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どうぞ特別な雨の日を

作者: 唯乃
掲載日:2026/02/26

「――エリス・ラングレイ。貴様との婚約を破棄し、聖女の称号を剥奪する。今この瞬間をもって、貴様を我が国から追放とする!」


 王立神殿の大広間。


 静謐であるはずのその場所に、王太子エドワードの怒声が野卑に響き渡った。


 私は、冷たい石畳に膝をついたまま、その言葉を反芻していた。


 頭上では、かつて私が守り抜くと誓った国の象徴であるステンドグラスが、皮肉にも鮮やかな色彩を私の背に落としている。


「……婚約破棄、ですか。エドワード様、それは私という個人の問題に留まらず、この国の存立に関わる事態であることをご理解の上でのご発言でしょうか」


 私は静かに顔を上げた。


 視線の先には、豪奢な椅子にふんぞり返るエドワードと、その腕に絡みつく実の妹、リリアの姿があった。


「相変わらず可愛げのない女だ。理解しているからこそ言っている。今の我が国に必要なのは、戦地で傷つく兵士を瞬時に癒やす『目に見える奇跡』だ。リリアのように、民の心を直接掴む華やかな光こそが、真の聖女の証なのだよ」


 リリアが、私に向けて憐れみと嘲笑の混じった視線を送ってくる。


「お姉様、そんなに硬い顔をしないで? お姉様の『お仕事』は、あまりにも地味すぎるのよ。毎日毎日、暗い聖堂に引きこもって、空を見上げてぶつぶつ言っているだけ……。そんなの、聖女の仕事じゃないわ」


「リリア。私が抑えているのは、ただの雲ではありません。この国を呪いのように覆い尽くそうとする『魔の低気圧』です。私が祈りを止めれば、この国の空の均衡は崩れ去り……」


「黙れと言っているんだ、この無能が!」


 エドワードが傍らのワイングラスを投げつけた。


 グラスは私のすぐ脇で砕け散り、赤い液体が私の法衣を汚した。


「貴様がやっていることなど、気休めだ。たまたま晴れの日が続いていたのを、自分の手柄にすり替えていただけだろう。リリア、この偽聖女に真の聖女の力を見せてやれ」


 リリアがうっとりと目を閉じ、手をかざす。


 瞬時に、神殿の柱に絡みついていた枯れ蔦から新芽が吹き出し、貴族たちが歓声を上げる。


「ああ、なんと素晴らしい!この癒しの力こそ、聖女の奇跡だ!」


「それに比べてエリス様は……法衣の下に隠して、どれだけの税を食い潰してきたことか」


 心無いささやきが、私を突き刺す。


 私はこの十年間、一人で巨大なダムを素手で押し止めるような絶望的な作業を続けてきた。


 この肥沃な大地を守るために。


 だが、その「何も起きない平和」という最高の結果こそが、私を「無能」と定義させてしまった。


「……承知いたしました。エドワード様、リリア。皆様が、そこまで『普通』を嫌われるのでしたら」


 私は震える手で、十年間片時も離さなかった聖女の杖を床に置いた。


「後のことは、存じ上げません。私が繋ぎ止めていたこの国の『平穏』を、どうぞ皆様で、傘でも差して守り抜いてください」


「ふん、負け惜しみを。衛兵! この女を、今すぐ国境の外へ叩き出せ。二度とその汚らわしい顔を見せるな!」


 私は乱暴に腕を掴まれ、引きずられるようにして神殿を後にした。


 馬車に揺られ、国境の門が背後に消えるその瞬間まで、私は指先に残る魔力で、最後のリミッターを保持し続けていた。

 それが私を育ててくれたこの国への、最後の情けだった。


 だが。


 国境のラインを一歩越え、馬車が隣国の土を踏んだ瞬間。

 私は、自分を縛り付けていたすべての制約を解き放った。


「―さようなら。あなたたちの望んだ『特別な日』が、始まりますわ」


 抜けるような青空だった王都の天頂に、ほんの僅かな翳りが出現し始めた。





 エリスが去ってから一週間。


 王都を覆う雲が一度も切れることはなかった。


 最初は誰もが「聖女の交代を祝う恵みの雨だ」と口にしていた。


 だが、雨はいつまで経っても止まない。


 王宮の執務室。

 エドワード王太子は、書類をめくる指先が湿っていることに不快感を隠せなかった。


「……またか。この部屋の壁紙、またカビが生えているぞ」


 窓の外は、今日も鉛色の空から絶え間なく水滴が落ちている。


「聖女リリアは何をしている。神殿に籠もって祈っているのではないのか?」


「それが……」


 側近が言葉を濁す。


「リリア様は『浄化』の奇跡を連日行っておられますが、追い付かないのです。王都中のパンが、焼いても一日で糸を引くようになり、下水からは泥水が逆流し始めています。民の間では、不治の咳を伴う風邪が流行りだしました」


「リリアに、もっと力を出せと言え! 聖女だろう!」


 エドワードは苛立ちをぶつけるように、湿ってふやけた書類を机に叩きつけた。


 彼が「傘をさせばいい」と言い放った雨は、今や傘を突き抜け、人々の生活の根底を腐らせていた。


 季節が巡り、本来なら雪が降るはずの冬になっても、空はただ冷たい雨を降らせ続けた。


 太陽が顔を出さない半年間で、万物が湿った冷気に蝕まれていた。


「殿下……、もう、まきが燃えません」


 料理長が震える声で告げた。


「森の木々は水分を吸いすぎて、切り出しても煮炊きに使える状態ではないのです。民は冷たい泥水のような粥を啜り、王宮でも温かい食事を出すのが難しくなっております」


 エドワードが食堂を見渡せば、隣に座るリリアは見る影もなくやつれていた。


「エドワード様、もう嫌ですわ……。お肌は荒れるし、ドレスは全部カビ臭いし……。私の力は、傷を塞ぐことはできても、この『湿気』を消すことはできないんですもの……!」


 リリアが放つ黄金の光は、確かに美しい。だが、それは一瞬の輝きに過ぎない。


 エリスがかつて、二十四時間、三百六十五日、無意識に、そして無報酬で提供し続けていた「晴天」という名の奇跡。それが失われた代償は、金貨をいくら積んでも購えるものではなかった。


 運命の一年が過ぎた。


 窓の外に広がるはずの豊かな田園風景は、今や見る影もない。


 王宮の会議室。


 そこに集まった重臣たちの顔には、かつてエリスを嘲笑った傲慢さは微塵もなかった。


 全員が、カビの生えた重苦しい正装に身を包み、絶望を待っていた。


 農務官が、震える手で最後の一枚となった羊皮紙を広げる。


「報告いたします。……国中の種籾たねもみはすべて、倉庫の中で発芽、あるいは腐敗しました。土壌は一年間の浸水により完全に酸欠状態であり、もはや何を植えても育つことはありません」


「……それで? 収穫はどうなる」


 エドワードの声は枯れていた。


「今年の収穫は……例年の一割以下です。昨年の備蓄も底を突きました。あと一ヶ月もすれば、王都に一粒の麦も残らなくなるでしょう。……殿下、我が国は、餓死者で溢れる地獄となります」


「バカな……! 聖女を替えただけだぞ! たかが雨が止まないだけで、なぜ一国が滅びるのだ!」


 エドワードの叫びに応えるのは、窓を叩く絶え間ない、重く冷たい雨音だけだった。


 彼はようやく悟り始めていた。


「雨を止める程度」と嘲笑ったエリスの祈りが、実は、洪水、疫病、飢饉、冷害……それらすべてを封じ込めていた奇跡そのものであったことに。





 国境の壁を越えた先にあるガーランド王国。


 そこはかつて、数年に一度の猛暑と干ばつに見舞われる「不毛の地」と呼ばれていた。


 だが今、そこには眩いばかりの光景が広がっている。

 見渡す限りの黄金色の麦畑が、乾いた心地よい風に吹かれて、海のように波打っている。

 空は透き通るような青。時折流れる白い雲が、大地に適度な影を落としていた。


 その村の片隅にある、小さな石造りの家。


 エリスは、今朝焼き上がったばかりのパンの香りに包まれていた。


「―いい香りですね、エリス」


 背後から声をかけられ、エリスは微笑んで振り返った。


 そこに立っていたのは、ガーランド王国の第一王子、レオンだった。


 彼は王族でありながら、自らこの辺境の開拓地に足を運び、エリスの隣で土に触れることを厭わない男だった。


「レオン様。おはようございます。今日は湿度が低くて、パンがとても美味しく焼けました」


「それは楽しみだ。君がここに来てから、この国の『空』はすっかり機嫌を直してしまった。農夫たちは、君のことを『春の女神』と呼んで崇めているよ」


「女神だなんて……。私はただ、極端なものを削って、平均に整えているだけです。暑すぎれば風を呼び、降りすぎれば雲を散らす。それだけで、土は自ら答えを出してくれます」


 レオンはエリスの傍らに歩み寄り、彼女の小さく、けれど十年の献身で節くれだった指先を、慈しむように見つめた。


「エリス、君がしているのは『地味な作業』じゃない。誰もが安心して明日を迎えられるという、最高に贅沢な『基盤』を作っているんだ。君がいてくれるから、我々は空を恐れずに種をまける。……ありがとう」


 その真っ直ぐな感謝に、エリスの胸の奥がじんわりと熱くなる。

 かつての国では、晴れていることは「当たり前」であり、感謝されることなど一度もなかった。


 そこへ、平穏を切り裂くような無作法な音が響いた。


 村の入り口に、泥まみれの馬車が数台、崩れ落ちるように停まったのだ。


 現れたのは、かつての婚約者エドワードと、妹のリリア。

 だが、その姿にかつての栄華はない。

 エドワードの豪奢なマントは泥を吸って重く垂れ下がり、リリアの顔は湿疹とクマ、そして隠しきれない厚化粧で、まるで呪われた人形のように無惨だった。


「エリス……! エリス、そこにいるんだろう!?」


 エドワードはエリスの姿を認めるなり、膝をついた。

 王太子の矜持など、とうに捨て去った執念の形相だった。


「頼む、戻ってくれ! この通りだ! 王都は……王都はもう、足首まで腐った水に浸かっているんだ! 蔵の麦はすべて発芽し、民は泥水を啜って死んでいる! リリアの奇跡では、雨粒一つ消せやしないんだ!」


 リリアもまた、なりふり構わずエリスの足元へ縋りついた。


「お姉様、お願い! 私、もう嫌なの! 毎日カビの臭いの中で起きて、湿ったベッドで寝るのはもう耐えられないわ! あなたの力で、あの忌々しい雨を消してちょうだい!」


 エリスは、二人の姿を静かに見つめた。


 かつて自分を泥の中に放り出した者たちが、今、本物の泥の中で喘いでいる。


「エドワード様、リリア。私はあの日、あなたたちに捨てられました。まさか忘れたわけではないですよね」


「 すまなかった!今は心から必要としている!」


「いいえ。あなたたちが欲しているのは、『自分たちに都合のいい奇跡』でしょう? 私はもう、あなたたちのために空を支えることはいたしません。……私を『雨よけ』と呼び、私の維持してきた平和を無価値だと切り捨てたのは、あなたたちです」


 エリスはそっと、リリアの泥のついた手を振り払った。


「私はここで、ただの『エリス』として、この国の『普通』を守っていきます。私の力に感謝し、私を一人の人間として愛してくれる人たちのために。……さようなら。皆様はどうぞ、ご自分たちで選んだ『特別な雨の日』を、いつまでもお楽しみください」


「というわけだ。お帰り願おう」


 レオンが冷たい声で言い放つ。


「待ってくれ!エリス!頼む!」


「これ以上は我が国への侵害である。それを分かった上での発言か?」


 レオンが更に怒気を強めて言う。

 周囲で待機していた護衛騎士たちも剣の柄に手を掛けている。


 それを見て、無様に逃げ出すエドワード様とリリア。


 二人の醜態とは裏腹に、ガーランド王国の空は、どこまでも高く、どこまでも澄み渡っていた。


 それは、彼女が心の底から望んだ、退屈で、けれど何よりも愛おしい「平均的な一日」だった。





 数ヶ月、王都を混沌に陥れた罰として、エドワードは、王太子の地位を剥奪された。


 彼に残されたのは、雨漏りの止まらない、壁一面が黒カビに覆われた北の離宮の一室だけ。


「……おい、食事はどうした。冷たい粥でいい、持ってこい!」


 叫んでも、答える者はいない。召使いたちは皆、食料を求めて隣国へ逃げ出した後だった。


 彼は、湿りきって重くなった布団の中で、かつてエリスが用意してくれていた「温かいスープ」と「乾いたシャツ」を思い出し、喉を鳴らして泣いた。

 だが、いくら泣いても、頬を伝うのは冷たい雨漏りの滴だけだった。


 一方のリリアは、さらに悲惨だった。


 エドワードに捨てられたリリアはスラム街を彷徨っていた。ふやけきった白い皮膚が、濡れた紙のように容易く剥がれ落ち、その下から覗くのは、癒えることのない赤い生肉と、湿気に喜ぶどす黒いカビの斑点。

 かつて国宝と称えられた美貌は、今や絶え間ない膿と雨水に洗われ、見る影もなく溶け崩れていた。


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