幼馴染は見ている
朝の空気は、少し冷たかった。
前田夏希は、吐く息が白くなるのを見て、冬が近いことを実感する。
家を出るとき、誰もいない台所をあまり見ないようにした。
代わりに、鞄の中身を確認する。
教科書、ノート、部活の用意。
忘れ物は、ない。
――大丈夫。
校門が見えてくると、気持ちを強く持ち、友人のもとに駆け寄る。親の事は友達の誰にも言っていないし、迷惑をかけたく無いと思っているから。
「おはよー、夏希」
「おはよう」
友達と並んで昇降口へ向かう。
靴を履き替え、廊下を歩いていると
「夏希、ちょっと元気になった?」
友達からそう聞かれた。内心冷や汗がでる。やっぱり顔に疲れが出てしまってたんだろうか。
「な、何の事?特に変わってないよ?」
「ふーーーん、言いたくないんだぁ。別にいいけどさぁ」
はぐらかす言葉に拗ねているけれど、深くは突っ込んでこない友達に心の中で感謝する。
「けど、きっと少しは解決したんでしょ?色々とさ」
「……そうなのかな」
正直、まだ何も解決出来ていないけれど、ちゃんと、学校に来ている。
それだけで、今は十分だった。
教室に入ると、窓際の席に彼がいた。
脇阪悠斗。
もう来ている。
いつも通り、静かに席についてノートを開いている。何も話しかけたりはしないけれど、最近は彼がどこにいるのかなんとなく、目で追ってしまっている。
今日はもう少しは、彼とちゃんと話は出来るだろうか。
放課後、急ぎ足で教室の中を確認しに戻る。
部活動に向かう前に少しだけ家庭科室を見ると、そこに彼の姿が無かったから。
中を覗くと、脇阪くんが一人で黒板を拭いていた。
放課後の教室に、彼の背中だけがある。
……やっぱり。
胸の奥で、小さく息を吐く。
掃除当番がいなかったらしい。
そういう時、誰がやるかは大体決まっている。
昼休みの件もそうだ。
クラスの女子が、少し困った顔で彼にに話しかけていたのを、私は見ていた。
「脇阪くん、その……プリント運ぶの、手伝ってくれない?」
その声は、必要以上に柔らかかった。
お願いというより、期待みたいな響き。
彼は一瞬だけ戸惑った顔をして、それから頷いた。
嫌そうなのに、断らない。
……いつも、そうだ。
その女子は、脇阪くんが職員室に向かった後に、友達に小さく言っていた。
「やっぱ優しいよね、脇阪くん」
私は何も言わなかった。
言えなかった。
でも、分かってしまった。
彼が“優しい”ことを。
そして、それを好きになる人が出てくることも。でもそれは、彼の優しさに付け込んでいるだけだと思ってしまう。
……そして、それは私も同じだ。彼に甘えているだけだ。私が出来る事はないんだろうか。
だから今、こうして一人で掃除している姿を見て、
胸の奥が少しだけ痛んだ。
放っておけなかった。
「……脇阪くん」
声をかけると、彼は驚いたように振り返った。
その顔を見て、少し安心する。
いつも通りの、無表情に近い顔。
「……部活じゃなかったのか」
「その、掃除……一人でやってるって聞いて」
本当は、聞いてなんかいない。でもあそこに彼がいなかったから……
でも、そう言うと変だから少しだけの嘘をつく。
「別に、すぐ終わるから」
そう言われて、少しだけ胸が締めつけられる。
――また、そうやって全部一人で。
「私も……手伝う」
自分でも、意外なほどはっきり言えた。
彼はすぐに断ったけれど、
私はもう箒を取っていた。
並んで掃除をする。
無言なのに、居心地が悪くない。
むしろ、落ち着く。
昔も、こうだった。
「……昔も、こんな事あったよね」
気づいたら、口に出していた。
「いや、中学校の時。掃除当番サボった人の代わり」
彼が少し笑ったのを見て、胸が温かくなる。
変わってない。
何も変わってない。
でも――
少し迷ってから、私は言った。
「私は見てるよ、脇阪くんの優しい所」
本当のことを言っただけなのに、
彼は顔を背けてしまった。
逃げるみたいに。
それでもいい。
きっと彼は、自分が優しいってことを、
ちゃんと分かっていない。
だから誰かに頼られて、
誰かに好かれて、
それでも気づかない。
……でも。
少なくとも私は、知っている。
嫌そうな顔で、全部引き受けるところ。
何も言わずに、最後までやるところ。
夕焼けに染まる教室で、
私は箒を動かしながら思った。
――この人は、放っておいたら駄目だ。
誰かに取られるとか、そういう話じゃない。
ただ、独りで抱え込んでしまう人だから。
だから今日も、あの場所へ行く。
家庭科室。
温かいご飯があって、
彼がいる場所。
学校では遠いのに、
そこでは、少し近い。
その距離が、今はちょうどいい。
そう思えることが、少しだけ嬉しかった。




