守る者は母以外にもあるさ。…子珞。父が守っているのは何だと思う」
子珞は暫く考えた。円らな瞳が子穂の目を見る。心の奥を覗かれている…そのような感じを受けた。
「父上が守るべきものは…国。母上や僕よりも真っ先に優先しなければならない。それが皇太子である父上の御役目。…僕は…」
それきり押し黙った。微かな吐息が震える。
僕は…僕は…今…父上の胸の内を覗いた?
何故自分にそのようなことができるのだ。父上は僕を見ている。驚いてはいない。皆、このようなことができるのですか。父上も兄上も陛下も。僕だけできる…そんな訳ないと言ってほしい。
自分が暗い所に沈んでいくのがわかる。何も聞こえない。何も見えない。自分の五感が反応しない。
その様子を子穂は見ていた。恐らく、この子は自分とは違う何かが…宿っている。
龍王の息子に尋常でない力があるのは、神がその身に宿っているからだ。なんの神が宿っているのかは即位式でわかる為、子穂は自分の体に宿る神が誰なのか知らない。
だが、この子は今…。この異様な空気は何だ。纏わりつく様な闇色の気…。
ど…くん
心臓の音がやけに煩い。子珞は闇の中で眉を顰めた。
(はぁ…)
少しばかり息を吐けば、だるさは幾ばくか解消される。
それで、僕は何だってこんなことになっているのだ。そう…そうだ、僕が父上の胸の内を覗くことができたのはなぜだ、と考えていたのだ。
頭が冷めていくと、周りの気配を敏感に察知できるようになる。自分を見ている何かの存在も感じとれた。
「誰だ!?」
返事はないが、子珞は顔を上げ、その何かを睨みつけた。
ふっ…と気が揺らいだ。
『捕って食うわけではない』
「誰だ、と訊いているんだ」
しばらくの間、沈黙がその空間を支配する。
『栢香神[はくきょうしん]…人にはそう呼ばれている』
栢香神!
子珞は生唾を飲み込んだ。背中に冷や汗が伝う。
栢香神といえば綾幸十二神[りょうこうじゅうにしん]の壱ノ神で、国神に次ぐ存在だ。その性は闇ーー。国神の性である光と相反する。闇の夜を支配し、人の心を視る。人間達に畏れられ、死をも司る。
「栢香神が僕に何の用ですか」
僕は死なないけれども…。生憎そんな予定はない。
ポゥ…と何処からか光の粒が集まり、形を成す。そして、人型の…神が目の前にいた。
彼は美しかった。漆黒の黒髪が光の粒に照らされ、美しく輝いてみえる。小麦色の肌が柔らかく感じられた。彼はゆっくりと目を開けた。その瞳は子穂や子珞の赤い瞳よりも濃い…紅。
ど…くん
動悸が一気に速くなる。なにかが子珞の足に絡みつき、その場から動けない。
『あぁ…そうであったな』と栢香神は一人納得した。『即位の儀で…か。すっかり忘れていた』