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がたん、ごとん。

 数えてみると(別に数えるまでもないけど)、その車両には全部で九人の乗客が乗っていた。

 電車はまた長いトンネルに入っている。きっと誰もが、今電車が走っている場所なんて分かっていないだろう。

 さっき切符を見て回っていた車掌が言うには、あと二時間くらいで次の駅に着くらしい。時計を確認する今が午前十一時だから。着くのはだいたい午後一時ってところか。

 トンネルに入っている間はずっと手持ち無沙汰で、僕は何度目か分からないけど改めて辺りを見渡してみる。ぬいぐるみの街に向かった時に同じ車両に乗っていた人の姿は、そこには一人もみられなかった。彼らは他の車両に乗っているのか、ぬいぐるみの街に残ったのか……。

 乗客を見回す僕の視線はある男の元でぴたりと止まる。

 今までなんとなく車内を眺めていたときには気づかなかったが、よく見ると怪しい男だった。野球帽を目深にかぶり、口ひげをぼさぼさとはやした汚い風体の男だ。

 僕はどうもその男の顔を見たことがある気がして、記憶をめぐらせてみる。すぐに、僕の頭に過去のとある一場面の風景が思い浮かんだ。

 あれは数何日前にテレビを観ていたときだ。朝の七時ごろ、自分で焼いた焦げたトーストと、自分で焼いた焦げた卵焼きを食べながらニュースを観ていたとき。


『昨夜十一時頃、市川悟さん宅に強盗が押し入り、市川悟(37)さんとその妻美里(33)さんが殺害されました。容疑者は金品を奪って依然として逃走を続けており、目撃証言から警察は近所に住む無職の蓮井達也(34)さんを事情を参考人として捜索しています……』


 僕の右前に座っている男……帽子やひげで顔を隠しても、その特徴的なぎょろりとした目や厚い唇はまさにあの時テレビに映っていた写真と同じものだった。僕は右前の席に座っている男の横顔をもう一度じっくりと見つめて、その顔がハスイ容疑者と同じものだと確信すると同時に、一気に背中に冷や汗が浮くのを感じた。

 彼は膝に乗せた黒いショルダーバックを大事そうに持っていた。僕はその中に生首が詰められているのを想像して身震いしてしまう。

 強盗殺人半が、人殺しがすぐそこにいる。

 全てからも逃げ出すことができる電車。それは辛いことだけじゃない。どこまでもしつこく自分を追ってくる警察からだって、きっと逃げることができるはずだ。

 僕がそわそわとハスイタツヤを見つめたり目を逸らしたりするうちに、不意にそいつが僕のほうを振り返るので、一瞬僕の心臓は本気で止まりかけてしまう。男が僕を見てニヤリと口の端を上げるので、僕はゆっくりと息を吐き出しながら不自然に見えないように視線を窓の外に移した。窓の外ではトンネルの真っ黒な壁が流れていっていた。

 でも僕の目の端は殺人鬼のハスイが立ち上がって僕の方に近寄ってくるのをしっかりと捉えていて、僕は自分の心臓の音に押しつぶされそうになりながら生唾をごくりと飲み込むことしかできなかった。目の横を大粒の汗が伝っていく。

 最悪だ、どうすれば……。


「よう」


 ハスイは本当にどすりと音がするような勢いで窓際に座っていた僕の隣の席に座り、横柄に足を組んで僕に話しかけてきた。体格の良い体から発する体臭がひどく鼻につき、僕はとっさに顔をしかめた。


「さっきから俺のことをちらちら見てるみたいだが、俺の顔に何か付いてるか? あぁ?」

「いえ、別に……」


 僕は何か言おうとするんだけど、口の中がべたついて言葉にならなかった。唾を飲み込む音だけが辺りに響く。誰か、誰か助けて……。僕は車内に視線を走らせるけど、誰もこちらを振り向こうとすらしなかった。

 ハスイのは虫類のようなぎょろりとした目は僕を捉えたまま離さないで、彼はまた僕に向かって話し始める。


「犯罪っていうのはだいたいが、自分の願望とか欲望とかを満たすために行われるもんなんだよな。んで、それがバレて捕まれば多くのものを奪われるが、捕まらなかったら何てことはない。それが詐欺だろうと殺人だろうと、そいつは人ごみに紛れて悠々と暮らしていける。それで本題だ、お前も俺のことを売ろうとしているのか? 俺から自由を奪おうとしてるのか?」


 そう言うハスイの目は、僕が今まで見たことのない種類のものだった。何の感情もなく人を殺せるような、静かで、赤く血走った目。僕はとにかく必死になって首を振ることしかできなかった。


 がたん、ごとん。


 電車にまだトンネルを抜けそうな気配はない。もしここが移動中の電車なんかじゃなかったら、僕はどんなに惨めな手を使ってでもここから逃げ出して、二度とこんな所には近づかないだろう。

 ハスイはそんなことを考えている僕に顔を近づけて(息が臭い!)、僕の目をじいっとのぞき込んだ。そうかと思うと、今度はがはははなんて下品な声を出して笑い始めた。僕は何が起こっているのか分からずに彼を見つめ続けることしかできない。

 ハスイはしばらく馬鹿みたいに笑っていたけど、ピタリと笑うのを止めて、今度は僕の肩に手を回して耳のそばでこう言った。


「ぬいぐるみの街だったか。あの死ぬほどくだらない街で、俺のことを通報するとか騒ぎ立ててた奴がいたから殺した。お前も下手なことをすればどうなるか……言わなくても分かるよな?」


 僕の目には涙がたまった。


「あの……そのくらいにしておいたらどうでしょうか」


 僕が震えながらハスイに向かって馬鹿みたいに頭を前後に振ろうとしたとき、いつの間にか通路に立っていた男はそう言った。

 五十代半ばくらいの、決して強そうには見えない痩せがちな男だったけど、僕は誰かがそこにいるだけでひどく安心することができた。ありがとう神様、なんて心の中で祈ってしまうほどに。


「なんだこの野郎。お前には関係ねーからあっちに行ってろ!」


 僕はせっかく助けに来てくれた男がそのまま怖がってどこかに行ってしまわないかひどく不安になったけど、男はハスイの強い口調にも動じる様子を見せずに、毅然とした態度で言い返した。


「他の乗客の方も見ています。中にはあなたの顔を見たことのある方もいることでしょう。危険なあなたにいなくなってほしいと思っているひとも。ここにいる乗客を全員相手にできますか? 騒ぎになったら、あなたも困るんじゃないですか?」


 ハスイはしばらく男のことを睨みつけていたけど、やがてチッと舌打ちすると立ち上がり、大股で他の車両へと歩いていった。

 僕はひどくほっとして息を吐き出すと同時に、自分の下着がほんのりと湿っていることに気が付いた。あぁ……なんてことだ!


「大丈夫ですか?」

「ありがとう、助かりました」


 男にお礼を言うと、僕は「ちょっとトイレ」と言い残してリュックを抱えると、急いで電車内のトイレに向かった。行動が不自然で男にチビったことがバレたかもしれないけど、そんなことを言っている場合じゃなかった。

 幸いパンツはそこまでびしょ濡れにはなっていなかったけど、僕はそれを洗ってビニールに突っ込むと新しいパンツを穿いてからいそいそと元の車両へと戻った。


「あいつがまた来るといけないから、しばらくここにいていいですか?」


 元の席に戻ると、さっき助けてくれた男がまだ座っていて僕に言った。僕は頷き、もう一度ありがとう、と言う。


「あんな奴が同じ電車に乗っているなんてツイてない。もちろん公にはなっていないけど、ここはもう警察の力が及ばない場所なんですよ。ここで事件に巻き込まれたとしても、災害かなにかに遭ったとして諦めるしかない」


 僕はそこで初めて、そう言う男の顔をじっくりと見た。

 四十代か五十代か分からないけど、前髪が少し後退し、栄養が足りていないのか頬がこけていた。見た目の印象より、僕は彼の話し方からひどく虚ろな印象を受けた。表情に乏しく、空虚な瞳はまるで目の前に立つ人間を吸い込むようで、僕にはまるで死に場所を探しているように感じられた。

 まぁこの電車に乗っている人なんて、皆がそんなものなのかもしれないけど……。


「あなたはどうしてそんなことを知ってるの?」

「私は警察官だったんですよ」

「警察官?」


 そこで一つ、僕には不思議に思うことがあった。僕は男の横顔に問いかける。


「警察官ならどうしてあいつを捕まえないんですか? あいつはハスイタツヤっていう、強盗殺人犯ですよね?」


 その質問に対する男の返事は、ひどく簡単なものだった。


「さっきも言ったけどここでは警察の力は無くなったのと同じだし。私はもう警察は辞めたんだ」

「あぁ……」


 僕は呟くように言う男の言葉にそんな返事しかできずに、ゆっくりと下を向いた。

 男は一言で言うと、暗い男だった。虚ろという印象もそれを更に際だたせる。服装に感心が無いのだろう、皺だらけのポロシャツに染みの付いた綿パン。よく見ると短い無精ひげもあごから耳の辺りをおおっていた。


「私はね、」


 僕がしばらくそうして黙っていると、男は前方を向いたまままるで独り言を言うみたいに話し始めた。


「絶望したんだよ。こういう仕事をしていると、いくつものとんでもない事件に出くわす。親が子を殺す。妻が夫を殺す。老人からお金を巻き上げる。動物を切り刻む……。そういう事件は次々と、まるで蛆が涌いてくるみたいに決して減ることはない。私が一生懸命犯罪を取り締まったり、悪人を捕まえたとしても、ほとんど意味なんかないんだ。だから警察は辞めた。もう疲れたんだ」


 僕は黙って話を聞いていたけど、一つだけ彼にどうしても言っておきたいことがあって、余計なお世話と思いながらもそれを口にした。


「でも、僕を助けてくれたよね。本当に助かったし、嬉しかった。別に犯罪なんて減らせなくても、あなたみたいな人が警察官でいてほしいって思うよ」

「……ありがとう」


 電車内に光が入り込んできたかと思うと、世界は一瞬で光に満ちる。電車がトンネルを抜けたんだ。

 目が慣れるごとに窓の外に見えてきた景色はとても寂しいものだった。

 見渡す限り緑なんてほとんどない、乾いた世界だ。まるで西部劇に出てくる寂れた荒野みたいなその景色は、ここが本当に日本なのかっていうことすら疑わせた。ひょっとしてここは誰かが作ったセットのようなものなのだろうか。いや、ここが名前だけ聞いたことのある鳥取砂丘なのかもしれない。


「すごいな、この国にこんな場所があるなんて」


 男もしきりに驚いたような言葉を口にしている。だけどやっぱり、その言葉はどこか生気に欠けている気がした。もう、疲れたんだ。そんな言葉が僕の頭に蘇った。


「あれは……!?」


 僕は荒野の真ん中にまた巨大なオブジェ(と言っていいんだろうか?)が置かれているのに気付いた。でもそれが何を意味しているか、僕には理解できなかった。そこには先端が輪になった、電車のトンネルほどの大きさがある巨大な縄のようなものが横たわっていて、その縄の先にまた、長さが五六メートルはあろうかという巨大なナイフのオブジェが突き立てられていた。

 それは巨大なナイフで、あの縄を切ろうとしているようにも見えなくもなかった。


「ああ、そういうことか。ここが……」


 隣で男が言ったから僕はとっさにその顔を見上げたけど、彼の表情を見た瞬間に寒気を覚え、声を掛けるのをやめてすぐに窓の外に視線を向けた。

 僕には強張った男の顔が、まるで笑い出すのを必死に我慢しているように見えたんだ。


「当電車はまもなく次の停車駅に停まります。お降りの方はお忘れ物などなさらぬよう~」


 しゃがれ声が電車内に響く。

 窓の外にはいつの間にか、何かをおおい隠すような長い長い金網が進行方向に向かって伸びていた。ここから見る限り線路とは反対方向に婉曲しているようだから、ひょっとすると一つの街をまるまる覆っているのかもしれない。反対側の窓に目をやるけど金網のようなものは見つけられなかった。どうやら金網は片側にしかないらしい。


「もう大丈夫だろうから、私は行きます。私はシミズって言います。さっきの言葉、嬉しかったよ」


 そう言い残して、シミズは電車の震動にふらつきながら元いた席に戻っていった。その少し曲がった背中は僕なんかには想像もつかないような今までの苦労を物語っているみたいだった。

 また一人になるのは少し心細かったけど、僕は一人で決意して一人でここにやってきたんだ。いまさら泣き言は言ってられない。


 がたん、ごとん。


 僕は段々とスピードを落とす電車から、しばらく果てのない金網と緑のほとんどない景色を眺めた。そしてここと全く異なる元の世界の風景がどんな形だったかを思い出してみた。

 思い出した世界は恐ろしくリアルなようで、まるで映画でも観ているようで……。

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