がたん、ごとん。(1)
その少年が僕のいた車両に入ってきたとき、僕は自分の目を疑った。
犯罪被害者たちの街を出発して一時間が経った。
その間、僕は流れ去る緑色や水色の景色をただぼんやり眺めて過ごした。そうすることで心にこびりついた汚れを落としてしまえるような気がして、しばらくは何も考えたくなかったんだ。
でもそんなささやかなひと時も、少年が現れたことによって打ち壊されるだろうことは僕にだって容易に想像ができた。どうしてあいつがここに……? そう考えて僕は長いため息を吐いた。
少年の名前は池田といった。下の名前は覚えてない。僕は中学校の同級生だったその少年のことが、あまり――というより普通に好きじゃなかった。正直に言うと嫌いだった。
目を閉じ、顔を隠すようにしてうつむいたままイケダをやり過ごそうとする僕の気持ちも知らないで、そいつの声は僕の頭上に遠慮なく投げ下ろされた。
「モリカワ君だよね!」
僕はしまった、と思う間もなく顔を上げ、今まさにイケダに気づいたかのように驚いた表情を作ってから言った。
「おぉ! イケダじゃないか」
「本当に偶然だね!」
イケダは僕を見つけて心から嬉しそうな顔をしていた。
ぶ厚いメガネの奥の小さな目はにこやかに垂れ下がり、口角をこれでもかというくらいに上げている。最後に見たときと同じくお世辞にも清潔とはいえない髪は目に刺さるほど長く、鼻の下には相変わらず大きなほくろがくっついていた。
「モリカワ君。ちょっと、ちょっとだけここで待っててくれないかな?」
両手を突き出してそう言い残して、イケダはもと来た道を小走りで駆けて隣の車両に移動してしまった。……一体なんだったんだ?
とにかく面倒なことになってしまった。僕はこれから電車が次の駅に着くまでのこと、それからさらに先のことを考えてまた一つ深いため息を落とした。
イケダはクラスでいじめられていた。
いじめにもいろいろあると思うけど、激しい暴行を受けたり、一生忘れることのできない辱めを受けるような、うんとひどいやつじゃあない。鼻の下のほくろのことで軽口を叩かれたり、使いっぱしりにされたり、仲間外れにされたりといった、僕の知る中では比較的軽度な種類のいじめで、実際殴られたりしている場面は一度も見たことがない。
まぁいじめなんて、具体的に何をされたかっていうよりもその人間を取り巻く雰囲気全体のことを指すんだし、いったいどう感じどれほど傷ついているかはイケダに聞いてみないと分からないんだけど……。
僕がイケダのことが苦手なのは別にいじめられてるからとか、クラスの中心にいるタイラたちがよくふざけて言っていたような、鼻の下のほくろが鼻くそに見えるからとかいったくだらない理由からじゃない。
僕はよくイケダから、中心となってイケダをいじめていたタイラやカネダ、ヒイラギの陰口を聞かされていた。
「タイラは今でこそクラスの王様気取りだけど、将来はまともな仕事に就けないだろう」とか、「ヒイラギはタイラと一緒のときは態度が大きいけど、僕と二人きりになるとビビってる」とか、そういったことだ。
そのときのイケダの顔、なんというかひどく厭ったらしい笑い顔が、僕はどうしても好きになれなかったんだ。
きっとイケダが僕を選んだのは、単純に言いやすかったから。僕は直接的にいじめに加担するでもなく、止めるでもなく、つまるところ見て見ぬフリをすることが多かったし、教室で一人でいることも多かった。つまり根暗だったんだ。
そんなことを考えているうちに、イケダが連結部の扉を開けて隣の車両から戻ってくる。誰だろう? イケダよりも一回りほど小さな少年の手を引いている。
「紹介するよ、こいつは僕の弟のタカフミ。タカフミ、兄ちゃんの友達に挨拶しなさい」
イケダの言葉と、ぺこりと小さく頭を下げるだけのタカフミを見て、僕は自分の意識がふっと遠ざかりそうになるのを感じた。そのくらい、イケダの言った言葉が僕には信じられなかったんだ。
「弟? お前の弟だって? なんでこんな小さな弟なんて連れて来たんだよ。お前だって知ってるだろ。この電車に乗った人間は誰も元の世界に戻ってないんだぞ!?」
僕が(おそらく凄い形相だったろう……で)そうまくし立てると、イケダは少し怯えるような、引きつった笑顔で答えた。
「何をそんなに興奮してるんだよ。タカフミだってあんな弱肉強食の醜い世界でビクビクしながら生きていくよりも、もっと平等な世界で自分らしく生きたほうがいいに決まってるんだ」
僕は彼の言葉に怒りを感じるけど、努めて冷静になろうと一度深く息を吸い込んだ。
ふと振動を感じて窓の外に目をやると、電車は長い立橋の上に差し掛かったところだった。僕は怒りが薄まるにつれ、次第に大きくなる馬鹿らしさを感じながらも、イケダに対して話を続けた。
「自分が中学校でいじめられてるからって、弟まで同じような目に遭うかなんて分からないだろう。それにお前、二人の息子が急にいなくなって、両親がどんな風に思うかとかちゃんと考えたのかよ? そもそも違う世界なんて言うけどな、この電車が向かう先に何があるかなんて、誰にも分からないんだぞ、もちろん僕にだって……」
「いや、僕は確かに聞いたんだ。赤い切符を持って乗り込んだ電車は、いじめや悪口なんかに傷つく必要のない街へたどり着くっていうことを。それに僕の両親のことを問題にするなら、モリカワ君だって同じじゃないか……そうだろう?」
僕は珍しく自信ありげに言うイケダに何も言い返せなかった。それはきっと、僕の誰にも触れてほしくない部分に触れられたから。まぁ、両親のことは僕が最初に言ったんだから、言い返されるのは仕方ないんだけど。
「もう知るかよ、勝手にしろ!」
僕は立ち上がり、しまったというような表情を浮かべるイケダと、無表情で僕を見上げるタカフミの横を通りすぎた。そのとき僕は、初めてしっかりとイケダの弟であるタカフミの顔を正面から見た。正確には、僕の視線は彼の左目で止まっていた。
僕は無性にやるせないような気分になりながら、隣の車両に移動して空いていた席に腰を下ろした。
席に戻った僕は、ぼんやりと二枚の切符――僕と分とチエの分の赤い切符を手でいじりながら考えてみる。おそらくは、小学校高学年くらおであろうイケダタカフミの左目のことを。
そのことを考えると、僕はタカフミをこんな場所に連れてきたイケダの気持ちを、分かりたくもないその気持ちを、少しだけ分かってしまうのだった。
確か『斜視』といったはずだ。
両眼の視線が正しく見る目標に向かわないもの。外見上は片方の目が正しい方向を向いているのに、他の目が内側や外側、あるいは上下に向いている、異常。
あのときタカフミの左目は、正面を見つめる右目とは違う方向、左斜め下を向いていたのだった。それもかなりひどく視線がずれていた。
小学校、あるいは中学校でそういった周りとの違いは、確かに標的になる可能性が高い。僕ら中学生は経験上、皆そのことを知っているはずだ。そのことを考えると、僕はまたひとつため息をつかずにはいられないのだった。
がたん、ごとん。
電車の窓からは先ほどからずっと同じような田園風景が続いていた。誰かが耕したり草取りしたりしているんだろうけど、不思議なことにそこには誰の姿も見えなかった。
ここは本当に日本なんだろうか? 長い長いトンネルを通ったこともあって、僕はすでにそれさえ断言できなくなっていたけど、それはもはやどうでもいいことだった。ここは今まで僕がいた世界とは違う世界だということ。それだけで十分だった。
それからさらに一時間が経ち、例のしゃがれ声の車掌が切符を見に来て、トイレに行くのか中年の男が僕のいる車両を通り抜け、その間、僕はバッグから『ライ麦畑でつかまえて』を取り出して読んでいた。
さらに二十分ほどが経ったときにふと本に影が差し、顔を上げると、そこにはイケダの顔があった。
「ごめんね、さっきは悪かったよ。でもさ、モリカワ君にも分かってほしいんだ。僕らみたいに人と少し違っているっていうことが、周りに馴染めないってことがどういうことなのかをさ」
僕が何も答えないで――答えれらないでいると、イケダは「じゃあまたね」と言って笑顔を浮かべて去っていった。
それはイケダが中学校で僕に見せたことのない種類の笑顔だった。人が純粋に楽しいときに見せるような、まるで爽やかとも呼べそうな……。
遠ざかっていくイケダの背中はやがて向こうの車両に消えてしまう。
「周りに馴染めないってことが、どういうことなのか」
僕は実際そう口に出してみて、その言葉が持つ意味について考えてみた。それでも単純なもので、しばらくするうちに僕は心地よい規則的な振動に揺られて眠ってしまっていた。