Ragdall Town(4)
夕食の席にタクマの姿はなかった。僕とマツモトは二人、隣同士の席でスプーンと皿がぶつかるかちゃかちゃという音を立てていた。やっぱりここのご飯はすごくおいしい。
タクマがいない理由をマツモトに聞いてみたけど、返答は「今夜は休みだ」という短いものだった。その後にぼそりと呟いた「あの馬鹿が……」という言葉が僕の耳に絡み付いてずっと離れなかった。
それから夕食を食べ終えるまで(今日の夕食はエビフライと白ご飯、かぼちゃのサラダだ)、僕らは何も話さずにただモグモグと口を動かした。語り合うべき話題はあったのだろうけど、僕らはお互いにそれを掴みきれなかったいみたいだ。
「この街は悪くない、悪くないんだ。そう思わないか?」
僕が部屋から出ようとしたとき、食器を片付けていたマツモトは僕の顔を見ずに言った。
「分からない、分からないよ」僕はゆっくりと扉を閉めた。
分からない。僕は本当に分からなかったんだ。誰が正しくて、誰が間違っているのか。どの行動が一番純粋で、どの行動が一番理に適っているのか。この世界と元の世界ではどちらがまともなのかさえも……。
僕は自分が母さんのぬいぐるみを抱いて過ごす姿を想像してみた。ゾッとする反面、想像の中の僕は暖かくてひどく心地良い場所で穏やかに暮らしているみたいに見えた。
九時になる十分前に部屋を出て、タクマとの約束の場所に向かった。
そこにはもうタクマが立っていて、彼は僕を見つけると何も言わずに歩き出した。僕はその後ろを早足でついて歩く。
「俺はおっちゃんのようにお前をこの街に留まらせたい訳じゃない。かといってこの街から出て行って欲しいっていう訳でもない。ただ知って、その上で判断して欲しいだけだ」
前を向いたままタクマは独り言のように言う。僕はその背中に声をかける。
「これからどこに行くの?」
「行けば分かるさ」
「僕以外のここにやって来た人には、その場所のことを教えないの? 電車で一緒になった女の子がいるんだ、よければ彼女にも……」
「ダメだ、お前だけだ」
「どうして?」
「本当なら今から行く場所は、この世界の住人以外に見せちゃいけないことになってる。お前だけに見せるのは、俺がこの街にやって来たときお前と同じくらいの年だったからかな。大した理由じゃないよ」
それきりタクマは何も喋らなくなって、ランタンの灯る通りを二人ただ歩いた。空は相変わらずどんよりとして、やがてぽつりぽつりと小粒の雨が僕の頬を打ち始めた。
タクマは大通りを左に折れて細い路地に入り、そこをしばらく進むと、また左に折れてさらに細く汚い道へを進んでいった。僕は何年も前に置かれたようなポリバケツやら首から綿の出た真っ黒に汚れた赤ん坊のぬいぐるみやらを避けながら、その背中を見失わないように歩き続けた。
雨はいよいよ本降りになってきたけど、アパートのような建物に挟まれた道が細すぎるおかげで僕らはほとんど雨に濡れることはなかった。
「さあ着いたぞ」タクマはそう言って立ち止まった。
そこはまるで地下にあるバーの入口のような場所で、立ち止まった僕らの目の前には地下へと続く暗くて細い階段があった。階段の脇には看板のようなものが立てかけられていたけど、いつからそこにあるのか、その文字はかすれて読み取ることができなかった。
何かの店だとして、今なお営業しているかも怪しい。多くの人は、ここを通りかかってもこんな階段なんて気にも留めずに通り過ぎていくことだろう。
タクマが先に下りろよと手を出して促すから、僕は頷いて、おそるおそるその階段を一歩ずつ下りていった。
階段には雨に濡れた足跡が付けられていて、誰かがついさっきここを通ったことが分かる。
階段をおりきって、僕は固く、重そうな扉の前に立った。塗料の剥げ落ちた扉は、僕に何だか嫌な予感を覚えさせる。
扉を押し開けて中に入ると、急に雨の音は遠ざかり、なんだか世界から追い出されたような気持ちになった。
そこは狭い待合室のような部屋だった。
六畳くらいのタイル張りの部屋の奥はカウンターのようになっていたけど、仕切りがあり奥の様子は伺えなかった。ただ仕切りの一部が切り取られていて、その空いた部分から男の顔が下半分だけのぞいていた。仕切りの横には扉が備え付けられている。
ラブホテルみたいだ、それを見た僕はそう感じた。行ったことはないけれど、僕はラブホテルの受付がそうやって仕切られていてされていて、お互いの顔が分からないようになっていることを知っていた。
仕切りの向こうの人間(妙に声の高いおっさんだ)は僕とタクマが近づいていくと言った。
「いらっしゃいませ」
「ああ」タクマは答える。
「性別と、年齢を」
「女性だ。年は……十三から三十五くらいで頼む」
「身長と体格は?」
「分かんねーよ。その辺は適当でいい」
「……かしこまりました。その他ご希望の身体的条件等ございますか?」
「そういうのもいいよ。どうせ今日は買う気はねーんだ。適当に見せてくれ」
「かしこまりました。12番の部屋にご用意しておきます。ご自由に閲覧ください」
僕にはタクマと男がどういったやり取りをしているのかよく分からなかった。ただ横に立って、緊張してその成り行きをじっと見守っていた。
「用意が整い次第、係の者がご案内します。気に入った体が御座いましたら係の者をお呼びください。その後、顔の相談をお受けいたします」
タクマは頷いてから、混乱する僕を見下ろした。いつもの軽い感じはなく、妙に真剣な表情だった。
「呼ばれたらそこの扉から中に入れ。そう身構えなくたっていい。大したモノがある訳じゃないよ、ただちょっと悲しいモノがあるだけさ」
タクマはどこか遠い目をしていた。何かを思い出しているような、悔やんでいるような、そんな顔だ。あのうるさかったタクマとは別人みたいで、僕は空恐ろしくなった。
すぐに番号を呼ばれ、僕は受付の横にある扉を開いて中に入った。
そこは薄暗くて細長い通路になっていて、等間隔に扉がずうっと並んでいた。同じよう等間隔に並ぶ小虫のたかる蛍光灯が、小さく見えなくなるほどに奥へと続いていた。
すぐに入り口の隣にある扉から片方の眼球の白濁したおじいちゃんが現れた。彼は僕に人のよさそうな笑みを浮かべた。
「12番の部屋にご案内します、こちらにどうぞ」
それだけ言って係の者のおじいちゃんは手前から六番目の扉の鍵を開けてくれた。扉には『12』と書かれたプレートが貼られていた。僕は唾をごくりと飲み込んで、一人その扉の中に入った。
全て裸だった。
そこに並べられた二十数体という女性の体は、どれも一糸まとわぬ姿でただそこに並べられていた。それらの全ての体に首から上の部分、つまり顔がつけられていなかった。
しばらくその光景に圧倒され、ようやくその体に近づいてその陰毛や胸の質感、そして精巧に作られた性器を目にして初めて、部屋に並べられた体が何のために作られているのか気がついた。同時に胸に汚泥が詰まったような、生理的な嫌悪感にも似た気色の悪さを感じて激しく顔をしかめた。裏切られた想いがして、目に涙がたまっていくのを感じた。
その体は男の性的な目的のために作られた体だった。
そうだよ、いくら綺麗な言葉で飾ろうとしても所詮は人間なんだ、僕は思う。だってそうだろう? そりゃ人にもよるだろうけど、ぬいぐるみなんかを抱いているよりはより本人に近い人形を抱いていたいに決まってるんだ。そして多くの男たちは、ただ人形を抱きしめるだけで自分を慰めきることはできないだろう。
僕はそんな人形を一つ一つ眺めていく。そのうちの一つ、左の胸の横にほくろのある人形を見つけた瞬間に、僕の中であの夜の光景がフラッシュバックして不安定だった僕の神経をさらに揺さぶって次第に膝も震えだして心臓が激しく脈動し目頭が燃えるようになった僕はもうそこに立っているだけで精一杯っていう感じだった。
「クソッ。何だよ……何で、何だって俺にこんなモン見せるんだよ!」
悔しかった。この街に住むのも悪くないんじゃないかと思った自分に、この街の人たちの愛情の純粋さを信じ切っていた自分に、どうしようもなく勃起している自分に、ただ無性に腹が立ったんだ。
僕は扉を開けて外へ出ると、部屋の前に立っていたおじいちゃんを睨みつけてタクマの待つ待合室へ向かい、その扉を思い切り蹴り開けた。
タクマは僕の興奮した様子を見て焦ったらしく、弁解するように言った。それがさらに僕を苛立たせるなんて想像もしないで。
「おい、何を怒ってるんだよ。俺はただこの街の上っ面だけで全てを判断するんじゃねぇぞって言いたかっただけだ。ここではな、魂の込められたぬいぐるみ以外に、人の形をしたものを作ることは禁止されてるんだ。なぜだか分かるか?」
うるさい。
「それはどんなに本人に似せた人形を作ったってな、大切な人を失った悲しみは減ったり消えたりすることは無いって分かってるからさ。絶対にな。特にあんな人形とヤっちまった夜には、虚しくて虚しくて本気で死のうかと思ったよ……」
うるさいうるさい。
「ぬいぐるみはリアルじゃない。悲しみを癒し、過去から目を背けるという意味では何よりもちょうどいいんだろう。どうやら町長が魂を呼べるっていうのも、まんざら嘘っぱちっていう訳じゃないらしいしな。それでもこの街の誰もが本当は分かってる、心の底では気づいてしまってるんだ。失ってしまった人はもう二度と戻らないし、悲しみは消えないっていうことを。だからこそ、彼らは泣かずにはいられない」
うるさいうるさいうるさい。
「この街はマトモじゃないんだよ。誰もがその目の焦点を過去に結んでる。やがて行き着く果ては、ぬいぐるみじゃ我慢出来なくなって、愛する人にそっくりな人形を手に入れて抱きしめては、もう二度と会えないっていうことを実感するのさ。思い切り強烈な方法で。そんなのがマトモって言えるか?」
「うるさい!」
僕はタクマを突き飛ばしてそのまま外へと飛び出して階段を駆け上がる。雨はさらに勢いを増していたけどそんなことは知るか。
僕はどしゃ降りの中を目的地もなく走り出す。びしょ濡れの僕は自分が泣いているのかすら分からない、何で泣いているのかすら分からない。ただ僕はどうしようもなくムシャクシャしたこの気持ちを解消する方法を他に知らなかったんだ。
やがて一つ二つ、雨の音に混じって誰かのすすり泣く音か聞こえてきた。僕はさらに苛ついて目の前の壁を思い切り蹴りつける。
「うるせぇ、うるせぇんだよ!」
すすり泣きはやがてまた街を包んでいく。僕は負けないように、そこでただ泣きながら叫び続けることしかできない。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ! いつまでも逃げてんじゃねぇチクショウ。そんなに悲しいならもう死んじまえよ。何だよこの街は、意味分かんねぇよ! うるさい、うるせぇんだよお前らマジで!!」
僕は胸に溜まったやり場のない気持ちをただ吐き出していく。泣いて、暴れて、叫んでいるうちに、ぬいぐるみの街は少しずつ静まっていき、ぬいぐるみの街にはただしとしとと雨の落ちる音だけが残った。
「お前らだけが辛いのかよ。お前らだけが悲しいのかよ。僕だって、誰だって……」
やがて疲れきってぐったりと倒れこんだ僕をタクマが運んでくれたって知ったのは、ホテルの真っ暗な自分の部屋で目を覚ましてからだった。
タクマも泣いていたのだろうか、僕の髪はしっとりと濡れていたけどまだ少し暖かかった。