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第2話 最初の十倍

朝倉は、

そのアプリを「気にしない」ことにした。


信じたわけではない。

かといって、否定もしなかった。


使えるなら使う。

使えないなら消す。

それだけの話だ。


翌朝、

目覚ましが鳴る前に目が覚めた。


睡眠時間は、

いつもより短いはずなのに、

頭は妙に冴えている。


枕元のスマートフォンを手に取る。


アプリは、

何も主張しない顔でそこにあった。


> 支払いますか?




その下に、

今日の表示。


> 支払い内容:10分




十分。

昨日より、少しだけ増えている。


「……まあ、いいか」


どうせ、

通勤中に失われる程度の時間だ。


YES。


胸の奥で、

軽い抜け落ちる感覚。


嫌な感じはしない。

ただ、

「あ、今減ったな」という実感だけ。


会社に着くと、

業務改善部のフロアは、

いつもより騒がしかった。


「聞いた?

 あの案件、急に予算下りたらしい」


同僚の三上が、

コーヒーを片手に言う。


「あれ、通るわけないって

 課長も言ってたやつだろ」


「それがさ、

 上からの指示だって」


朝倉は、

自分の席に座りながら聞いていた。


その案件は、

彼が裏でまとめた改善案が元になっている。


だが、

提出した覚えはなかった。


正確には、

提出する前に、

「通らないだろうな」と思って

データを閉じたはずだ。


高瀬課長が、

フロアを見渡す。


「朝倉、

 この件の資料、

 まとめてくれる?」


「……俺ですか?」


「一番分かってるだろ」


断る理由はない。


朝倉は、

黙って頷いた。


作業は、驚くほど順調だった。


必要なデータは、

すぐに見つかる。

修正点も、

最初から見えている。


迷いがない。


昼休み前には、

ほぼ完成していた。


「助かるよ」


高瀬が言う。


「これ、

 来期の評価に入るから」


評価。


その言葉に、

一瞬だけ、心が揺れた。


契約社員の立場では、

それは大きい。


だが、

喜びより先に、

別のことが頭をよぎる。


――俺、

――こんなに上手くやれたか?


午後、

取引先との打ち合わせ。


相手の担当者が、

事前に懸念していた点を、

向こうから修正案として出してきた。


こちらは、

頷くだけでいい。


話が早い。


早すぎる。


打ち合わせが終わり、

三上が肩を叩く。


「今日、キレてるな」


「そうか?」


「うん。

 なんか、

 噛み合い方が異常」


朝倉は、

曖昧に笑った。


定時前、

スマートフォンを確認する。


> 支払い完了

返却:100分




十分が、

百十分。


十倍。


胸の奥が、

ゆっくりと温かくなる。


これは、

偶然じゃない。


昨日と今日。

二度続けば、

もう「たまたま」では済まされない。


朝倉は、

少しだけ考えてから、

もう一度YESを押した。


> 支払い内容:3,000円




慎重になっている自分と、

試したい自分が、

半々だった。


帰り道、

駅前の書店で足を止める。


平積みの本に、

ふと目が留まった。


業務改善の実務書。

最近、

品切れ続きだったはずの一冊。


残り一冊。


レジに持っていくと、

店員が言う。


「ちょうど今、

 在庫戻ったんですよ」


会計を済ませ、

外に出る。


スマートフォンが震えた。


> 返却:30,000円相当




三千円が、

三万円。


数字が、

はっきりと突きつけてくる。


朝倉は、

足を止めた。


これは、

人生を変えられる。


大きく変えることも、

できる。


だが同時に、

頭の片隅で、

小さな疑問が生まれていた。


――支払っているのは、

――本当に、金と時間だけか?


その問いは、

まだ言葉にならない。


アプリの画面が、

静かに次を促す。


> 次の支払いを、選択してください。




朝倉は、

少しだけ間を置いてから、

画面を閉じた。


今日は、

ここまででいい。


そう思った自分に、

わずかな安心と、

理由のない不安が、

同時に残った。


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