第1話 十倍で返ってくる、らしい
朝の電車は、
いつも同じ匂いがした。
金属と、眠気と、
少しの諦め。
朝倉 恒一、二十七歳。
中堅IT企業・業務改善部の契約社員。
吊り革を握りながら、
窓に映る自分の顔をぼんやり眺める。
悪くない。
少なくとも、致命的ではない。
仕事はある。
住む場所もある。
人並みに疲れて、
人並みに眠る。
ただ、
「良い人生か」と聞かれると、
少し考えてしまう。
スマートフォンが、
ポケットの中で震えた。
通知だと思って取り出す。
画面に表示されていたのは、
見覚えのないアプリだった。
白地に、黒い文字。
装飾のない四角いアイコン。
アプリ名は、やけに長い。
――支払った分だけ、人生が十倍で返ってくる件について
「……冗談だろ」
いつ入れたのか、
まったく思い出せない。
広告を踏んだ記憶もないし、
こんな名前のアプリを
自分から入れる趣味もない。
だが、
なぜか削除する気にもならなかった。
親指で、タップする。
起動は異様に早い。
説明も、チュートリアルもない。
表示されたのは、
短い一文だけだった。
> 支払いますか?
その下に、
二つの選択肢。
――YES
――NO
「……意味わかんねえ」
冗談アプリだろう、と思う。
最近は、
そういうネタも多い。
そのままYESを押そうとして、
指が止まった。
画面の下に、
小さな文字が追加されている。
> 支払い内容:5分
五分?
時間?
動画を見せられるとか、
そういうタイプか。
それなら、別に構わない。
どうせ、
無為な五分なら
いくらでも消費している。
朝倉は、YESを押した。
画面が暗転する。
何も起きない。
――やっぱり、何もないか。
そう思った瞬間、
電車が急停車した。
アナウンスが流れる。
「前方車両の安全確認のため、
しばらく停車いたします」
ため息が、
車内に広がる。
だが、数秒後。
「――確認が取れました。
まもなく発車いたします」
拍子抜けするほど、早い。
朝倉は、
腕時計を見る。
この区間で止まれば、
いつもは確実に遅延する。
だが今日は、
定刻どおりだった。
「……偶然か」
会社に着く。
いつも通りの業務。
昼休み、
売り切れが常の弁当が残っている。
午後、
トラブルになるはずの案件が、
先方都合で消えた。
帰り際、
課長の高瀬に呼び止められ、
「今日はもう上がっていい」
と言われる。
定時。
朝倉は、
自分のデスクで、少しだけ固まった。
さすがに、出来すぎている。
スマートフォンを取り出す。
例のアプリは、
何事もなかったかのように表示されていた。
> 支払い完了
返却:50分
五分が、五十分。
十倍。
喉の奥が、少しだけ乾く。
もう一度、
YESを押す。
> 支払い内容:1,000円
安い。
試すには、ちょうどいい。
その日の帰り道、
コンビニのくじで、
一万円分の商品券が当たった。
「今日、当たり多いんですよ」
店員が、そう言った。
朝倉は、
曖昧に笑って会釈する。
家に帰り、
ベッドに腰を下ろす。
スマートフォンを見つめる。
> 返却:10,000円相当
――本当に、十倍だ。
胸が高鳴る。
怖さより先に、
理解が来た。
これは、使える。
少なくとも、
自分の人生を
「悪くない」から
「少し良い」にするくらいなら。
画面が、静かに光る。
> 次の支払いを、選択してください。
その光が、
まだ朝倉一人のものだとは、
この時は気づいていなかった。




