がたん、ごとん。(1)
誰もがその赤い切符を持っていたけど、誰もその切符が僕たちをどこに連れていくのか知らなかった。
確かに分かっているのは、その切符は毎週金曜日と土曜日の間の、終電が終わったはずのホームにやってくる寂れた電車に乗るときにしか使えないこと。そしてその電車に乗った人間は今まで一人も戻ってきていないってこと。
そんな都市伝説を具現化したみたいな電車が実在するものだから、電車に関する噂の数はハンパなものじゃなかった。
先週離婚したAの行方が分からなくなったのは、切符を使って過去に行き、別れた奥さんとやり直しにいったんだ、とか。
学校でいじめられまくっていたBが急に学校に来なくなったのは、切符を使ってあの世にいってしまったからだ、とか。
医者から余命三ヶ月を宣告されたCは、切符を使ってどんな病気でも治してしまう仙人の住むところに行ったんだ、とか。
いつも駅前に寝ていた浮浪者のDを急に見かけなくなったのは、切符を使って惑星から惑星へと旅をしながら空缶を拾っているからだ、とか。
信憑性の高そうなものからくだらないブラックジョークまで、そういった噂は絶えることがなかった。
特に小学生だった僕の周りにはそういう噂が腐ってヘドロみたいな臭いを放つほどあって、中にはその電車に乗ったことがあるなんて言いふらす馬鹿もいた。
ただその噂のほとんどに共通していたのは、『傷ついた』人がその場所や状況から『逃げ出す』ために切符を使って、『どこか』へ行ってしまった、ということだった。
僕はそんな色も存在もまともじゃない切符をリュックから取り出して、じっくりと眺めてみる。
赤地に黒い字で書かれた森川勇雄という僕の名前と、『行き』という大きな文字(もちろん『帰り』なんて文字はどこにもない)。切符の端に刻まれた鋏の跡、切符を使ってしまったという証。
「……ふぅ」
揺れる電車の中でそんなものを眺めるうちに、僕は自分が取り返しのつかないようなことをしてしまったような気分になって、ばくばくと弾けそうな心臓を落ち着かせるために切符をリュックの一番奥の方に押し込んだ。
がたん、ごとん。がたん、ごとん。
電車の振動が、窓に引っ付けていた僕の頭を小さく揺らす。窓に映る僕の顔と窓の向こうの景色を一緒に見ながら、僕は最近流行りのJ‐POPソングを小さく口ずさむ。
最近母さんの部屋でよく流れていた曲。もう二度と思い出したくない風景の一部のはずなのに、ふと気がつくと口ずさんでしまっている。
そんな下手くそな歌と一緒に、見たことのない窓の外の景色はどんどん後ろに遠ざかっていき、また新しい知らない景色が現れたかと思うといつの間にか消え、それをくり返すうちに外には木ばかりしか見えなくなってしまった。
この電車は、もう僕の知っている路線なんて走っていないんだろう。
僕がいつも学校に行くときに乗る電車に乗っていたなら、ちょうど今ごろは左手に大きな学習塾が見えてくる頃だし。そこにはただ個性の欠けた木ばかりしかない。
ふと、頭の上に影が落ちる。窓ガラスごしに見える車掌の格好をした男が蛍光灯の光を遮るように立っていて、僕の顔を覗き込んでいた。
「お客様、」
相変わらずのしゃがれ声。僕の切符に鋏を入れた時と同じように、男は紺色の帽子を触りながらゆっくりと言った。
「まもなくこの電車は長い長いトンネルに入ります。もう時間も遅いですし、そろそろお休みになられた方が」
僕は頷く、そして言われたとおり目をつむる。
「辛いことから逃げるのは恥ずかしいことじゃありません。ここにいるあなたを、決して誰も責めることはできないのです」
去っていく前に車掌は言った。僕は目を開けようか迷ったけど、結局あけなかった。眠っているふりは、少し無理があるけど。
まぶたの向こうから影が消え、カツンカツンと足音が遠ざかっていくのを確かめて、僕はまたゆっくり目を開けた。
ぐっすりと昼寝をした日のように、眠れる気がしなかった。そのほとんどがすでに眠りについている、同じ車両に乗る七人の乗客の神経が僕には理解できそうになかった。
若くて綺麗な女の人、サラリーマン風の中年男性、黒いランドセルを背負った子ども……。彼らは本当にどこにでもいそうな姿をしていた。彼らが何年も何年もどこか暗い場所にしまっていた赤い切符を取り出すところを想像すると、僕は何だか愉快な気持ちになってくる。
目の前の黒い窓に、水滴が一粒落ちて流れていった。ひょっとするとまた雨が降り出すのかもしれない。
そんな緩慢な水滴の流れを見ていると、不意に自分が赤い切符を取り出した時のこと(たったの数時間前だ)が一気にフラッシュバックして、僕の愉快な気分なんてすぐに消え去ってしまった。
母さんのかん高い叫び声、花瓶の割れる音、そして僕の激しい息づかいと、降りしきる雨の音……。
僕はふるふると頭を振って、そういったリアリティを全力で頭から追い払った。
雨足は段々と強くなり、電車の天井からはぜるような音が聞こえてきたかと思うとぴたりと雨音はやんでしまった。電車はトンネルに入ったんだ。
少し古いやつみたいだけど、トンネルの中を電車はのんびり快適に進む。やっぱり疲れていたのか、僕
はいつの間にか眠りに落ちていた。