Ragdall Town(2)
遠くで聞こえる耳障りな音で僕は目を覚ました。
意識がはっきりしてくると、それがドアを叩く音だっていうことに気がついた。いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。
「寝てたのかよ、ひどい顔してるぞ。三階が食堂になってて、もう夕食が用意できてるから顔洗って来いよ」
僕の顔を見てそう言ったタクマは先に階段を上がっていった。
ユニットバスには汚れのこびりついた鏡が置いてあって、確かに僕はひどい顔をしていた。僕じゃない誰かみたいだった。
とりあえず寝ぐせだけ直して、顔を洗うと部屋を出て食堂へ向かった。
食堂は二人掛けの小さなテーブルが三つ置いてあるだけの粗末なものだった。でも僕はホテルペットサウンズの中で唯一、その場所だけがひどく気に入った。
理由は分からないけど、そこはただ汚いだけじゃなくて、どこか人を落ち着かせる秩序のようなものが存在している気がした。よく分からないけど、きっと照明の具合だとか、コーヒーの香りだとか、机の配置だとか……。
テーブルの一つに腰掛けると、すぐにタクマが奥から料理を運んできた。
奥が厨房になってて、きっとあの大男が料理を作っているんだろう。熊みたいな大男ってなぜだか料理が好きなんだ。
「ほいどうぞ。ここ、汚いけど、料理だけはなかなかいいもん出すんだよ」
タクマがそう言って置いていったのは、サラダとグラタンとコーヒーだった。どれもシンプルに見えるけど、なかなか凝った味付けをしているようだった。
「本当に美味しそう。いただきます」
僕がその久しぶりに本当に美味しいって思える料理を味わっていると、タクマと大男もそのうち空いた席に着いて同じ料理を食べ始めた。家庭的っていうか何ていうか……ここはきっとこれでいいんだろう。
「この料理、あなたが作ったの?」
僕はスプーンでグラタンを口に運ぶ大男に聞いてみる。大男は手を止めて、僕の方を見た。
「もちろんそうだ。うちにコックを雇う余裕なんてないしな。どうだい、美味いだろう? そういえば自己紹介がまだだったな、俺はマツモトっつうんだ」
「とても美味しいよ、マツモトさん」
僕がそう言うと、マツモトはわっはっはって豪快に笑った。
「この味が分かるなんて、坊主、なかなか通だな」
「おっちゃんは、料理だけは上手なんだよな」
「うるせぇぞタクマ。お前もこのくらいの料理くらい早く作れるようになりやがれ!」
僕ら三人(っていうかほとんどタクマとマツモトの二人)はそうやって取り留めのない話をしたりしなかったりしながら、皿の上の料理を空にしていった。
「僕はもう部屋に戻るよ。本当に美味しかった、ありがとう。ごちそうさま」
僕が立ち上がると、大男マツモトは急に真剣な顔になって言った。
「最後にひとつだけ言わせてくれ。こっち側に来たお前にはこれから、驚くことや不思議なことがたくさんあると思う。大事なのは冷静に、最良の判断をすることだ」
僕は少し怖くなって、何度か頷き、そのまま食堂をあとにした。
あなたは冷静な判断をしてここに住んでいるの? もちろんそんなことは聞けなかった。
部屋に戻ると僕は急に手持ちぶさたになってしまった。腕時計を見るとまだ時計は八時前。DSでも持ってくればよかったかもな、僕はそんなことを思った。
とりあえず軽くシャワーを浴びて、テレビもラジオもない、ぬいぐるみすらないその部屋で何をするでもなくのんびりとした時間を過ごした。
ぬいぐるみの街、僕の知らない世界、か……。
そのままぼんやりと外を眺めて、窓の外を歩くぬいぐるみを抱えた人や星空なんかを見ていた。
異変に気付いたのは、窓の外に全くといっていいほど人気が無くなった頃だった。時計は九時四十五分を差している。
最初は風の音か何かかと思った。でもその音が少しずつ大きくなっていくにつれ、一つずつ数を増やしていくにつれ、僕はその音の正体に確信を持つようになった。
いくつもの、誰かが鼻をすする音、嗚咽を漏らす音……。それは何人もの人間ががひっそりとすすり泣く声が集まって聞こえてくる音だった。
一つや二つじゃない。その音はいつの間にか何十、何百という厚さになってこの街を、そして僕を包み込み始めていた。
まるで街が泣いてるみたいだ……。
僕はいつの間にか、街中に響くすすり泣きの圧力に震え始めていた。恐怖と、言いようのない心細さに圧迫され、身動きができないほどだった。
僕の頭の中で、妻と娘のぬいぐるみを抱いてすすり泣くマツモトの姿が、僕の切符を見た駅員さんがすすり泣く姿が、トシオちゃんを抱いたおばあちゃんがすすり泣く姿が浮かんでは消えていった。
向き合うことを避けられない、死んだ人との別れを悲しむ人々の姿が容易に想像できた。
僕は布団に潜り込んで目を閉じるけど、街を包み込んだその悲しいすすり泣きが消える気配は無くて、その音はドアや窓のすき間から部屋に入り込んではベッドの中にまで次々と潜り込んできた。
ここは狂ってるよ。僕は必死になって両手で耳を塞ぐ。うるさい! うるさいうるさいうるさい!!
ベッドの中で何度も身をよじっていると、その手に触れる冷たいものの存在に気付き、初めて自分も泣いていることを知った。
「か、かあさ、母さん。母さん」
涙は両方の目からとめどなく溢れ出し、シーツをぐっしょりと濡らしてしまっていた。僕はぬいぐるみを抱く代わりに枕を力強く抱きしめた。枕は暖かく、僕は少しだけ胸がほっとするのを感じた。
「母さん、母さん……」
街中から聞こえるすすり泣きは十二時を過ぎる頃から一つまた一つと減っていき、一時を過ぎる頃にはほとんど聞こえなくなってしまった。
その頃には僕も泣き止んで気分も落ち着いていたけど、昼に少し眠ってしまったせいか全然眠れなくて、悲しみの残るぬいぐるみの街の端っこでなんとなく窓からの景色をただただ眺めた。
真っ暗な景色。もう街灯だって眠る時間だ。
僕は高揚しきっていた気分を抑えるためにチエのことを考えながらマスターベーションをして、罪悪感と陶酔感の中でようやく深い深い眠りに落ちた。
街はしんとしていて、くだらない僕を優しく包んでくれた。気がした。