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呼ばない夫の『愛さない』は、愛の言葉だったのでしょうか?

作者: 夢見叶
掲載日:2026/04/18

 結婚式の朝、夫は私の名を呼びませんでした。


 誓いのくちづけを拒み、神父の問いには目を伏せ、ただ一言、低く告げたのです。


『愛することはない』


 それが、私の結婚でした。


 ――それから、3年。


 辺境伯フェルゼンの屋敷で、私の名を呼ぶ声はありません。


 使用人は『奥様』、夫は――何も。『あなた』『ご婦人』『私の妻』。


 名で呼ばれないまま、3年が過ぎました。


 けれど今朝、書斎から出てきた夫が、3年間で初めて、きちんと私の目を見ました。


 そして言ったのです。


『今夜、付き合ってほしい』


 私の手を取って。温かい指で。


 ――何が、あったのでしょう。


 3年、互いに廊下ですれ違うだけの夫婦でした。食事は別、寝室も別、社交も別。月に一度、領地の報告で向き合う程度。愛されないと告げられた妻が、何を期待するでしょうか。


 慣れたと、思っていました。


 そう、思っていたのです。


『晩餐の前に、庭の四阿へ来てほしい』


 夫は、言い直しました。きちんと、私の目を見て。


 3年、合わなかった視線でした。


『……かしこまりました』


 我ながら驚くほど平静な声でした。3年分の訓練の賜物です。


 夫はうなずき、一度口を開きかけて、やめました。そして去りました。


 残された私が廊下に突っ立っていると、使用人頭のマクス爺やが近づいてきました。


『奥様、お顔の色が』


『マクス。この屋敷では、今日は空が落ちてくるかもしれませんね』


 マクスはしばし沈黙し、


『では念のため、傘をお持ちいたしましょう』


 と言って、静かに下がっていきました。


 彼は60を越えた古参の使用人で、私がこの屋敷に嫁いで最初に親切にしてくれた人です。私が名を呼ばれないことを、彼は一度も話題にしません。


 ――気づいていないわけがないのに。


 誰もが気づいている。


 気づかないふりをしているのは、私だけ、なのでしょう。


 部屋に戻り、夕刻までの時間を縫い物で埋めました。


 母が亡くなる前、最後に私に仕込んだ仕事です。伯爵家の末娘だった私は、姉に全てを譲る立場でしたから、手に職が要りました。


『リリ、花は誰でも愛せる。どんな家でも歓迎される』


 母は、そう言いました。


 リリ。


 それが、私の本当の名前です。


 正式にはリリアーヌ・エインハルト。母だけが、リリと呼びました。


 母が亡くなって、誰も呼ばなくなりました。姉は『次女』、父は『おまえ』、そして夫は――何も。


 針を動かしながら、考えていました。


 なぜ、彼は今朝、私の目を見たのでしょう。



          ◇



 四阿は屋敷の南、楓の木の下にあります。冬でない時期は、美しい場所です。


 まだ3月末、朝の霜が石畳に残っていました。


 夫は、すでに来ていました。


 辺境伯フェルゼンのエドガー。背の高い、無愛想な顔。北の戦線で名を上げた若い将軍。結婚式以来、こうして二人きりで向かい合うのは、初めてです。


『座ってくれ』


 敷き物の上に、湯気の立つ茶器。彼自身が用意したのだと、一目でわかりました。使用人はいません。


『……ありがとうございます』


 腰を下ろすと、夫は、自分で茶を注ぎました。


 湯気の上がる音だけが、しばらく続きました。


『砂糖は2つ。茶葉は濃いめ。――合っているだろうか』


 顔を、上げました。


 それは――私の好みです。誰にも言ったことのない。母が生きていた頃、家で淹れてもらっていた配合でした。


『……はい。合っています』


 声が、少し震えました。


『3年前、嫁入りの目録に、あなたの使っていた茶器があった。把手に焦げ跡のついた、古い物だ。焦げ跡の位置から、左手で淹れる人間だとわかった。そこから、配合を推測した』


 茶器を、持てませんでした。


 手が、震えて。


『――どうして、3年、教えてくださらなかったのですか』


 問いは、勝手に口から出ました。


 夫は、茶を一口飲みました。


『あなたが、俺を呼ばないからだ』


 ……は?


『俺は、妻の名を呼ばない。あなたがそう決めたからだ』


 私は、完全に、固まりました。


『……わたくしが、決めた、とは』


『フェルゼン家の古い掟だ。花嫁が、誓いの席で、先に夫の名を呼ぶ。呼ばねば、夫も呼ばない。――北辺の、慣わしだ』


 心臓が、跳ねました。


『わ、わたくし、そのような慣わし、存じませんでした』


 夫の手から、茶器が滑り落ちそうになりました。


 彼はかろうじて持ち直し、――数秒の沈黙の後、口を開きました。


『……知らなかった、と?』


『知るわけがありません。わたくしは南の生まれです。フェルゼンの慣わしを、誰が教えてくださるというのですか』


 3年分の勢いで、声が出ました。


 夫は、茶器を置きました。ゆっくりと。


 それから、片手で顔を、覆いました。


『……3年』


『……はい』


『3年、俺は――』


 彼は、言葉を切りました。


 私はただ、見ていました。


 いつも無表情な夫の耳が、見る間に、赤く染まっていくのを。


 しばらく、沈黙。


 鳥の声が、楓の枝から降ってきました。


 夫は、やがて、手を下ろしました。


『……続きは、後で話す。――今夜、伯爵家から来客がある。あなたの父君と姉君だ』


 心臓が、再び跳ねました。


『父が、フェルゼンへ?』


『3日前、使者が来た。娘の結婚3年目を祝いたい、と』


 嘘だ、と思いました。


 父は、私の結婚式に来ませんでした。姉が結婚した時は三日三晩祝ったのに、私の時は『辺境へ嫁ぐ娘に、家の金は使えない』と。


 祝う気など、あるはずがありません。


『……何を、しに来るのでしょう』


『分からない。分からないが――』


 夫は、そこで、再び私を見ました。


『あなたの傍にいる。晩餐の席で、ずっと』


 その声は、3年間で一度も聞いたことのない、穏やかさを帯びていました。


 茶が、冷めていきました。



          ◇



 支度のため部屋に戻った私のところへ、マクス爺やが、珍しく早足で現れました。


『奥様、厨房で戦争が起きかけております』


『戦争?』


『料理長が、伯爵家のお好みの野菜料理を急遽仕込みたいと申しまして。しかし旦那様直々のご指示で、奥様のお好きな鴨のコンフィを出すと決まっておりまして』


『……は?』


『料理長は泣いております。3年ぶりに腕を振るえる、と』


 口を、開けました。


『マクス。わたくし、この屋敷で鴨のコンフィを注文したことなど、一度もないのですが』


 マクスは穏やかに頷きました。


『存じております。ですが旦那様は、奥様が3年前の嫁入り荷物の中に、鴨肉の調理書をお持ちだったことを、覚えておいででして』


 ……沈黙。


『マクス』


『はい、奥様』


『傘を、2本、お願いします。空が、落ちてきそうですから』


『かしこまりました』


 マクスは深々と礼をして、下がっていきました。



          ◇



 夜、晩餐の間。


 父は、3年で少し老けたように見えました。姉のシャロンは、嫁いだ侯爵家の紋章入りの扇を手に、いかにも得意げです。


『リリアーヌ。そなた、痩せたか』


 父は、私を見もせずに言いました。


『お父様。お久しぶりでございます』


『辺境は寒いな。ワインがある国で、良かった』


 そう言って、父は夫の方へ向きました。


『婿殿。本日は折り入って、話がある』


 夫は、私の隣に座っていました。普段は離れた席に座る人です。今夜は、私の椅子のすぐ隣。


『何でしょう、義父上』


『娘のことだ。3年、子ができぬようだが――』


 空気が、凍りました。


『フェルゼン家の跡継ぎがおらぬのは、国にとっての損失だ。婿殿も、そろそろ別の手を考えるべきではないかね』


 ――別の手、と。


 姉のシャロンが、扇の陰で微笑みました。


『お父様。わたくし、良い提案がございます』


『ほう、何だ』


『わたくしの夫の弟が、優秀な文官をしておりまして。もしリリアーヌを離縁なさるのでしたら、夫の家で引き取ることも可能ですわ。その、後妻として』


 私は、皿の縁を、見ていました。


 3年前、似たような言葉を聞きました。


『辺境へ嫁げ。姉の代わりだ。どうせ使い道もあるまい』


 父が、そう言いました。


 使い道。


 私の、使い道。


 3年前は『姉の使い道』、今夜は『文官の使い道』。わたくしの職歴は、ずいぶんと華々しくなってきたものだ、と思いました。


 隣の夫が、ワイングラスを置きました。静かに。ですが、卓に、音が。


 誰もが、はっとして夫を見ました。


 夫は、父を、見ていました。


 そして、低く、けれどはっきりと、言いました。


『リリ』


 ……え?


『リリ。頼みがある。この場を、お前に任せていいか』


 名前を、呼ばれました。


 3年、呼ばれなかった、名前を。


 しかも、母しか使わなかった愛称で。


 心臓が、早鐘のようになりました。


 けれど、隣の夫の声は、落ち着いていました。


『お前が、選んでくれ。3年、俺は待っていた』


 ――選ぶ?


『父君たちは、お前に『使い道』があると言った。俺は、お前に対してそういう言葉を使わない。お前がこの屋敷にいたいのか、実家に戻りたいのか、父君の姉御殿の家へ行きたいのか――お前が、選ぶ』


 夫は、そこで、初めて私の目を、3年越しに、見ました。


『俺は、お前の選択に、従う』


 父が、笑いました。


『婿殿、妻は家長が決めるものだ』


『フェルゼン家では、そうしない』


 短い声。


 それが、ナイフのように鋭かった。


『フェルゼン家の嫁は、嫁自身が嫁でいるかを決める。それが北辺の掟だ。――俺は、3年、その答えを待った』


 3年。


 待っていた、と、彼は2度、言いました。


 私は、膝の上で、手を握りしめました。


 そして、立ち上がりました。


『お父様。シャロンお姉様』


 声は、小さかったと思います。けれど、震えては、いませんでした。


『わたくしは、リリアーヌ・エインハルトでは、ございません。3年前から、わたくしはリリ・フェルゼンです』


 父の顔色が、変わりました。


『何を言う。おまえの家は――』


『家は、ここです』


 息を、吸いました。


『夫の傍が、わたくしの家です。3年、そうでした』


 口にして、初めて気づきました。


 そうでした、と。


 マクスは私を奥様と呼びました。料理長は私の注文を聞きました。庭師は、私が好きな花を南の花壇に移してくれました。そして夫は――名を呼ばないまま、私の好みを覚えて、3年、私の選択を、待っていました。


 家でした。


 とっくに、家でした。


 父は、何かを言いかけて――立ち上がりました。


『ならば、知らぬ。おまえは我が家の娘ではない』


『存じております、お父様』


 深く、礼をしました。


『3年前から、娘ではございませんでした』


 姉のシャロンが、扇を閉じる音がしました。


『リリアーヌ。思い上がらないで。結婚式で夫に『愛さない』と言われた女が、一体何を――』


『シャロン』


 父の声が、姉を、止めました。


 初めて、父が、姉を名で叱った声でした。


『今日は、帰ろう』


 姉が、絶句しました。私も、正直、驚きました。父が、姉を叱るのを見たのは、生まれて初めてです。


 ――けれど父は、扉の手前で、立ち止まりました。


『……婿殿』


『はい』


『娘を、よろしく』


 それだけ言って、父は、去っていきました。


 姉は、扉の向こうで侍女に何か早口で告げ、侍女が頷き、馬車の音が屋敷の前庭から遠ざかっていきました。


 残ったのは、静かな晩餐の間と、湯気の立つ鴨のコンフィと、名前を呼んでくれた夫でした。



          ◇



 長い、沈黙の後、椅子にそろそろと腰を下ろしました。


『……コンフィが、冷めてしまいますね』


『そうだな』


『いただきます』


 食事を、始めました。


 夫も、始めました。


 不思議なことに、お腹が、とても空いていました。


『旨いか』


 ぽつり、と夫が、言いました。


『とても』


『良かった』


 沈黙。


 けれど、この沈黙は、3年間の沈黙とは、違いました。


 フォークを置いた後、夫は、ワイングラスの縁を撫でました。


『リリ』


『はい』


『今日、庭の四阿で言ったことを、もう一度、言っていいか』


『……何の、ことでしょう』


『俺は、3年、待っていた』


 彼は、顔を上げました。


『お前が、俺を呼ぶのを』


 心臓が、詰まりました。


『フェルゼン家の掟だ。けれど、俺は、掟のために待ったのではない。――お前の、準備が出来るのを、待った』


『準備』


『3年前、お前は俯いて俺の前に立った。怯えていた。俺は、怯える妻を呼びたくなかった。――俺に呼ばれて、顔を上げる妻が、ほしかった』


 私は、フォークを、置きました。


 手が、震えていました。


『3年、見ていた』


 夫の声は、低く、けれど、ためらいがありませんでした。


『お前が、俺の屋敷に慣れていくのを。マクスの冗談に、小さく笑うのを。庭師に花の名を教えるのを。――刺繍の手が、徐々に屋敷中に広がっていくのを。食堂のカーテン。客間のタペストリー。俺の書斎の、窓辺の花のクッションまで』


 ……あの、クッション。


 2年前、書斎が寒そうだと思って、こっそり置いたものでした。


 気づかれている、と思っていませんでした。


『全部、知っている』


 彼は、言いました。


『お前が、この家で生きているのを、3年、見ていた。――そろそろ、呼んでいいかと、今朝、思った』


 耳が、また、赤くなっていました。


 彼の耳が。


『愛することはない、と言ったのは――』


 私は、声を絞り出しました。


『なぜ、ですか』


『あの誓いの席で、お前は、俺をまっすぐ見なかった。見られなかった。――怯えている女に、『愛する』と誓うのは、暴力だ』


 はっきりと、言いました。


『愛を強いない、という誓いだった』


 ――誓い。


『お前が、俺を選ぶ日まで、俺は愛を強いない。そう、3年前の俺は、誓った。――守った、つもりだ』


 冷めた、お茶のことを、思い出しました。


 焦げ跡の、茶器のことを。


 嫁入り荷物の、調理書のことを。


 書斎の、クッションのことを。


 3年の、すべての、小さなことを。


『……エドガー』


 初めて、呼びました。


 声が、震えました。


『エドガー様』


 夫は、目を閉じました。


 そして、小さく、息を吐きました。


『……3年、待った甲斐が、あった』


 それだけ、言いました。


 私の、手を、握りました。


 温かい、指でした。朝、廊下で取られた時と、同じ温度。いえ、少し高い温度。


『リリ』


『はい』


『愛している』


 3年分の、言葉でした。


『愛することはない、と誓った日から、ずっと』


 私は、答えられませんでした。


 涙が、出ていたからです。


 かすれた声で、ようやく、言いました。


『……わたくしも、です』


 自分でも、驚きました。


 いつからだったのでしょう。


 マクスに傘を頼みながら笑った時でしょうか。書斎にクッションを置いた時でしょうか。――いいえ、たぶん、もっと前。名を呼ばれなくても、毎朝、この屋敷で目を覚まし続けた、3年間の、どこかで。


 夫は、私の手を、額に当てました。


 大きな男が、小さな手の甲に、くちづけました。


『3年、ありがとう』


『……3年、お疲れ様でございました』


 私は、笑いました。


 笑いながら、泣いていました。


 夫の耳は、もう、首まで赤くなっていました。



          ◇



 扉の外で、誰かが、そっと鼻をすする音がしました。


 マクスでした。


『……マクス爺や』


『失礼いたしました、奥様。空が、落ちてきましたもので』


『傘は?』


『3年前から、ずっと、屋根裏に準備してございます』


 私は、夫の手を握ったまま、笑いました。


『マクス。3年の間、ずっと、ご存じだったのですか』


『存じ上げておりました。ただ、旦那様が「掟を破れば妻の選択を奪うことになる」と仰って、お黙りになるように、厳命されておりましたので』


 マクスは、目尻を指で拭いました。


『ですが、もう、黙らずとも、よろしいでしょうか』


『ええ、マクス』


『――奥様』


 彼は、深く礼をしました。


『3年、本当に、お疲れ様でございました』


 私は、うなずきました。


 何度も、何度も。


 マクスは顔を上げて、そして、付け足しました。


『それと、旦那様』


『何だ』


『次の3年は、もう少し早く、屋根を突き破ってくださいませ。使用人一同、お待ちしすぎて腰が抜けかけましたので』


 夫は、咳き込みました。


 私は、とうとう、笑い出してしまいました。



          ◇



 翌朝、楓の下には、霜の代わりに、小さな花が一輪、咲いていました。


 庭師のルカスが、得意げな顔で、教えてくれます。


『奥様がお好きだと仰っていた、南の国の花でございます。2年前、旦那様が種をお取り寄せになりまして』


『……2年前』


『はい。ずっと、芽が出ないので諦めかけておりました。――今朝、3年目の春の始まりに、ようやく、花が』


 3年。


 私の知らないところで、3年、咲くのを待っていた花が、ありました。


 私は、花を見下ろしました。


 それから、屋敷を、見上げました。


 エドガーが、書斎の窓から、こちらを見ていました。


 目が、合いました。


 彼は、小さく、口を動かしました。


 ――リリ、と。


 私は、口の形で、返しました。


 ――エドガー、と。


 3年間、呼ばれなかった名前は、呼ばれて初めて、自分のものになるのだと、知りました。


 名前のある朝が、始まりました。


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