Ragdall Town(1)
その光景は少なからず僕を(そしてたぶんチエを)驚愕させた。
近づいてきたホームに置かれていたのは、様々な大きさの、数えきれないくらいのぬいぐるみのようだった。プラスチック製の青いベンチの上に、階段の一段目と二段目と六段目に、喫煙所の灰皿の横に……。まるで、僕らを歓迎しているみたいに。そこにあるのが当然のことみたいに。
電車がスピードを落とすにつれてそのぬいぐるみの姿もはっきりとしてくる。肌色の肌に、目と、口と、髪と、耳。手のひらに乗るサイズから人間の子どもくらいのサイズまで、ふわふわして気持ち良さそうなそれは、どれも人間を模して作られたものみたいだった。
ホームには一人の人間もおらず、それがまた僕の不安とも恐怖ともつかない感情を煽る。いくつものぬいぐるみ達の、焦点の曖昧な視線を感じてしまって、僕は自分の腕に鳥肌が立っていくのが分かった。
僕らが一言も口をきけないでいるうちに、電車はゆっくりとホームに停車した。
「ぬいぐるみの街、ぬいぐるみの街~。お降りの際はホームと電車の間が広く開いている場合がございますのでお気を付けください」
ぬいぐるみの街。
確かにそのホームの中央には、『ぬいぐるみの街』と書かれたプレートがかけられていた。次の駅の名前は無い。
プシューとかブシューとかいう音と共に、ぬいぐるみの街と僕らをさえぎっていた電車の扉が開いた。
「どうする?」
「どうするっていっても……」
顔を見合わせておろおろとする僕らの頭の上に、再び車掌のアナウンスが流れ出す。
「この電車は当駅に二日間停留いたします。出発は二日後の午前九時となっております。お乗りのお客様はくれぐれも遅れることのないようにお願いいたします」
「とりあえず、降りましょうか」
チエの言葉に頷いて、僕はリュックを背中に背負って電車から降りた。
そこに置かれたいくつものぬいぐるみを眺めながら、気味の悪いホームを早足で抜けると、改札にはちゃんと普通の駅員さんがいて、僕はなんだかひどく安心した。
四十代半ばくらいの、頭の禿げ上がった駅員さんだった。
自動改札のようなものはなく、どうやらこの街に出る前にここで駅員さんに切符を見せるらしい。
切符をさばきながら駅員さんが言うには、改札を出ても切符を無くさない限りまた電車に乗ることができるそうだ。でも僕らが乗ってきた電車以外の電車には、切符に入れられた鋏の形が違って乗ることができないらしい。
「だからもしこの街を出るのなら、明後日の九時には絶対に遅れないようにしなさい」
念を押すように、最後に駅員さんはそう言った。僕らの後に来ている人たちにも同じように言っているようだ。
駅の出口はすぐそこに見えていた。いろいろと不安はあるけど、僕は自分で決めて電車に乗ったんだ。
「うん」
僕が勢いよく歩き出すと、すぐにチエが服のすそを引っ張るもんだから、僕は何だか出鼻をくじかれたような気分になって立ち止まった。
「何だよ?」
「ちょっと、あれ見てよ」
僕の耳のそばでチエはそう言うと、まだ切符の確認をしている駅員さんの方を指差した。
その指の先は、ちょうど電車の方向を向いた駅員さんの背中をさしていた。お世辞にも広いとはいえない貧相な背中には、小さな赤ん坊のように見えるぬいぐるみがしっかりと紐でくくりつけられていた。
その姿はまるで子どもの面倒を見ながら働く父親のように、僕には見えるのだった。僕はなぜだか、その光景に顔をしかめてしまう。
何か、見てはいてはいけないものを見てしまったような、そんな気がしたんだ。
「……行こうか」
僕らはそのぬいぐるみのことを話題に出すこともなく早足でその場を去り、駅から真っ直ぐ歩いたところにある、噴水のある広場まで来てようやく立ち止まった。
広場にも当然のようにいくつかのぬいぐるみが置かれていた。まるで誰かに似せたみたいに、一つ一つが違っていて、どれも妙にリアルだった。雨ざらしの割にはどれもきれいで、誰かが交換して回っているのかもしれない。
辺りを見回す僕に、チエは真剣な表情をして言った。
「妙な街だけど別に危険はないみたいだし、ここからは別行動にしましょう。私たち別に何の関係も無いわけだし。私、誰かと一緒に行動するのって苦手なのよね」
正直1人にされるのは嫌だったけど、僕は頷く。どうせ最初から一人で来るつもりだったんだ。そもそも自分から話しかけてきたくせにさ。
僕はそんなことを思いながら、遠ざかるチエの小さな後ろ姿を見送った。かわいそうなチエはすぐに、まばらにいる駅から出てきた人たちの影に隠れて見えなくなってしまった。
彼女の姿が完全に消えてしまうと、僕も朝の光を浴びて歩き出すのだった。
駅前ほどじゃないにせよ、街中にもところどころにぬいぐるみが置かれているのを見かけた。子どものぬいぐるみから老人のぬいぐるみまで。
とはいえ、街自体は少し変わっているだけで不自然という程でもなかった。
ランタンが並んでいたりとヨーロッパの街のようにも見えるけど、やっぱりそこは日本だとよく注意すればすぐに分かった。家はレンガ造りの家や古アパートのような建物が目立つ。モダンな雰囲気を取り入れた日本のどこかにありそうな街、そこはそんな街だった。映画の中の古い欧州の街並みを真似ようとしているのかもしれない。
それでも、その街で暮らす人たちは明らかに異常だった。
すれ違うほとんどの人たちが、一つから多くて三つくらいのぬいぐるみを、まるで死にかけのペットを抱えるみたいに優しく抱きかかえて歩いていた。
僕はどうしてもそのぬいぐるみのことが気になって、通りを横切っていたおばあさんを呼び止めて聞くことにした。
「それさ、どうしてぬいぐるみなんて抱いてるの?」
花柄の帽子を被ったおばあさんはまず不思議そうな顔をして、しばらくすると合点がいったとでもいうようにぱちんと手を叩いた。
「あなた、ここに来たばかりなのね。それじゃあ無理もないわ。このぬいぐるみはね、私の大事な一人息子なのよ」
そう言って、おばあさんはにっこりと笑った。まるで少女のような無垢な笑顔だった。
「でもそれ、ぬいぐるみじゃん」
「ほほほ、確かにそう見えるかもねぇ。でも確かにこの子は私の息子で、魂はちゃんとここに入っているのよ。ね、トシオちゃん」
そう言っておばあさんはぬいぐるみの口の端を指で押さえて、ぬいぐるみを無理やり笑わせた。
トシオちゃんが無表情な動かない目で僕を見つめるから、僕はぞっとしてすぐに目を逸らした。
話が通じない人間っているけど、トシオちゃんを抱くおばあさんはそいつらとよく目が似ていた。何かを信じて疑おうとしない、柔和な目。宗教にハマったおばさんをテレビで見たけど、その人もそんな目をしていた。
僕は精一杯の苦笑いを返しながら頭を下げて、その場から逃げ出した。トシオちゃんの笑顔はしばらくまぶたに焼き付いて離れなかった。
子どものぬいぐるみを抱く人、親のぬいぐるみを抱く人、恋人のぬいぐるみを抱く人、ごく稀にだけど犬や猫なんかのペットのぬいぐるみを抱く人もいた。彼らはぬいぐるみを抱いていない僕を訝しそうに眺めながら通り過ぎていくのだった。
僕はひどく嫌な気分を噛み潰しながら通りを歩く。
「さあ、まずは……」
ちょっと早いけど気持ちを切り替えて、今晩の宿を探さないといけない。と、僕はさっき通った細い通りでホテルという文字を見かけた気がしてきた道を戻り始めた。
探し始めて十分もしないうちに、僕はそのみすぼらしいホテルを見つけた。
『Hotel Pet Sounds』
四階建てくらいだろうか、ホテルの茶色のレンガはあちこちが剥げてしまい、窓ガラスのいくつかは割れたまま直されていない。横幅は狭く奥に長く伸びた、奇妙な建物だった。ホテルの名前が書かれた看板が壁に突き刺さっていて、夜になると光るみたいだ。きっとひどく安っぽく。
建物の中は外見に負けることなくみすぼらしくて、どこかすえた臭いも漂っていた。
僕がロビーに入っていくと、狭くて暗いロビーの隅にある、破れて中身の飛び出したソファに座っていた男が顔を上げた。髪の毛を茶色に染めてよれよれのシャツを着た、見るからにだらしない男だった。
「おっちゃーん! おっちゃーん! お客さんだよ」
男が叫ぶと、反対側のカウンターから濃い髭を生やした大男がのそっと出てきて、僕にこっちに来るようにと手招きした。僕は素直にそっちへ行く。
「おいタクマ! 給料やってんだからサボってんじゃねぇぞ。早く部屋の準備してこい!」
大男がそう叫ぶと、タクマと呼ばれただらしない男は新聞を置いてめんどくさそうに奥の階段を上がっていった。
「すまなかったな、この街は来たばかりかい? 二泊で五千円だけどどうする、泊まるかい?」
僕はカウンターの奥の椅子に座らされた、少女とその母親らしきぬいぐるみを見て少し迷ったけど、すぐに決心して頷いた。きっと他のホテルに行ってもここと大差はないはずだ。
「じゃあ決まりだ、ここにサインしてくれ。部屋は201。鍵は渡しておくけど三時までは部屋に入らないでくれ、汚ねぇから。チェックアウトは明後日の八時半、電車に乗るなら電車が出発する九時に間に合うように出てくれ。他に何か分からないことがあれば聞いてくれ」
そう言って大男はカウンターに鍵を置く。僕は紙切れにサインしてお金を払う。
「じゃあまた三時過ぎに来るよ」
僕はそう言い残してそのホテルを出ると、外の新鮮な空気を思い切り吸い込んだ。
そしてほっと息をつくと、そこで初めて落ち着いて、今の自分の状況を冷静に見つめ直すことができた。
どうしてこのタイミングか分からないけど、ここがひとつのこの旅の節目であるような気がしていた。
赤い切符を使って乗った電車は、僕をぬいぐるみの街に運んだ。ぬいぐるみの街……誰もがぬいぐるみを抱えた、どこか哀しい雰囲気の街。
気味は悪いけど、すれ違うぬいぐるみを抱えた人たちの安心したような顔を見ると、あれもあれで悪くないような気がするのも確かだった。
しばらく僕は特に目的もなく街をうろついて、お腹が空けば個人でやってる小さなレストランでパスタを食べて、また目的もなく街をうろついた。もちろんレストランの座席には少女や、老婦人のぬいぐるみが置かれていた。
思っていた通りそれほど大きな街じゃないようで、二時を過ぎる頃には僕はぬいぐるみの街を一通り歩いてしまっていた。
口にするのも恥ずかしいけど、ぬいぐるみの街は僕の想像したような謎の組織も特殊な仕掛けも未確認生物もいない、ただのぬいぐるみの街だった。
足もくたびれてきたし、そろそろホテルに戻るかな……。
そう思って噴水のある公園を引き返そうとしたとき、僕は偶然向こうからやってきたチエとばったり出くわした。
「あら、偶然ね」
「そだね」
「この街、ぶらっと歩いてみたんだけど、なんだか奇妙な街よね。怖いような、どこか懐かしいような……。そういえばモリカワくんは、今日泊まる場所は見つけたの?」
「うん、ペットサウンズっていうボロっちいホテル」
「ペットサウンズ? そんなホテルは見かけなかったわね。私はペニーレインって小綺麗なホテル。二泊分の料金しか取らないとこをみると、私たちみたいに新しくやって来た人たちからお金を取ってやっているホテルみたいね。ここに住んでる人たちはどこか別の家に住んでいるのかしら?」
そういえば特に気にしなかったけど、ペットサウンズも二泊分の料金だったな。僕は髭の大男とだらしない男の顔を思い出した。
「そういえば、あなたも街を回ってみたなら、あの建物を見たでしょ?」
『あの建物』。僕にはチエが言う建物のことがすぐに分かった。
街の中央にある大きな建物だ。バニラ色に塗られた壁に大きな木でできた引き戸の付いた、どこか神聖な雰囲気を持つ不思議な建物。アパートでもなければ、何かの店って雰囲気でもない、まるで知らない国の教会か集会所みたいな……。
「何だろうね、あれ?」
「さあ、私に聞かないでよ」
「まあ、そうだよね」
「そうよ」
「うん」
「それじゃ、そろそろ行くわ。特に必要なさそうだけど、一応気を付けてね」
そう言ったチエの表情はどこか落ち着いていて、何時間か前に見たときよりは随分とリラックスして見えた。相変わらず化粧は崩れたままだったけど。
チエと別れた僕は真っすぐにボロホテルへと向かう。腕時計は二時半を差していた。
ホテルのロビーにはタクマがもう僕を待っていて、ボリボリと頭を掻きながら僕を出迎えてくれた。
「おっちゃんはちょっと買い出しに行ってていない。なんたって久々の客だしな。夕飯ができたら呼びに行くから、それまで部屋で好きに過ごしててくれ」
僕は頷いて、奥の階段をぎしぎしと音を立てて上がる。
二階の一番手前の部屋が僕の部屋だ。奥にも部屋は続いていたけど、元々そういう色なのか汚れなのかすらよく分からない茶色いカーペットの敷かれた廊下を、僕はそれ以上進みたいとは思わなかった。
鍵を差し込んでがちゃりと回すと同時に、目の前につーっと蜘蛛が降りてきて、僕はため息を吐いて蜘蛛を手で払いのけた。
狭い部屋だった。ベッドと小さな丸いテーブルがあるだけの簡素な部屋だ。入り口のそばにドアが一つあるのはユニットバスだろう。とにかくその部屋にあるどれも古臭くて、色がくすんでいて、変な臭いがした。
さすがにシーツは洗っているみたいだけど、それもところどころ破れてしまっている。僕はとりあえずその上に腰を下ろすことにする。
外はいい天気で、少し開いた窓からは気持ちのいい風が入ってきていた。
ぼんやりとするうちに、僕は母さんのことを想っていた。優しくて、まともだった頃の母さんを。
小学校の運動会におにぎりを作りすぎてきた母さんを。終わりそうにない宿題を手伝ってくれた母さんを。父さんと一緒に笑い合う母さんを。綺麗で授業参観に来ると自慢だった母さんを。僕にひどい事を言われて辛そうな顔でうつむく母さんを。よく寝坊して照れたように笑う母さんを。僕のことを忘れてしまった母さんを。
僕はそこでただ、泣き出してしまうのを必死でこらえることしかできなかった。