第3話 一人だけの奇跡
朝倉は、
そのアプリのことを、
誰にも話していなかった。
話す必要がない、
というより、
話しても仕方がないと思っていた。
説明できない。
証明もできない。
信じてもらえる気もしない。
それに――
少しだけ、
自分だけのものにしておきたい気持ちもあった。
昼休み、
三上と並んでコンビニに向かう。
「最近、
ツイてるよな」
三上が、
何気ない調子で言う。
「仕事も、
タイミング良すぎだし」
「そうか?」
朝倉は、
曖昧に返す。
「いや、
絶対そうだって。
俺なんて、
全部一拍遅れてる」
自虐気味に笑う三上を見て、
胸の奥が、少しだけざわついた。
――言えばいいのか?
「実はさ」
その一言で、
空気は変えられる。
だが、
続く言葉が見つからない。
アプリの存在を、
どう説明すればいい?
支払って、
十倍で返ってくる。
それだけ聞けば、
冗談か、
危ない話にしか聞こえない。
「まあ、
運が良かっただけだよ」
朝倉は、
そう言って話を終わらせた。
三上は、
「そっか」とだけ言って、
それ以上踏み込まなかった。
その距離感に、
なぜか少しだけ、
救われた気がした。
午後、
フロアに見慣れない女性が現れる。
白いシャツに、
シンプルなジャケット。
派手ではないが、
目を引く立ち姿だった。
高瀬課長が、
彼女を連れてくる。
「今日から、
しばらくうちとやり取りする
白石さん」
「白石まどかです。
よろしくお願いします」
声は落ち着いていて、
少しだけ硬い。
出版社の編集アシスタントだという。
業務改善部と、
業務フローの見直しで関わるらしい。
朝倉は、
軽く会釈した。
目が合った瞬間、
彼女が一瞬だけ、
安堵したように見えた。
理由は、分からない。
打ち合わせは、
淡々と進んだ。
白石は、
メモを取りながら、
要点を逃さない。
質問は的確だが、
どこか遠慮がちだった。
朝倉は、
自然とフォローに回っていた。
説明を噛み砕き、
彼女が理解しやすい形に整える。
気づけば、
高瀬よりも、
彼女と話している時間の方が長い。
打ち合わせが終わり、
白石が頭を下げる。
「助かりました。
私、
こういう場、
あまり慣れてなくて」
「いえ。
こちらこそ」
それだけのやり取り。
だが、
胸の奥に、
小さな違和感が残る。
――今の、
――俺の力か?
帰り際、
アプリを確認する。
> 支払い内容:20分
増えている。
少しずつ、
だが確実に。
朝倉は、
しばらく画面を見つめた後、
YESを押した。
その日の夜、
白石からメールが届く。
業務内容の確認と、
丁寧なお礼。
文章は、
必要以上に整っている。
だが、
行間から、
不安が透けて見えた。
朝倉は、
簡潔に返信する。
少しだけ、
安心させる言葉を添えて。
送信した直後、
スマートフォンが震える。
> 支払い完了
返却:200分
二十分が、
三時間以上。
時間だけではない。
――人との距離も、
――増えている。
そう思った瞬間、
背筋が、
わずかに冷えた。
この奇跡は、
誰のためのものだ?
自分か。
世界か。
それとも――
目の前の誰かか。
答えは、
まだ出ない。
ただ一つ、
はっきりしていることがある。
この現象を、
理解しているのは、
朝倉だけだ。
誰かに説明することも、
分かち合うこともできない。
奇跡は、
いつも一人分だった。
アプリの画面が、
変わらず表示されている。
> 次の支払いを、選択してください。
朝倉は、
その文字を見つめながら、
初めて思った。
――これは、
――便利な力なんかじゃない。
だが同時に、
こうも思っていた。
――それでも、
――使わない理由がない。




