三
「子珞…、狭良になにかあったか?」
子穂は子珞に尋ねた。父がこういう時は決まって、母がいつもと違った時だ。しかし、子珞には母がいつもと違っているのかわからなかった。
「いえ…」
「そうか…それならいいが…」
子穂の顔が幾らか陰る。なにかが違う…狭良は何かを隠している。自分にも息子にも。子穂は下唇を噛んだ。もう少し彼女の側にいればよかった。覇気がなく、以前より痩せていた…。そして仄かに香った御霧香…。あれほどきつい香を焚きしめているということは、狭良の体に異変が起こっている。
「父上、思い出しました。母上は食事の後、なにか飲んでいらっしゃいます。今までは飲んでいなかったのに!」
子珞の言葉に子穂は歩みを止めた。
「なにを飲んでいるかわかるか?」
子珞が悔しそうに顔を歪める。
「いえ…ですが、ニオイなら…。母上がそれをお飲みになった後は決まって紅花の香りがします」
子穂は愕然とした。
紅花…毒消しとなるその花はすり潰してから乾かして、茶にして飲めば、体内にある毒を八割ほど消すことができる。
「わかった…。いいか、子珞。私は明日宮に帰る。私が次にここに来るまで、狭良を守ってくれ」
「はい」
恐らく、狭良の体には毒が回っている。遅効性の毒で、毒性の強いものだろう。
歩きながら話していると、いつの間にか武器庫に着いた。子穂は手に持っていたランプに火を灯すと、奥へと進んでいった。今、子珞が使っている木刀は軽すぎる。真剣の重さの少しにも満たない。剣の重さは人の重さだと言われる。あのような軽い木刀では、人の重さをわかることはできない。彼は小さいながらも剣士なのだから。
「ここらへんか…」
子穂は丁度いい具合の重さの木刀を見つけると、子珞を呼んだ。
「子珞、あったぞ」
「はいっ!」
彼は嬉しそうに駆けてくる。子穂はそれを手渡した。
「重いか」
その問いに、子珞は真剣な顔をして返事する。
「…重いです」
子穂は微かに苦笑を漏らした。「そうだろうな…」
「ですが、大丈夫です。持てます」
一所懸命に弁解する息子の頑張りに、子穂は可愛いな、と感じる。そして子穂は子珞の頭をくしゃりと撫でた。
「素振りは毎日百はすること。無理して回数を多くすると肩を壊す。七になったら三百、十二になったら五百…こうやって増やしていけばいい。柔軟は毎日しろよ。身体をやわらかくしておくことが大切だ。軽業師のように身を軽くしておけば、怪我をしなくなるし、自分の命が守れる。地道な努力が実を結ぶんだ」
子珞は静かに聞いている。
「わかったな」
「はい!」
それと…、と子穂は続けた。
「義を貫け」
「義…」
「あぁ。今は理解できないかもしれない。だが、最も正しい道を進め。悪を赦すな。いいか」
「はい」
この言葉は子珞の胸にずっと残ることになる。
嫌な予感がした。以前、子春が言った通りのことが起こったら?狭良がいなくなってしまったら?
「子珞、昼にできなかった剣の稽古をつけてやる」
「はい!ありがとうございます!」
子穂は自分用に重たい木刀を選ぶ。「行くぞ」
子珞はパタパタと走ってついてくる。
外に出ると、空が白み始めていた。子穂はランプの灯を消すと、木刀を振った。
━━ヒュン
木が手に吸いつく。それもそうだ。今まで自分が使っていた木刀なのだ。自分と母がずっと暮らしていた場所だ━━母が死ぬまで。