母がいない家は、少し広い
家に帰ると、電気がついていなかった。
「ただいま」
そう自然に言ってしまう自分に苦笑する。分かっている。
母は、今日も病院だ。父は……今は、ここにはいない。
玄関で靴を脱いで、静かな廊下を歩く。
台所に入っても、鍋もフライパンも、冷えたままだ。
少し前までは、当たり前に母の背中があった場所。
今は、何もない。
夏希は、制服のまま椅子に座った。目を瞑り、少し前の自分を振り返る。
夕飯を作らないといけないのは分かっている。
でも、どうしても体が動かない日があった。
冷蔵庫を開けても、作り置きなんてほとんどない。
陸上部で遅くなると、余計に億劫になる。そんな毎日で心が折れそうだった。
――明日も、ちゃんと学校に行こう。
今そう思えるようになったのは、ある場所が頭に浮かんだからだ。
「前田、親の事は先生知ってるからな。何かあったら言ってくれ」
先生はそう言ってくれたけれど、その優しさを受け取る余裕すら、当時の私にはなかった。
「親の事、言いたくないのは分かるけど、助けてくれる友達も必要だろう?クラスに知ってる友達はいないのか?」
先生が本当に心配してくれてるのが伝わってくる。でも、私は本当は先生にだって言いたくはなかった。私が頑張ればそれでなんとかなるって思ってたから。だから、私の事情を知ってる人なんて……
「……脇阪くんなら、知ってると思います」
「脇阪?前田は脇阪と仲良かったか?」
先生が不思議そうな顔をしている。それもそうだろう。私と彼は高校では殆ど話した事もない。
「えっと、家が近所で、親が仲良かったので……」
「あー!なるほど!、確かに住所は近かったかもなぁ」
私の返答に納得した少し思案した後、先生が「なら丁度良いじゃないか」と言いながら私の手を引く。何処に向かうのか、と聞くまでもなくその場所に着いてしまった。……まさか!
「先生!待っ」
「脇阪、こいつに飯食わせてやれ」
怪訝な顔をする脇阪くん。でもそれ以上は何も言わず、彼は黙々と料理を始める。強引な先生の行動一つで、私と彼の奇妙な関係が始まった。
まだたった2日しか経ってないからか、鮮明に思い出せる。
家庭科室。幼馴染、脇阪悠斗のいる場所。
彼は、あまり喋らない。
でも、黙って温かいご飯を出してくれる。
それだけで、少しだけ、安心できた。
水炊きの湯気を思い出す。
同じ鍋をつつく距離。
向かいで、静かに鍋を見ている横顔。
――あれは、少し近すぎる。
分かっているのに、行くのをやめられなかった。
朝目を覚ましたら、夏希は制服を着替え、ジャージを羽織る。
家を出る前、誰もいない台所を一度だけ振り返った。
「……行ってきます」
返事はない。
でも、あの家庭科室には、いる。
あまり喋らない幼馴染と、温かい料理。
それが今の夏希にとって、
この家よりも「帰る場所」になりつつあった。




