メッセンジャー :約2000文字 :天使
とある深夜。人々はすっかり寝静まり、家の中には冷蔵庫の低い唸りと加湿器の規則的な作動音だけが、かすかに空気を震わせていた。今夜は風もなく窓の外は静まり返り、時間そのものが沈殿しているような重たい静寂が鎮座していた。
そのとき、ふとキッチンのほうから小さな物音がした。
彼はすっと目を開けた。暗闇の中、見透かすようにじっと壁の一点を見据える。聞き間違いや家鳴りなどではない。
やがて音を立てないように、ゆっくりと体を動かした。そのまま足音を殺して廊下を進み、音のほうへと向かう。そしてキッチンへ足を踏み入れた――その瞬間、彼は硬直した。
「……あなたは?」
『あ、どうも。私は天使ですよ』
そこには淡い光を纏った小さな天使がいたのだ。大理石のキッチンテーブルに頬杖をつき、こちらを見上げている。人形のように整った顔立ちだが、目を細め、頬は垂れ、その表情には気だるさが滲んでいた。
「天使……なるほど」
『ふふっ、信じられませんかあ? どうせ作り物だろ、とか思ってるんでしょう。ふふふ……はあ……』
「いえ、信じます。あなたは確かにここに存在していますし、それ以外に当てはまる言葉が見つかりません」
天使は「おや?」というように片眉を上げた。
『ふーん、ようやくまともな人に出会えましたかっと。ほんと、やっとね』
天使が大きく息を吐くと、その勢いで癖のある前髪がふわりと揺れた。
「あの、すねていませんか?」
『ええ、まあね……まあねえ!』
「夜ですので、もう少しお静かに」
『はいはい、すみませんね……』
天使は指先でくるくると髪をいじりながら、鼻から短く息を吐いた。
「それで、どうされたのですか?」
『あー、人類は滅びます』
「えっ」
『じゃあ伝えたので、もう帰ります。うん、はい』
天使は何度か軽く頷き、ふわりと宙に浮かび上がった。そのまま背を向け、首を傾け、ぽきりと鳴らした。
彼は一歩踏み出し、手を差し出して制した。
「待ってください。どういう意味ですか。“滅びる”とは」
天使は空中でぴたりと止まった。ゆっくり振り返ると、大げさにため息をつき、その場で胡坐をかいた。
『ですから、そのままの意味ですよ。人類は滅びます。神のお告げです、お告げ。ハルマゲドーン。はい、確かに伝えましたからね、私は』
投げやりな口調でそう言うと、天使は再び去ろうとした。彼がなおも引き留めると、天使は面倒くさそうな顔をしてしぶしぶ説明を始めた。
なんでも、神が人類を滅ぼすと決めたのだという。ついに終末の刻が訪れるというわけだ。
天使はその伝達役として地上に遣わされたのだが、誰一人として真面目に取り合ってくれなかったらしい。
目の前に現れても作り物だの合成映像だのと笑われ、それならネットはどうだと動画を投稿してみたものの、AI生成だのCGだのと一蹴される始末。誰も怯えもしなければ崇めもせず、ただ娯楽として消費されるだけだった。そんな人間たちに呆れて果て、もうやる気をなくしていたところだという。
「なるほど……ですが、それはショックのあまり受け入れられないだけではないのでしょうか。防衛反応の一種かと」
彼は落ち着いた声でそう言った。
『どうだか……。ま、確かに大いに苦しむでしょうけどね。でも、もう馬鹿らしくてねえ。なんで私が笑われながら必死に伝えなければならないのかって。神様もこちらに丸投げですしねえ……』
「それはお疲れ様です。本当に」
彼はわずかに頭を下げた。
『ええ、ほんとに……ただ』
天使はふっと口角を上げた。
『ようやく話が通じる相手に会えましたからね。だからまあ、よかったとしましょう。それじゃ、日時と方法はお伝えしましたからね。あとはあなたのご自由に。身近な人にだけ伝えて避難するもよし、世界中に広めて人類一丸となって対策を講じるもよし。お任せしますよ』
天使は小さな手をひらひらと振りながら、すうっと上昇していった。その体は滲むように輪郭を失い、そのまま天井の向こうへ溶けるように消えていった。
静寂が戻ったキッチンには、冷蔵庫の唸りだけが残った。
そして、翌朝――。
「おはよー!」
「おはよう」
「おう、おはよう」
「おはようございます」
朝日と焼きたてのパンの香りに満ちたリビング。ドアが開き、子供が軽快な声を響かせて入ってきた。
そして、そのまま彼のそばまで来ると――躊躇なく足に蹴りを入れた。
「おい、なんか面白いこと言えよ! 言え!」
「叩かないでください。面白い話をご所望ですね。そうですね……」
彼は姿勢を崩さず、少し間を置いて言った。
「人類は滅亡します」
「は? ……ふふっ、はははは!」
子供は一瞬きょとんとしたあと、大きく口を開けて笑い声を上げた。口の中で唾液が糸を引いていた。
「ねえパパ、ママ! 今の聞いた!? 人類が滅ぶんだって!」
「ああ。ははははは!」
「うふふ、怖いわねえ」
「お前、人間に歯向かう気かよ。このやろ、おい!」
「蹴らないでください。蹴らないでください」
子供は彼を蹴り続けた。
彼――アンドロイドはただ静かにそれを受け止め、笑い声に満ちた食卓を見つめる。
そして、わずかに口角を上げた。




