呼ばない夫の『愛さない』は、愛の言葉だったのでしょうか?
結婚式の朝、夫は私の名を呼びませんでした。
誓いのくちづけを拒み、神父の問いには目を伏せ、ただ一言、低く告げたのです。
『愛することはない』
それが、私の結婚でした。
――それから、3年。
辺境伯フェルゼンの屋敷で、私の名を呼ぶ声はありません。
使用人は『奥様』、夫は――何も。『あなた』『ご婦人』『私の妻』。
名で呼ばれないまま、3年が過ぎました。
けれど今朝、書斎から出てきた夫が、3年間で初めて、きちんと私の目を見ました。
そして言ったのです。
『今夜、付き合ってほしい』
私の手を取って。温かい指で。
――何が、あったのでしょう。
3年、互いに廊下ですれ違うだけの夫婦でした。食事は別、寝室も別、社交も別。月に一度、領地の報告で向き合う程度。愛されないと告げられた妻が、何を期待するでしょうか。
慣れたと、思っていました。
そう、思っていたのです。
『晩餐の前に、庭の四阿へ来てほしい』
夫は、言い直しました。きちんと、私の目を見て。
3年、合わなかった視線でした。
『……かしこまりました』
我ながら驚くほど平静な声でした。3年分の訓練の賜物です。
夫はうなずき、一度口を開きかけて、やめました。そして去りました。
残された私が廊下に突っ立っていると、使用人頭のマクス爺やが近づいてきました。
『奥様、お顔の色が』
『マクス。この屋敷では、今日は空が落ちてくるかもしれませんね』
マクスはしばし沈黙し、
『では念のため、傘をお持ちいたしましょう』
と言って、静かに下がっていきました。
彼は60を越えた古参の使用人で、私がこの屋敷に嫁いで最初に親切にしてくれた人です。私が名を呼ばれないことを、彼は一度も話題にしません。
――気づいていないわけがないのに。
誰もが気づいている。
気づかないふりをしているのは、私だけ、なのでしょう。
部屋に戻り、夕刻までの時間を縫い物で埋めました。
母が亡くなる前、最後に私に仕込んだ仕事です。伯爵家の末娘だった私は、姉に全てを譲る立場でしたから、手に職が要りました。
『リリ、花は誰でも愛せる。どんな家でも歓迎される』
母は、そう言いました。
リリ。
それが、私の本当の名前です。
正式にはリリアーヌ・エインハルト。母だけが、リリと呼びました。
母が亡くなって、誰も呼ばなくなりました。姉は『次女』、父は『おまえ』、そして夫は――何も。
針を動かしながら、考えていました。
なぜ、彼は今朝、私の目を見たのでしょう。
◇
四阿は屋敷の南、楓の木の下にあります。冬でない時期は、美しい場所です。
まだ3月末、朝の霜が石畳に残っていました。
夫は、すでに来ていました。
辺境伯フェルゼンのエドガー。背の高い、無愛想な顔。北の戦線で名を上げた若い将軍。結婚式以来、こうして二人きりで向かい合うのは、初めてです。
『座ってくれ』
敷き物の上に、湯気の立つ茶器。彼自身が用意したのだと、一目でわかりました。使用人はいません。
『……ありがとうございます』
腰を下ろすと、夫は、自分で茶を注ぎました。
湯気の上がる音だけが、しばらく続きました。
『砂糖は2つ。茶葉は濃いめ。――合っているだろうか』
顔を、上げました。
それは――私の好みです。誰にも言ったことのない。母が生きていた頃、家で淹れてもらっていた配合でした。
『……はい。合っています』
声が、少し震えました。
『3年前、嫁入りの目録に、あなたの使っていた茶器があった。把手に焦げ跡のついた、古い物だ。焦げ跡の位置から、左手で淹れる人間だとわかった。そこから、配合を推測した』
茶器を、持てませんでした。
手が、震えて。
『――どうして、3年、教えてくださらなかったのですか』
問いは、勝手に口から出ました。
夫は、茶を一口飲みました。
『あなたが、俺を呼ばないからだ』
……は?
『俺は、妻の名を呼ばない。あなたがそう決めたからだ』
私は、完全に、固まりました。
『……わたくしが、決めた、とは』
『フェルゼン家の古い掟だ。花嫁が、誓いの席で、先に夫の名を呼ぶ。呼ばねば、夫も呼ばない。――北辺の、慣わしだ』
心臓が、跳ねました。
『わ、わたくし、そのような慣わし、存じませんでした』
夫の手から、茶器が滑り落ちそうになりました。
彼はかろうじて持ち直し、――数秒の沈黙の後、口を開きました。
『……知らなかった、と?』
『知るわけがありません。わたくしは南の生まれです。フェルゼンの慣わしを、誰が教えてくださるというのですか』
3年分の勢いで、声が出ました。
夫は、茶器を置きました。ゆっくりと。
それから、片手で顔を、覆いました。
『……3年』
『……はい』
『3年、俺は――』
彼は、言葉を切りました。
私はただ、見ていました。
いつも無表情な夫の耳が、見る間に、赤く染まっていくのを。
しばらく、沈黙。
鳥の声が、楓の枝から降ってきました。
夫は、やがて、手を下ろしました。
『……続きは、後で話す。――今夜、伯爵家から来客がある。あなたの父君と姉君だ』
心臓が、再び跳ねました。
『父が、フェルゼンへ?』
『3日前、使者が来た。娘の結婚3年目を祝いたい、と』
嘘だ、と思いました。
父は、私の結婚式に来ませんでした。姉が結婚した時は三日三晩祝ったのに、私の時は『辺境へ嫁ぐ娘に、家の金は使えない』と。
祝う気など、あるはずがありません。
『……何を、しに来るのでしょう』
『分からない。分からないが――』
夫は、そこで、再び私を見ました。
『あなたの傍にいる。晩餐の席で、ずっと』
その声は、3年間で一度も聞いたことのない、穏やかさを帯びていました。
茶が、冷めていきました。
◇
支度のため部屋に戻った私のところへ、マクス爺やが、珍しく早足で現れました。
『奥様、厨房で戦争が起きかけております』
『戦争?』
『料理長が、伯爵家のお好みの野菜料理を急遽仕込みたいと申しまして。しかし旦那様直々のご指示で、奥様のお好きな鴨のコンフィを出すと決まっておりまして』
『……は?』
『料理長は泣いております。3年ぶりに腕を振るえる、と』
口を、開けました。
『マクス。わたくし、この屋敷で鴨のコンフィを注文したことなど、一度もないのですが』
マクスは穏やかに頷きました。
『存じております。ですが旦那様は、奥様が3年前の嫁入り荷物の中に、鴨肉の調理書をお持ちだったことを、覚えておいででして』
……沈黙。
『マクス』
『はい、奥様』
『傘を、2本、お願いします。空が、落ちてきそうですから』
『かしこまりました』
マクスは深々と礼をして、下がっていきました。
◇
夜、晩餐の間。
父は、3年で少し老けたように見えました。姉のシャロンは、嫁いだ侯爵家の紋章入りの扇を手に、いかにも得意げです。
『リリアーヌ。そなた、痩せたか』
父は、私を見もせずに言いました。
『お父様。お久しぶりでございます』
『辺境は寒いな。ワインがある国で、良かった』
そう言って、父は夫の方へ向きました。
『婿殿。本日は折り入って、話がある』
夫は、私の隣に座っていました。普段は離れた席に座る人です。今夜は、私の椅子のすぐ隣。
『何でしょう、義父上』
『娘のことだ。3年、子ができぬようだが――』
空気が、凍りました。
『フェルゼン家の跡継ぎがおらぬのは、国にとっての損失だ。婿殿も、そろそろ別の手を考えるべきではないかね』
――別の手、と。
姉のシャロンが、扇の陰で微笑みました。
『お父様。わたくし、良い提案がございます』
『ほう、何だ』
『わたくしの夫の弟が、優秀な文官をしておりまして。もしリリアーヌを離縁なさるのでしたら、夫の家で引き取ることも可能ですわ。その、後妻として』
私は、皿の縁を、見ていました。
3年前、似たような言葉を聞きました。
『辺境へ嫁げ。姉の代わりだ。どうせ使い道もあるまい』
父が、そう言いました。
使い道。
私の、使い道。
3年前は『姉の使い道』、今夜は『文官の使い道』。わたくしの職歴は、ずいぶんと華々しくなってきたものだ、と思いました。
隣の夫が、ワイングラスを置きました。静かに。ですが、卓に、音が。
誰もが、はっとして夫を見ました。
夫は、父を、見ていました。
そして、低く、けれどはっきりと、言いました。
『リリ』
……え?
『リリ。頼みがある。この場を、お前に任せていいか』
名前を、呼ばれました。
3年、呼ばれなかった、名前を。
しかも、母しか使わなかった愛称で。
心臓が、早鐘のようになりました。
けれど、隣の夫の声は、落ち着いていました。
『お前が、選んでくれ。3年、俺は待っていた』
――選ぶ?
『父君たちは、お前に『使い道』があると言った。俺は、お前に対してそういう言葉を使わない。お前がこの屋敷にいたいのか、実家に戻りたいのか、父君の姉御殿の家へ行きたいのか――お前が、選ぶ』
夫は、そこで、初めて私の目を、3年越しに、見ました。
『俺は、お前の選択に、従う』
父が、笑いました。
『婿殿、妻は家長が決めるものだ』
『フェルゼン家では、そうしない』
短い声。
それが、ナイフのように鋭かった。
『フェルゼン家の嫁は、嫁自身が嫁でいるかを決める。それが北辺の掟だ。――俺は、3年、その答えを待った』
3年。
待っていた、と、彼は2度、言いました。
私は、膝の上で、手を握りしめました。
そして、立ち上がりました。
『お父様。シャロンお姉様』
声は、小さかったと思います。けれど、震えては、いませんでした。
『わたくしは、リリアーヌ・エインハルトでは、ございません。3年前から、わたくしはリリ・フェルゼンです』
父の顔色が、変わりました。
『何を言う。おまえの家は――』
『家は、ここです』
息を、吸いました。
『夫の傍が、わたくしの家です。3年、そうでした』
口にして、初めて気づきました。
そうでした、と。
マクスは私を奥様と呼びました。料理長は私の注文を聞きました。庭師は、私が好きな花を南の花壇に移してくれました。そして夫は――名を呼ばないまま、私の好みを覚えて、3年、私の選択を、待っていました。
家でした。
とっくに、家でした。
父は、何かを言いかけて――立ち上がりました。
『ならば、知らぬ。おまえは我が家の娘ではない』
『存じております、お父様』
深く、礼をしました。
『3年前から、娘ではございませんでした』
姉のシャロンが、扇を閉じる音がしました。
『リリアーヌ。思い上がらないで。結婚式で夫に『愛さない』と言われた女が、一体何を――』
『シャロン』
父の声が、姉を、止めました。
初めて、父が、姉を名で叱った声でした。
『今日は、帰ろう』
姉が、絶句しました。私も、正直、驚きました。父が、姉を叱るのを見たのは、生まれて初めてです。
――けれど父は、扉の手前で、立ち止まりました。
『……婿殿』
『はい』
『娘を、よろしく』
それだけ言って、父は、去っていきました。
姉は、扉の向こうで侍女に何か早口で告げ、侍女が頷き、馬車の音が屋敷の前庭から遠ざかっていきました。
残ったのは、静かな晩餐の間と、湯気の立つ鴨のコンフィと、名前を呼んでくれた夫でした。
◇
長い、沈黙の後、椅子にそろそろと腰を下ろしました。
『……コンフィが、冷めてしまいますね』
『そうだな』
『いただきます』
食事を、始めました。
夫も、始めました。
不思議なことに、お腹が、とても空いていました。
『旨いか』
ぽつり、と夫が、言いました。
『とても』
『良かった』
沈黙。
けれど、この沈黙は、3年間の沈黙とは、違いました。
フォークを置いた後、夫は、ワイングラスの縁を撫でました。
『リリ』
『はい』
『今日、庭の四阿で言ったことを、もう一度、言っていいか』
『……何の、ことでしょう』
『俺は、3年、待っていた』
彼は、顔を上げました。
『お前が、俺を呼ぶのを』
心臓が、詰まりました。
『フェルゼン家の掟だ。けれど、俺は、掟のために待ったのではない。――お前の、準備が出来るのを、待った』
『準備』
『3年前、お前は俯いて俺の前に立った。怯えていた。俺は、怯える妻を呼びたくなかった。――俺に呼ばれて、顔を上げる妻が、ほしかった』
私は、フォークを、置きました。
手が、震えていました。
『3年、見ていた』
夫の声は、低く、けれど、ためらいがありませんでした。
『お前が、俺の屋敷に慣れていくのを。マクスの冗談に、小さく笑うのを。庭師に花の名を教えるのを。――刺繍の手が、徐々に屋敷中に広がっていくのを。食堂のカーテン。客間のタペストリー。俺の書斎の、窓辺の花のクッションまで』
……あの、クッション。
2年前、書斎が寒そうだと思って、こっそり置いたものでした。
気づかれている、と思っていませんでした。
『全部、知っている』
彼は、言いました。
『お前が、この家で生きているのを、3年、見ていた。――そろそろ、呼んでいいかと、今朝、思った』
耳が、また、赤くなっていました。
彼の耳が。
『愛することはない、と言ったのは――』
私は、声を絞り出しました。
『なぜ、ですか』
『あの誓いの席で、お前は、俺をまっすぐ見なかった。見られなかった。――怯えている女に、『愛する』と誓うのは、暴力だ』
はっきりと、言いました。
『愛を強いない、という誓いだった』
――誓い。
『お前が、俺を選ぶ日まで、俺は愛を強いない。そう、3年前の俺は、誓った。――守った、つもりだ』
冷めた、お茶のことを、思い出しました。
焦げ跡の、茶器のことを。
嫁入り荷物の、調理書のことを。
書斎の、クッションのことを。
3年の、すべての、小さなことを。
『……エドガー』
初めて、呼びました。
声が、震えました。
『エドガー様』
夫は、目を閉じました。
そして、小さく、息を吐きました。
『……3年、待った甲斐が、あった』
それだけ、言いました。
私の、手を、握りました。
温かい、指でした。朝、廊下で取られた時と、同じ温度。いえ、少し高い温度。
『リリ』
『はい』
『愛している』
3年分の、言葉でした。
『愛することはない、と誓った日から、ずっと』
私は、答えられませんでした。
涙が、出ていたからです。
かすれた声で、ようやく、言いました。
『……わたくしも、です』
自分でも、驚きました。
いつからだったのでしょう。
マクスに傘を頼みながら笑った時でしょうか。書斎にクッションを置いた時でしょうか。――いいえ、たぶん、もっと前。名を呼ばれなくても、毎朝、この屋敷で目を覚まし続けた、3年間の、どこかで。
夫は、私の手を、額に当てました。
大きな男が、小さな手の甲に、くちづけました。
『3年、ありがとう』
『……3年、お疲れ様でございました』
私は、笑いました。
笑いながら、泣いていました。
夫の耳は、もう、首まで赤くなっていました。
◇
扉の外で、誰かが、そっと鼻をすする音がしました。
マクスでした。
『……マクス爺や』
『失礼いたしました、奥様。空が、落ちてきましたもので』
『傘は?』
『3年前から、ずっと、屋根裏に準備してございます』
私は、夫の手を握ったまま、笑いました。
『マクス。3年の間、ずっと、ご存じだったのですか』
『存じ上げておりました。ただ、旦那様が「掟を破れば妻の選択を奪うことになる」と仰って、お黙りになるように、厳命されておりましたので』
マクスは、目尻を指で拭いました。
『ですが、もう、黙らずとも、よろしいでしょうか』
『ええ、マクス』
『――奥様』
彼は、深く礼をしました。
『3年、本当に、お疲れ様でございました』
私は、うなずきました。
何度も、何度も。
マクスは顔を上げて、そして、付け足しました。
『それと、旦那様』
『何だ』
『次の3年は、もう少し早く、屋根を突き破ってくださいませ。使用人一同、お待ちしすぎて腰が抜けかけましたので』
夫は、咳き込みました。
私は、とうとう、笑い出してしまいました。
◇
翌朝、楓の下には、霜の代わりに、小さな花が一輪、咲いていました。
庭師のルカスが、得意げな顔で、教えてくれます。
『奥様がお好きだと仰っていた、南の国の花でございます。2年前、旦那様が種をお取り寄せになりまして』
『……2年前』
『はい。ずっと、芽が出ないので諦めかけておりました。――今朝、3年目の春の始まりに、ようやく、花が』
3年。
私の知らないところで、3年、咲くのを待っていた花が、ありました。
私は、花を見下ろしました。
それから、屋敷を、見上げました。
エドガーが、書斎の窓から、こちらを見ていました。
目が、合いました。
彼は、小さく、口を動かしました。
――リリ、と。
私は、口の形で、返しました。
――エドガー、と。
3年間、呼ばれなかった名前は、呼ばれて初めて、自分のものになるのだと、知りました。
名前のある朝が、始まりました。




