凍てつく世界(1)
「チッ……問答無用ってわけかよ!」
剣で斬りかかるリージェント。エクセルシアはその一撃をバック転で回避、残したアヴローラの軌跡で薙ぎ払い、両手に拳銃を構築。背後に飛びながら連射する。
同じく両腕に剣を作り、銃撃を回避しながら大回りに飛翔するリージェント。突然の乱入者の出現にミリアムは首を擡げながらその様子を横目に眺めていた。
「リージェント……何故今姿を見せた? 二兎をもとは確かに考えたが、三となれば話は別である。これでは私一人に御しきれる状況にはないな……」
「ミリアム・コールド! 余所見しながらとは余裕じゃない!」
「……この小娘も、片手間に相手をするには厄介な相手になる年頃か……!」
刃を交えるミリアムとルメニカ。そこへミリアム宛に新たな通信が割り込んだ。
「ミリアム。そのトリフェーン、乗っているのはルメニカだね?」
「へっ、陛下……!? 何故こちらに……!?」
モニターには若い男が顔を見せていた。赤い髪と赤い瞳を持つ整った顔立ちの男だ。
「お前の帰りが遅いので様子を見に来たんだ。だが、わざわざ足を運んだ甲斐があった」
ミリアムの背後、戦闘域に入らないように待機しているベルスターの艦隊が見える。そこへ背後から遅れ、大型の戦艦がゆっくりと近づいてきていた。
「姫は丁重に扱えと命じていたはずだが? 直ぐにルメニカを迎え入れる準備をしろ」
「し、しかし……このルメニカ姫が本物であるという保障は……」
「ミリアム。僕の言う事が聞けないのかい?」
失笑であった。優男の甘い声に瞳を震わせるミリアム。僅かに俯き、それから応答する。
「……承知致しました。我が主よ」
笑顔で頷く男の姿が消える。その途端身を乗り出したミリアムは涙目であった。
「ルメニカァアアアッ!! 貴様を丁重に迎え入れろとの命令だあああっ!! 死ね!」
「ちょっ、あんた急にどうしちゃったのよ!? 意味わからないんですけど!?」
「うるさい黙れぇ! 貴様に……貴様に私の気持ちがわかって堪るかあああっ!!」
泣き叫びながら猛攻を仕掛けるミリアム。これまで加減でもしていたとしか思えない程その攻撃は苛烈。ルメニカは剣をさばききれず、トリフェーンにダメージが増えて行く。
「つっ、強い……ってぇ、今度は何よーっ!?」
何とか攻撃を凌いでいたトリフェーンだが、突然動力が切れたかのように脱力してしまう。慌てて立て直そうと試みるも全く言う事を聞いてくれる気配がない。
「ちょっと、整備班の連中何したのよ……って、うわっ!? 予備動力積んでなーい!?」
俗に言う凡ミスであった。通常輝光機はジュリス結晶と呼ばれる物体を動力源としているが、多くの輝光機がその輝光動力だけでは賄えない場合が多く、常にエネルギーをサポートする為、ジュリスから引き出したエネルギーを蓄積させた予備動力を積んでいるのが常である。それがオーバーホールの為外されたままになっていたなんて、気付かない方がどうかしている。
「……ぐすっ。なんだかよくわからぬが好機……このまま連れ去らせて貰うぞ」
鼻声のミリアムがルメニカ機を捉えて反転する。聖はその様子に目を真ん丸くしていた。
「えっ!? 俺がちょっと余所見した間にあの二人に何があったの!?」
「さあ……。なんか泣いてましたね、二人とも……」
「ツッコんでる場合じゃねえ! このままじゃルメニカが……追うぞ、ウルシェ!」
救出に向かうエクセルシア。しかしその前方にリージェントが割り込む。
「くそっ! 俺に何の恨みがあるってんだ……退きやがれってんだよぉっ!」
激突する二機のオリジナル。互いに白と黒のフォゾン光を炸裂させながら睨み合う。そうしている間にベルスター艦隊は機首を逸らし、ラナンキュラスとは別方向に移動を開始する。
「まずいっ、マジで間に合わなくなる……おいお前、聞こえてんだろ!? 俺はダチを助けなきゃならねぇんだ! あいつは……ルメニカは俺達の命の恩人なんだ! 何がなんでも助けなきゃならねぇんだよ! だから……頼む、邪魔をしないでくれ!!」
叫びながら二丁の銃を連射するエクセルシア。その懐に飛び込み、リージェントが掴みかかる。二機が完全な膠着状態に入った時、聖の耳に意外な声が聞こえた。
「……まさか、エクセルシアのライダー……お前……聖……なのか?」
「この声……って、お前……晶か!?」
それはとても懐かしい声であった。互いにとって想定外であった再会、それが二機の動きを止める。瞳を輝かせ見詰め合うオリジナルタイプ。そうしている間にベルスター艦隊が遠ざかって行く。
「しまった……晶、話は後だ! 俺はあいつらを追う!」
「待て聖、お前一人で追跡した所で無駄だ。お前に奴らは倒せない」
「んなもんやってみなきゃわっかんねぇだろが!?」
「いや、わかる。僕はベルスターの戦力を正確に把握している。そして聖……お前とエクセルシアの実力もだ。単純な彼我戦力の計算も出来ないまま、国家を相手に戦うつもりか?」
歯軋りする聖。晶はあの時代のまま、何も変わらず冷静であった。それは聖にとっては嬉しい事なのだが、今はそんな事を喜んでいる場合ではない。
「あいつはダチなんだ、そのダチを見捨てる事は出来ない! 晶、力を貸してくれ!」
「あのトリフェーンのライダー、ルメニカと言ったな。彼女は本当にお前の友達なのか?」
「……どういう意味だ?」
「お前が置かれている状況は、お前が思っているよりも複雑かもしれないという事だ」
丁寧に言い聞かせるように言い、それから手を放すリージェント。二機は闇の中に漂い、お互いを見詰め合う。と、その時二人に通信が入った。
「こちらデヴォンジャー号。ベルスター艦隊は撤退しました。エクセルシア、そしてリージェントと言いましたか。二機のライダーにお話があります」
「ルチリア艦長……そんな事よりルメニカが!」
「無論、承知しています。だからこそ、今は落ち着いて次の手を講じる必要がある……リージェントのライダー、あなたにならそれがわかって頂けるかと思うのですが?」
腕を組むリージェント。それから視線だけで聖に合図する。
「……わかったよ、晶が言うならそうなんだろ。お前も一緒に来てくれるか?」
「ああ。僕にもこのまま立ち去れない理由が出来てしまったからな……」
白と黒の機体はそのままブーケ・ラナンキュラスに入港しているデヴォンジャー号へと向かった。こうしてラナンキュラスでの騒動は一つの区切りを迎えるのであった。
「晶! やっぱり晶だったんだな!」
デヴォンジャー号の格納庫にてリージェントのコックピットを見上げる聖。そこから顔を見せたのは幼馴染の宇動晶であった。その背後にはウルシェと同じブライド用のスーツを身に纏った黒い少女の姿もある。二人は機体からふわりと降り立ち、聖がそれを受け止めた。
「久しぶりだな、聖。最早その言葉が適切なのかどうかすらわからないけど」
「あれから何百年も経ってるらしいからな。しかしお前、一体何がどうなって……」
「――感動の再会を邪魔して申し訳ないのだが、我々も話に混ぜて貰おうか」
二人を待ち受けていたのはデヴォンジャー号のクルー、そしてブーケ・ラナンキュラスの総支配人であるキラとその護衛達であった。彼らの視線が非難的な物であった事は当然の流れであり、聖は振り返り大人しく頷いた。
「わかってる。悪かったなキラ……それに艦長達も。俺のせいでルメニカが……」
「聖、確かに君の行動は軽率であった。結果ルメニカを奪われた事は失態でもある。だが私は君に礼を言いたい。君の善意については理解しているつもりだ。君のお陰でラナンキュラスは問題を抱え込まずに済んだ……支配人として感謝する。だが……」
そう言って表情を変えるキラ。鋭い眼差しの先には晶の姿がある。
「君に関しては話は別だ。何故ベルスター帝国に追われていた? 事情を説明して貰おうか」
「断る。お前達にそんな事を説明してやる義理はない」
「……君の行動の結果、我らは大変な被害を被る所であった。何百何千という人間が死んだかも知れなかったのだ。義理がないとはどのような理屈なのか」
「僕にとってお前らが何人死のうと興味の外だと言っているんだ」
冷淡な言葉に誰もが驚いたが、一番驚愕したのは聖であった。彼の知る宇動晶は確かに冷静な正確ではあったが、ここまで辛辣な物言いをする少年ではなかった。
「おい晶、お前なんて事言うんだよ! 人の命が掛かってるんだぞ!? 悪い事をしたらごめんなさいって謝るのが人間ってもんだろうが!」
「本当に彼女達が人間ならな」
「……どういう意味だ?」
掴みかかろうとする聖の手を振りほどく晶。そこへガードマンが銃を向ける。
「マスター、時間の無駄です。一掃しますか?」
「……構う事はない。僕は聖と話が出来ればなんでも良いからな。手錠でもつけるか? 尤も、再生者相手にそんな事をした所で意味はないと、お前達も分かっているんだろうがな」
笑う晶の姿に露骨に動揺を示す周囲の人間達。その態度が自分に対する物とはあまりにかけ離れている為、聖は終始きょとんと目を丸くしていた。
彼らが晶に向ける目、それはどう考えても忌諱の視線であった。恐怖、不安、迷い……そんなネガティブな思考が透けて見える。だが冷静に考えてみれば、それは自分にも向けられていたのではないか? ただ聖が、それに気付こうとしなかっただけで……。
結局手錠もつけず、聖と晶はデヴォンジャー号にある会議室まで連衡された。そこでデヴォンジャー側からルチリアとガドウィン、そしてラナンキュラスからキラ、彼女らの護衛として数名を同席させ、一種の事情聴取が行なわれる事となった。
「まず、既にこちら側で決まっている情報から伝えよう。ブーケ・ラナンキュラスでは……今後、デヴォンジャー号との取引を中止させて貰う。来航は当然の事、物資の搬入も出来ない」
「当然の判断ね。それをわざわざトップが伝えに来てくれるだけ真摯な対応だと思うわ」
「……すまない、ルチリア。君たちの置かれている状況は十二分に理解しているのだが……私はブーケの管理者だ。その私が日和った判断で全体を危険に晒すわけにはいかないのだ」
申し訳無さそうに頭を下げるキラ。ルチリアは笑顔で首を横に振っている。そんな二人のやり取りが聖にとっては居た堪れなくて仕方がなかった。
「すまねえ艦長、キラ……俺のせいで……」
「あなたのせい、というよりはルメニカのせいなんだけどね。どちらにせよ気に病む必要はありません。反省しているというのであれば、次の機会に活かしなさい」
力強く頷く聖。それから身を乗り出しルメニカに問う。
「それで、ルメニカの奴はどうするんだ!? 助けに行くんだよな!?」
「まだ協議中です。ベルスターに関わるという事は、我々にとっては重要な問題なのです」
「そういやルメニカの奴、あのミリアムってライダーと知り合いみたいだったな。なあ艦長、ルメニカとベルスター帝国ってどんな関係があるんだ?」
聖の問いにルチリアは深く息をついた。本来ならば隠して置きたい……否。隠したまま、そんな事があるのだと悟られないほどに埋めておきたい話であった。だが思えばそれは最初から不可能だったのだろう。ルメニカが彼を目覚めさせたその時から決まっていた事なのだ。
「この状況で無関係を装った所で、あなたは信じてはくれないでしょうね……」
「……聖、君はベルスター帝国について何も知らないのだろう? まずはそこからだな」
咳払いするキラ。そして少女は語り始めた。
「ベルスター帝国は、ラングランジュ4に存在するジュリススフィアコロニーの名だ」
この宇宙にはブーケと呼ばれる移動拠点の他に、単純な居住を目的としたスフィアコロニーと呼ばれる建造物がある。これらは巨大なジュリス結晶を動力源としており、一万人規模の人間が暮らす事が出来る。ブーケと同じくスフィアも大小存在し、多くの場合幾つかのスフィアが纏まって構築されているが、ベルスター帝国はその中でも比較的大規模な国家の一つであり、近年周辺のスフィアを侵略強奪し、加速度的に勢力を拡大しつつあった。
「ベルスターは月と技術提携を結び、最新鋭の輝光機や戦艦を使用して周辺国を制圧している。最近は比較的大人しいが、それも近場に侵略できるスフィアがなくなったからだ」
「ん、んー……要するに悪者って事か? そうなんだな?」
「彼らの行いを悪と断じる事は誰にも出来ないわ。私達は所詮、奪い合う事でしか生きる事の出来ない生き物……世界がそのように出来ている以上、正義は誰の胸にも存在しているのです」
目を閉じたままゆっくりと語るルチリア。聖はわしわしと頭を掻く。
「だけどよ、中立地帯の近くで戦闘したり、ルメニカを拉致したり……やっぱ俺には悪者にしか思えねーよ。少なくとも人の気持ちやルールなんて守れない連中なんだろ?」
ルチリアもキラも何も言わなかった。ただ聖が首を傾げている間に話を進める。
「ともかく、ベルスターは強力な軍事国家だ。バックにセントラル・ルナがついているのも厄介でな。ベルスターを敵に回せば必然、セントラル・ルナと事を構えるという事になる」
「セントラル・ルナ? 月がどうかしたのか?」
「そうか、それも知らなかったのだな。ならば重要な事だ、覚えておくと良い。今この世界では、我々宇宙に住む者達と月に住む者達との間に、強力な確執が存在している」
地球を光に閉ざされた人類は、月とスフィアコロニー、二つの移民先へと分かれた。
だが元々スフィアコロニーは地球脱出計画に含まれていたプランではなく、一部の技術者が宇宙船で脱出した後、こつこつと建設したものである。それに対し月への移民は着実な準備と然るべき段階を踏んで行なわれ、万全の設備と装備を持って移住生活が開始された。
「元より我らと月の民との間には大きな格差があった。こちらは死んで当然の扱いであったが、月の民は選民思想により選ばれた者達……彼らからすれば、我々コロニーやブーケの人間など、存在する価値もない……それこそジャンクと同然だと考えているのだろう」
セントラル・ルナを名乗る月移民政府は、全てのコロニーやブーケを支配下におこうとしている。月の勢力と対立する勢力、その彼我の差を鑑みれば月はあからさまな劣勢にあるはずだったが、現状は月の弾圧に対しコロニー側は明確な立場を示せずにいるのが現状である。
「そもそもセントラル・ルナは、ルナベースという地球に面した基地を中枢とした都市だ。彼らの目的は地球の奪還……そして地球から漂流してくる資源、即ちジュリスの回収にある」
有限の世界であるこの宇宙の状況に対し、僅かながらに供給される資源、それがジュリスである。軌跡は時折地球を覆うフォゾンクロスから爆ぜるようにして宇宙に放出される。その恩恵を最大限に受理出来るのが月のルナベースなのである。
「奴らは地球から与えられる輝石を独占している。我々はそのおこぼれに頂戴し、何とか生きながらえているだけだ。この生活がいつまで持つのか、それさえわからない」
「だったら俺達も地球に行って輝石を回収すればいいんじゃないか?」
聖の言葉にキラは目を丸くする。それは決して彼の凡庸な発想に向けられた物ではない。出会ったばかりの自分達の事を、俺達と括って語った彼の人柄に対してであった。
「それは不可能だ。まず月の連中は我々が地球に近づく事を良しとしない。それに地球の周辺には大量の輝獣がいる。それとまともに戦えるだけの戦力を持っているのはルナベースだけだ」
名目上、月で輝石を独占しているのは地球からの敵を押さえ込み、宇宙の治安を守る為という事になっている。実際それはそうで、だからこそコロニー側も大きく出られなかった。自分達がいつ輝獣に襲われるかわからないのだ。万が一の時セントラル・ルナの支援を受けられなければ、待っているのは死だけである。
「そうか……それで……。悪かったよキラ。俺、お前の事ちょっと冷たい奴だなって思ってた。あの輸送艦を見殺しにしたって。だけど、俺みたいなバカにはわからない事情があったんだな」
歩み寄りキラの手を握り締める聖。そうして深く頭を下げた。
「誤解して悪かった。それと、ルメニカの事……約束守れなくてごめん」
「あ……いや……その……こちらの方こそすまない。力になれずに……」
「いいんだ。自分で蒔いた種だ、自分で何とかする。今度こそ俺に任せてくれよな!」
力強く笑いかける聖。その笑顔にキラは戸惑っていた。晶はそっぽを向いたまま少しだけ嬉しそうに笑い、そしてルチリアは意を決したように口を開く。
「峰岸聖。そのベルスター帝国にあなたは立ち向かうというのですね?」
「そういう事になるのかね? ぶっちゃけさ、そんな話をされても俺にはよくわかんねーんだわ。だから俺はただルメニカを助けに行く。あいつが俺にそうしてくれたようにな」
真剣な表情で拳を鳴らす。その様子にルチリアは微笑みながら告げる。
「良いでしょう。あなたはそのまま、あなたのままで……。ガドウィン、我々も覚悟を決める時です。彼が我々にとっての救世主となるかどうか、共に見届けようではありませんか」
「……本気ですか? それは即ち……」
そこから先の言葉は言わなかった。ガドウィンはただ黙って姿勢を正す。
「それがあなたの決断だと言うのならば」
「ではお話しましょう。ルメニカとこのデヴォンジャー号、そしてベルスター帝国の関係を」
ルメニカが目を覚ました時目の前に見えた物、それは見慣れた天井であった。
慌てて身体を起こす。すると自らの服がドレスに変わっている事に気付く。寝かされていたのはふかふかのベッド。暫くの間思案し、それから最悪の結論へと至った。
「戻って来たんだ……私」
「目が覚めたようだな」
びくりと背筋を震わせ声の方を見ると、そこには窓際に立つミリアムの姿があった。ベルスター帝国近衛隊の隊服を纏った女は長い癖毛の前髪の合間からルメニカを見つめている。
「ミリアム・コールド……ここってまさか……」
「そう。ベルスター本国にある宮殿ですよ、ルメニカ姫。それと、あまり騒いだりしない方が良い。貴様の手足には拘束具が装備されている」
手足につけられたリングはスイッチ一つで合体し拘束具としての機能を発揮するだけではなく、電流を流して行動を阻害する等の機能もある。今の世では比較的ポピュラーな代物だ。
「どういう事? どうして私を殺さずに捕らえたの? しかもドレスって……」
「私の趣味ではない。全ては陛下のご意向である。ごちゃごちゃ抜かしていないで立て。貴様が目覚めたら連れて来るようにとのご命令だ」
こうしてルメニカはミリアムにつれられて宮殿内を歩いた。懐かしい景色。そこはかつてルメニカが暮らした家であり、庭であり、沢山の思い出の詰まった場所であった。
大人しくミリアムに連れられて玉座に向かったのには理由がある。これは彼女にとって窮地であると同時に好機でもあったからだ。このベルスター帝国を支配している人物、彼と直接目通りが叶うのであれば、止まったままの時間を動かせるかもしれない。そう考えたのである。
「やあ、おはようアルメニカ。久しぶりだね。そのドレス、良く似合っているよ」
王座に腰掛けているのだから、当然ながら彼は王である。皇帝、アルヴァート・O・ベルスター。年の頃は二十代前半に見えるが、優しい口調と無邪気な笑顔は少年のようであった。
「お久しぶりです……お兄様」
「そんなに強張る必要はないよアルメニカ。僕は君の嫌がるような事はしない。さあ、もっと近くで顔を見せてくれ。もっと君を傍で感じたいんだ」
言われるままに階段を上がり、段を上げた場所にある玉座に歩み寄る。そんなルメニカにアルヴァートは手を伸ばし、頬を撫で、前髪にそっと触れた。
「アルメニカ……君は相変わらず美しい。この世界で一番と断言出来る」
「お兄様……どうして私を宮殿に呼び戻したのですか?」
「その質問は少し意味がわからないな。呼び戻さないなら僕が君をどうするって?」
「ですから……私を殺して……王位を堅牢な物とするものだとばかり……」
「僕がアルメニカを殺す? この僕が? そんなわけないだろうアルメニカ、悪い冗談はやめてくれ。どんな間違いだとしてもそんな事は在り得ない。僕は君を愛しているのだから」
悲しげに微笑むアルヴァート。この瞬間間違いなくルメニカは動揺した。彼が嘘をついていないと直感的に理解出来たからだ。では。だとしたら。自分はこれまで何をしてきたのか。
「誰がそんな意地悪を言ったんだい? 母さんかな? それともガドウィンかな? どちらにせよそれは悲しい誤解なんだ。僕は決して君を傷つけたりしないよ」
「ですが……しかし……では、どうしてっ!? お兄様はどうしてお父様を殺し、このベルスター王国を奪ったのですか!? お兄様はこの国が欲しくて謀反を起こしたのでは!?」
「それは違う。僕は確かにこの国が欲しかった。だけどそれは手段であって目的ではないんだよ。だからアルメニカ、君は何も心配する事はなかったんだ」
立ち上がり、そして兄は妹を強く抱き締めた。まだ状況が理解出来ず混乱しているルメニカの髪を撫で、香りを楽しみ、兄はうっとりと眼を細める。
「ああ、アルメニカ……会いたかった。君に会いたかった。毎日君を想っていた。僕の愛しいアルメニカ……無事でよかった。本当に本当に……よかった」
「おにい……さま……。私……私は……」
「いいんだよ。二人の間にあった溝は少しずつ埋めていこう。今は疲れているだろうから、ゆっくりとお休み。その手足の枷も外させよう。そんなもの美しい君には無粋すぎる」
「し、しかし陛下、アルメニカ様は……」
苦言を呈した直後、ミリアムは息を呑んだ。抱かれたままのルメニカにはわからなかったが、皇帝の視線は殺気染みた威圧感を孕んでいたのである。
「お、仰せの通りに……致します……」
「この宮殿内では自由に振舞って構わない。何かあればメイドかミリアムに言ってくれ。少し落ち着いたら今後について話し合おう。僕のアルメニカ……それまでゆっくり休んでおくれ」
名残惜しそうに身体を離し、アルヴァートは微笑む。ミリアムはその頃合を見計らい近づくと、ルメニカの手足から枷を外し、ゆっくりと歩き出した。
「……姫様、どうぞこちらへ」
兄に見送られながら妹は踵を返した。宮殿の廊下を歩きながらも考えるのはわけのわからないこの状況の事ばかりで、思い出すのは三年前この場所で起きた悲劇の事ばかりであった。
三年前までルメニカは……アルメニカ・O・ベルスターはこの宮殿で暮らしていた。ベルスター帝国はベルスター王国と言う名で、小さいながらも近隣諸国と友好的な関係を構築していた。王族といえども決して過度に裕福という事はなかったが、それがアルメニカ姫には逆に自慢であった。父王の采配は、民の為に振るわれているのだという確信そのものだったからだ。
今は閑散としている宮殿も、嘗ては人の出入りが多く、商人が露天を開いている事もあった。アルメニカ姫はそんな庶民と当たり前に話し、当たり前に共に生きていた。そんな日常が続くと信じて疑う事すらなかった。
だがそんな日常はあっさりと崩壊した。革命軍を名乗る勢力が各地で蜂起し、あっという間にこの国を奪い去ってしまったのである。アルメニカ姫は側近であった近衛騎士のガドウィンに連れられこの国を逃れた。クーデターの首謀者が兄のアルヴァートであった事。そして父親がこの宮殿で兄に討たれた事を知ったのは、姫がベルスターを逃れた後であった。
「ねえ、ミリアム……。今のこの国を、民はどう思っているのかしら?」
歩みを止めるミリアム。作り物とは言え生い茂る緑の庭園を背景に女は振り返る。
「陛下がこの国を治められるようになってから、国民の暮らしは格段に豊かになった。未だ根強く批判する者達が居るのも事実ではあるが、多くの国民が陛下に賛同しつつある」
「でも、その豊かさは誰かから奪った物に過ぎないわ」
「その通りだ。だがそれ以外にどうやって我々は豊かさを得れば良いのだ? 誰からも奪わずにどのようにして腹を満たし、住処を得れば良い?」
何も言い返せなかった。ただ口を紡ぐルメニカに女騎士は鼻を鳴らす。
「貴様の理想論と陛下の現実論、どちらが民の救いとなるかは一目瞭然である。自らの民に飢えろと強制する王にどんな正義がある。私は認めぬ。故に私は陛下のお言葉を信ずる。あのお方の剣となり盾となり戦って死ぬ事こそ、我が渾身の願いなのだから」
それからルメニカに歩み寄り、鋭く睨み付ける。女はその手を取り、小さな声で告げた。
「……貴様は陛下にとって足枷となりかねん存在だ。だがあのお方が貴様を守れというのであれば命を賭して守ろう。あの方の誠意を、私の忠誠心を無碍にするな。それさえしてくれなければ貴様に危害は加えん。騎士の誇りに誓って、な」
「……ごめんなさい、ミリアム」
「何故謝る。私は謝罪など要求していない。貴様には貴様に相応しい振る舞いという物があろう。運命に抗え。我々はただそうする事でしか人間を名乗れぬ猿なのだから」
手を引いて歩き出す騎士。姫は何を信じ、何を成すべきか、それ今一度己に問う。その揺らぎ続ける答えを掴む事は、今はまだ出来そうにもなかった。