第1話 労働環境
「どこで道を間違えたのだろう」
そんな湿り気のある後悔が、四十二歳の社会保険労務士・本橋和雄の胸には常に沈殿していた。
その日、和雄は都心の雑居ビルにある薄暗い事務所で、助成金の申請書類を検印していた。窓の外では、今にも泣き出しそうな鈍色の空から、みぞれが降り始めている。
ふと視界が歪んだ。老眼か、あるいは極度の疲労か。瞬きをひとつした瞬間、万年筆の先から溢れたブルーブラックのインクが、デスクの上で意志を持つ生き物のように広がり、和雄の意識を真っ黒な淵へと引きずり込んだ。
次に目を開けたとき、そこは石造りの冷たい牢獄だった。
「……起きたか、『法の番人』殿」
格子の向こうから声をかけてきたのは、革の鎧を纏った、無精髭の男だった。
和雄は混乱した。転生、召喚。昨今の若者が好む娯楽小説の筋書きが脳裏をよぎるが、目の前の光景はあまりに泥臭く、不潔で、そして「事務的」だった。
「お前が持っていたその、カラスの羽のようなペンと、妙に白い紙……。あれに書かれた文字を解読できるのは、この国では選ばれた賢者だけだ」
和雄の手元には、なぜか肌身離さず持っていたビジネスバッグがあった。中には、書きかけの『就業規則』と『三六協定届』。
この「エリュシオン王国」と呼ばれる場所には、魔法も魔物も存在する。しかし、それ以上に蔓延していたのは、騎士団による過酷な徴用と、ギルドによる徒弟制度という名の児童労働、そして「命の値段」が銀貨数枚で決まるという、歪んだ統治だった。
「……ここには、基準というものがないのか」
和雄は震える指でメガネを押し上げた。
召喚されたのは勇者ではない。ただの、労働環境の綻びを埋めることに人生を費やしてきた男だ。
「いいですか。王だろうとギルドマスターだろうと、人を働かせる以上、そこには守るべき『理』がある。
私は剣は振るえませんが、あなたのその不当な拘束と、未払いの『宿直手当』については、異議を申し立てる用意があります」
和雄はバッグから一通の書類を取り出した。それは、この世界の言語に書き換えられた、前代未聞の「労働基準法」の草案だった。
冷たい風が吹き抜ける異世界の街角で、小さな、しかし消えない火が灯ろうとしていた。
それは、魔王を倒すための物語ではない。名もなき人々が、人間としての尊厳を紙とペンで取り戻していく、長く、静かな戦いの始まりだった。




