がたん、ごとん。
「モリカワ君はさ、どうしてこの電車に乗ろうと思ったの?」
アナは下から僕の目をのぞき込むようにしてそう聞いた。どうもそれは彼女のくせのようで、これまでにも何度か彼女はそうやって僕のことをドキドキさせた。
時間は正午を少し過ぎたところ。
山道の中で、電車はもう二時間近くここを動いてはいなかった。僕とアナは退屈を紛らわそうと、さっきから少しずつお互いの話をするようになっていた。
「予期せぬトラブルのために電車が停止しています。しばらくそのままでお待ちください」
もう何度目かになるそんなしゃがれ声のアナウンスが響き、車両に乗った人々はそれぞれ重苦しいため息を吐いたり苛立たしげに貧乏ゆすりをはじめたりした。
車両の中の空気はどんよりと重たくて、僕はほんの少しでいいから外の空気を吸いたくなった。一体僕らはいつまでこうして待っていればいんだろう。
「モリカワ……君?」
「あ、ごめん。どうして僕がこの電車に乗ろうと思ったかだよね」
「話しづらいのなら、無理に話さなくてもいいんだからね」
「そういうわけじゃないんだ。ただ、僕は……」
そこまで言っただけで、僕は早くも言葉に詰まってしまった。
その事実を彼女に伝えることに、僕はもう少しの時間が必要だと感じていたんだ。だってアナと会ってからまだ一日しか経っていない。考えたくないけど、せっかくいい関係を築けそうな僕たちなのに、僕があのことを話すことで二人の間に溝が生まれないとも限らないんだ。
アナにもそれが伝わったのかもしれない。彼女は僕ににこりと笑いかけてから、
「じゃあまず私から話すから、その後に、もしよければあなたも話してね」
僕は少し赤くなって頷いた、恥ずかしくなって。同時に彼女が僕よりもずっと年上のような印象を受けた。見た目は僕の同級生とほとんど変わらないはずなのに。
僕は少し座る位置をずらしてから、隣の席に座るアナの方を向いた。彼女の髪は明るい茶色をしていて、肌がとても白かった。まるでヨーロッパのどこかの子どもみたいだと、僕はそんな風に思う。電車はまだまだ動きはじめそうになかった。
「もうあなたも気づいてると思うけど、私の左手は義手なの。外したところ、見てみたい?」
僕がゆっくりと首を振ると、アナは二度頷いてから続ける。
「たまに聞かれるんだけど、私も生まれたときから左手がなかったわけじゃないのよ。つまり私は人生の過程の一部で、左腕を失っちゃったわけ」
アナは自分の右手で左の義手をゆっくりと撫でた。それはとても精巧で、じっと観察しないととても義手とは分からなかった。
「今からもう二年と……三ヶ月前になるのね。私の左手は骨折を放置していたことが原因で、切断しなくちゃいけなくなっちゃったの。要は血液の流れが悪くなって腕が腐っちゃったのね」
「でも、どうして病院に行かなかったのさ!? 病院に行っていれば切断することもなかったんでしょ」
「病院に連れて行ってもらえなかったのよ。なぜなら病院に行ったら、私の体中にあったあざが病院の先生に見つかって、お父さんが警察に捕まってしまうから」
「ひょとして、アナはお父さんから虐待を……」
僕はそこまで言って、その後に何て言えばいいのか分からず押し黙ってしまう。肝心なときほど、僕は相手にどう声をかけていいか分からなくなっちゃうんだ。クソッ。
「私はお父さんと二人で暮らしていてね、お父さんは普段おとなしい人なんだけど、会社でいやなことがあったりするとたくさんお酒を飲んで、よく私のことを殴ったり蹴ったりしたの。私の腕を折った日も同じようにがぶがぶとお酒を飲んでいたわ。その日はさんざん私のことをぶってから、彼はこう言った。『お前が反応しないから、ぜんぜん面白くない。子どもらしく、泣くとか叫ぶとかしたらどうなんだ!』ってね」
アナは当時のことを思い出すように目をつむると、ゆっくりと静かに息を吐き出してから目を開けた。その額には汗が浮きはじめていた。
「だから私、お父さんに向かって思い切り叫んでやったの。一軒家だし、隣の家まで声が届かないっていうことは分かっていたんだけど、私はお父さんにひどい言葉を叫ぶと同時に、周りに助けを求めていたんだと思う。私は今まで出したこともないような大きな声を出して、数分間も叫び続けたわ。そしたら最初は楽しそうだったお父さんは次第に顔を真っ赤にしていって、私の腕を思い切りつかむと、まるでチューチューアイスを折るときみたいに、ひざを使って私の腕をぼきりと折っちゃったの。知ってる、チューチューアイス?」
「もちろん知ってるよ。夏になると、母さんがよく買ってきてくれた」
「そうそう、おいしいのよね。でも私はそれ以来、チューチューアイスは食べてないわ。そのときのことを思い出して、どうしても割ることができないから。……そうやって私の腕は折れちゃったんだけど、私を病院に連れて行くことはお父さんの破滅を意味していたのよ。私の体には、それはもういたるところにいろんなあざや火傷のあとが残っていたから。だから私は家の中に隠されたの。学校にも遊びにも行かずに、ずっと家の中にいるように、家を出るともっとひどい目にあわせると脅されて」
とてもひどい体験を思い出しているというのに、不思議とアナの表情は穏やかだった。それでも彼女の指先は震え、顔の赤みが少しひいているように見えた。
僕は彼女にこれ以上話をさせていいものか迷ったけど、それ以上に、ここで彼女の話を止めちゃいけないと強く思った。
「腕は痛くはなかったの?」
「もちろん痛かったわよ!」アナは目を見開いて言った。「最初は焼けるように痛くて、父さんが買ってきてくれた痛み止めの薬をラムネみたいにガリガリ噛んで飲んだわ。それでも数時間ごとに意識が無くなるほどの痛みが襲ってくる日々を何日も耐えるうちに、次第に痛みは引いていったの。完全に痛みを感じなくなったときには、私の腕は赤と黒を混ぜたような色に変わっていたわ」
「そんな……そんな風になる前に家を抜け出して病院にいけなかったの?」
「何度もお父さんが仕事に行っている間に病院に、というか警察に駆け込もうと思ったわ。でもお父さんのことを考えると、どうしても行けなかったのよね。だって私が警察に行くとお父さんは犯罪者になって捕まっちゃうのよ。でも私も自分の腕が黒くなってくると、このまま全身が真っ黒になって死んじゃうんじゃないかって本気で怖くなってきて、結局は警察に行くことにしたの。私はそのまますぐに病院に連れて行かれて、そこで左腕を切断することになったわ」
「ひどい!」僕は叫んだ。
「そうね、改めて考えると、確かにひどい話かも。でも話はそれで終わりじゃないの。それから私はお父さんと離れて施設で生活をすることになったのよね。この義手は施設に入ってすぐに、お父さんから送られてきたものよ。彼なりの罪滅ぼしだったんでしょうね、その頃の私はお父さんに対して恨みしか持っていなかったから義手を付けるか迷ったけど、結局いろいろと便利そうだっていう理由で付けることにしたの」
確かに片腕がないだけでとても不便だろう。日常生活の不便さは当然として、人の目線や質問にも耐えなくちゃいけない。
「でもね、その施設でも、片手のない私は受け入れられずにひどいいじめを受けるようになったの。物を隠されたりするのはまだ耐えれたんだけど、義手に『かたわ!』ってラクガキされたとき、私は大泣きしながら幼稚園でもらったはずの赤い切符を探して、逃げ出すことを決意したの。あんなひどい世界から」
アナの話はそれで終わったようだった。僕の腕にはびっしりと鳥肌が浮かんでいた。こう言うとアナは怒るかもしれないけど、僕は彼女に心から同情した。
僕は今まで三つの街を通り過ぎてきて、その中でたくさんの人に会ってきたけど、結局のところ誰の物語も知らなかったんだ。誰がどんな不幸を抱えて赤い電車に乗ったのか、僕はそのほとんどを知らないんだ。
でも今、僕は一人の人間のリアルな物語を知ってしまった。それが僕にはすごくショックで、僕はあらためてこの電車が不幸に耐え切れなかった人間だけが乗る特殊な電車だと意識してしまうのだった。
最後にアナはこう付け加えた。
「この電車に乗ってたどり着くのは、今いる場所よりマシな世界。私だけじゃなくて誰もがそう思って電車に乗るんでしょうけど、実際はそんなことないんじゃないかって、なんとなくだけど、今はそう思うようになったわ」
アナは軽く首をかしげると、自嘲気味に笑った。
そんなアナを見て、僕はどういうわけかまた顔を赤くしてうつむいてしまう。そのときのアナの憂いを含んだ笑みが、ただとても可愛いかったんだ。
窓の外に見える木々の間をタヌキが走り抜けていった。アナがそうしてくれたように、僕がどうしてこの電車に乗ったのか話をしよう、僕はそう決心した。
「復旧作業が終わりました。最終確認をして、あと五分ほどで運行を再開します」
しゃがれ声のアナウンスが途切れると、僕は語りはじめた。
家から父さんがいなくなった日から、赤い電車に乗る決意をした、どしゃ降りの夜までに起きたことの全部を。アナはそれを真剣な表情で僕の言葉を待ってくれた。正直に告白すると、僕は彼女に好意を持ちはじめていた。
「僕の家は僕と父さん、そして母さんの三人暮らしで、とても平凡な家だったんだ。幸せっていう言葉を使うのは少し恥ずかしいけど、特に大きな不安や不満のない、どこにでもあるような家庭だったと思う。ただ一つだけ問題があるとすれば、父さんが会社の同僚と浮気をしていたみたいなんだ。僕がそれを知ったのはずいぶん後になってからなんだけど……」
「思い出すのが辛いなら、無理をしなくてもいいのよ」
僕が口ごもったのを見て、アナがすぐに声をかけてくれる。彼女はまた僕の瞳を下から見上げるようにして、僕は慌てて視線を逸らす。
「ありがとう、僕は大丈夫だよ」
「そう?」
「僕の父さんは、母さんよりもその浮気相手のことが好きだったみたいなんだ。その浮気相手と一緒に暮らしたいと願っていた。僕からすればふざけんな、って話なんだけど、父さんは本気だったみたい。そして浮気相手と一緒になるにはどうしても母さんのことが邪魔だったんだ。だからってそんなバカみたいな、短絡的な決断はないと思うんだけど、父さんは浮気相手と共謀して母さんのことを殺そうとしたんだ。ほんと……冗談みたいな話だよね。詳しくは僕も知らないんだけど、父さんたちは母さんの食事に毒を入れようとしたらしい」
その言葉を聞いた瞬間、アナはひどく顔をしかめた。
それもそのはずだ、もし知り合いに妻に毒を盛ってを殺そうとした父親を持つ人がいたら、是非会ってみたいと思う。そのくらいそれはあり得なくて、考えづらい、浅はかで馬鹿げた行動だった。
「それで、その、モリカワ君のお母さんは……」アナはひどく言いづらそうにそれだけ言った。
「死ななかったよ、父さんたちの計画は失敗したんだ。母さんはあまりのショックにそのことを警察には話す気すら起こらなかったみたいだけど、すぐに父さんは家から逃げ出して、それ以来僕は一度も父さんと会ってはいない。きっとどこかで浮気相手と一緒に暮らしているだろうけど」
「そんなのってないわ」アナはつぶやくように言った。
アナはそれで僕の話が終わったと思ったようだった。考えすぎかもしれないけど、彼女の表情には思ったほどでもなかった、というような安心感にも似た表情が浮かんでいた。
でも僕の本当の悲しみはそこから始まったのだった。僕はためらいながらも、自分の決心に従ってそれを語りはじめた。アナが最初にそうしてくれたように。
「それから僕と母さんの二人での暮らしが始まった。はじめは僕も母さんもひどく落ち込んでいたけど、一月くらい経つとお互い笑顔も見られるようになっていった。慣れない生活だったけど、僕はこのまま母さんと二人でうまくやっていけるかもしれないと思いはじめていた。でも、そのくらいから母さんの行動が少しずつ奇妙になっていったんだ。母さんが僕のことをね、『大介さん』って呼ぶんだよ。僕の名前はイサオで、ダイスケは僕の父さんの名前のはずなのに」
アナは大きな目を見開くようにして、「あなたのお母さんは、あなたのことを自分の夫だと思っていたの!?」
「そうなんだ。母さんは今までそんなことをしてくれたことなかったのに、学校へ行く前に僕のネクタイを結ぶようになったし、僕のお弁当にハート型のおかずを入れるようになった。だから僕は、いつもクラスメイトから隠れるようにしてお弁当を食べないといけなかった。そのときには、僕も母さんの行動を気味悪く思いはじめていたよ。だから図書館で心理学の本なんかを片っ端から読んで、ひょっとすると母さんは父さんから受けた仕打ちが受け入れられないから、そういった行動を取っているんじゃないかって思うようになった」
「そんなことって、本当にあるんだ……」
「それからは、僕も何も言わずに母さんの行動を受け入れることにした。母さんのためにしゃべり方や食事の好みを父さんに似せるようにさえなっていった。でも、僕は父さんを演じながら、心の中で悲しくてたまらなかった。だって母さんの瞳には父さんしか映ってはいないんだ。その瞳の中のどこを探しても、もう僕の姿は見つからなくなっていたんだ!」
アナはもう何も言わずに、ただ真剣な表情をして、時折小さく頷きながら僕の話を聞いてくれた。
同じ車両にいた五六人は、全員が眠っているのか、誰も大きな声を出した僕の方を振り向きはしなかった。
「こんなまともじゃない生活がいつまで続くんだろうってずっと思っていた。でも僕には、誰にも相談できるような人はいなかったんだ。そんな生活が一月半くらい続いたかな……、唐突に、その生活は終わった。ある事件をきっかけにね。
激しい雨の降る夜だった。僕はいつものように自分の部屋で眠っていたんだけど、部屋の入り口から聞こえてきた小さな物音で目を覚ましたんだ。最初は気のせいかと思ったんだけど、雷が鳴ったと同時に、そこに立っている人間のシルエットが浮かび上がった。それは僕の母さんだった。母さんはそのままゆっくりとした動きで、僕のベッドの中に入ってきた」
僕の声は震えはじめていた。目頭が自然と熱くなってきて、手で目を押さえると同時に僕のズボンには涙が落ちていた。
それでも僕は、ここまできて話すのをやめたいとは思わなかった。
「そ、そのとき初めて気づいたんだけど、母さんは何も身に付けていなかったんだ、下着さえも。僕はそのことに気づくと同時に、まるで金縛りにあったように身動きが取れなくなった。今すぐベッドから抜け出して逃げないといけないことは分かっていたんだけど、本当に体が動かなかったんだ。だから母さんが僕の服を脱がせ始めたときも、僕の体のいろんな場所を舐め始めたときも、僕は少しも動くことができなかったんだ。恥ずかしいんだけど、僕はすごく勃起していて、それで、僕は、そのまま母さんの中に……」
搾り出すようにしてそこまで言ったとき、「もういいの」とアナは僕の体をぎゅっと抱きしめてくれた。暖かい右手と冷たい左手で僕の体をきつく抱きしめてくれた。
僕はその力に任せるようにして、アナの小さな胸に顔をうずめた。目からはとめどなく熱い涙が溢れて、鼻水と一緒にアナの服を汚してしまっていたけど、僕はそのまましばらく顔を上げることができなかった。
あの夜、正気を取り戻した僕は裸の母さんを突き飛ばして、泣きながら赤い切符を探して家を飛び出した。
それ以来、ずっと記憶にふたをして思い出さないようにしていた出来事がこぼれ出して、僕は激しく混乱しているようだった。母さんの左の胸の横にあるほくろや、窓に当たる激しい雨の音を思い出して、いつからか僕の体は小刻みに震えていた。それでもどこかスッキリしたような、晴れやかな心持がするのもまた事実だった。
何の合図もなしに電車が走り始め、僕とアナの体は軽く座椅子に押し付けられる。
加速する電車の中、僕とアナはどちらも動かずにしばらくそのままの体勢で電車の振動に合わせて小さく揺れていた。
木々の間を電車は進んでいく。
ようやく僕が落ち着いて顔を上げるのと同時に、電車はようやく木々の間を抜け、現れたのは最後の街だった。
オブジェはなかった、アナウンスすらなかった。電車はいつもより静かに、遠慮がちに僕らを終着駅へと運んでくれた。
その間、僕とアナは強く手を握り合い一度も離すことはなかった。




