一
「母上!」
狭良は息子の声を聞いて、そちらを向いた。息子の白い髪が太陽に照らされてキラキラと輝いている。一房だけ金髪なのは、父親似だった。
今年で五歳になる息子の子珞は誰にも言えない秘密を持っていた。彼には、背に鱗の痣がある。皇太子になるための印。子穂は知っていて、それでいて公表しなかった。子珞が自分の跡継ぎだと公表すれば、狭良が後宮の争いに巻き込まれるのは百も承知のことだからだ。鱗の持たない、子穂の跡継ぎの母親は貴族夏家の娘。対する狭良は島の出の娘。命の危険には晒したくなかった。
「母上、父上はいつ来て下さるのですか?剣の稽古を見ていただこうと約束して下さったのです」
子珞は赤い瞳をクリクリと動かし、無邪気に笑った。
「陛下の御容態が優れないのですよ。暫く待っていれば、陛下のご病状もよろしくないわ」
子春は今春より、病に伏せっていた。
「はぁーい。父上が仰っていたのですが、父上が直々に剣術を教えているのは僕だけなのですって。兄上は別の方に教えてもらっているんです」
それには理由がある。秘密裏のことなのだが、印を持つ子は皇太子から剣術を学ぶという。子穂曰わく、剣術を学ぶのではなく、その精神を学ぶのだそうだが…。剣の扱い方は生まれた時からわかっており、剣を手にすれば、一国は優に潰せるほどだという。その為、その能力を悪用しないように、剣を持つ者の精神を学ぶのだ、と。
「子珞!こんな所に隠れていたのか!? 狭良、…殿下がお越しになられます。お召し物は…?」
子珞の乳母で、狭良が最も信頼している波蘭が言った。子供を産んで直ぐに亡くし、夫とも縁を切った彼女に、子穂は白羽の矢を立てた。年も近い彼女は狭良と直ぐに友人になった。出会った当初、お妃様と呼んだ彼女に名前で呼んでほしいと言ったのは狭良である。そんな高い身分ではないのだ。
「着替えないよ…」
狭良が苦笑した。
「父上がいらっしゃるのですか? やったぁ」子珞の声が響く。
「お迎えに行きましょうか」
彼女は立ち上がった。
「狭良、久しぶり」
子穂は少し疲れているようだった。子珞と波蘭を部屋から出し、二人きりにする。
「えぇ…」
子穂は微かに上を見た。誰かに見張られてる可能性が高いのだ。何かがあったとしても、それは口に出してはいけなかった。
「…手」
狭良は右の掌を差し出した。二人が思いついたのが、掌に二人しかわからない文字を書いて情報を交換し合うというものだ。
(…父上の容態が思っていた以上に悪い。もしかしたら…)
彼の指が止まる。
狭良は何も言わず、子穂を優しく抱きしめた。そして耳に直接「大丈夫」と呟いた。狭良は子穂の瞳を覗きこんだ。
「貴女は国神様からこの国を委ねられているのよ。子珞の父親だもの」
子穂は狭良の頬にそっと手を滑らせた。彼女はゆっくりと瞼を閉じる。
薄く整った唇が狭良の薄紅色の唇に重なる。啄むような口づけを彼らは何度も交わした。扉の外には息を潜めた気配がふたつ。だが、彼らを邪魔することなくそこにいる。
「…今夜はここにいる。久々に政務から抜け出して、ここに来れた」
後宮で嫌がらせを受けた狭良は子珞を産むと同じくして、子穂の別荘…親しい人のみ知る隠れ家に移り住んだ。ここならば、子穂の息がかかった者のみが従事しており、後宮よりは安全だった。
「女の子がほしいわ…」
狭良が寂しそうに笑ったのを子穂は見逃さなかった。
「…どうした? なにかあったのか」
彼女は何も言わずに子穂に口づけた。
このことは子穂にも言えない…勿論子珞にも。波蘭は今頃…。
「愛しているわ」
彼の問いには答えずに、狭良は唇を離してそう言うと子穂は「俺も愛してる」と答えた。
その言葉に狭良は柔らかく笑った。
「…それが聞けてよかった。来世でも貴方の妻になりたい」狭良は物惜しげに呟いた。
「来世…俺が乞食でも妻になってくれるか」
「ばかね…貴方が何者であろうと、私は貴方の妻になるわ」
彼の唇が再び重なってくる。今度のそれは、長く、深く、そして甘いーー。
「…俺が王になったら、正妃にたてるのはお前だ」
息をつき、子穂は狭良の胸に顔を埋めて言った。
「なぁ…」
胸の中で呟いたその言葉に、狭良は「…うん」と呟き返す。何か諦めきれない顔つきに、子穂はこの時気づけなかった。