第11話 消えていく
最初に気づいたのは、
名前だった。
「……あの人、
何でしたっけ」
誰かがそう言った。
朝倉のことだと
分かるまでに、
少し時間がかかった。
会議室の隅。
自分は、
確かにそこに座っている。
資料もある。
発言権も、
形式上はある。
だが、
名前だけが
出てこない。
「ほら、
業務改善の……」
「朝倉さんですよ」
白石が、
そう補足した。
一瞬だけ、
視線が交わる。
助ける視線ではない。
訂正するための視線。
それだけだった。
「そうそう、
朝倉さん」
誰も、
謝らなかった。
悪意がないからだ。
名前を忘れることは、
罪ではない。
重要でなければ。
朝倉は、
何も言わなかった。
言う理由が、
見つからなかった。
昼休み、
社内チャットを見る。
以前は、
質問や確認が
いくつも届いていた。
今は、
通知がほとんどない。
業務連絡は、
全体宛て。
個人宛ては、
来ない。
自分が
“個別対応の対象”
から外れたのだと、
静かに理解した。
午後、
白石が
忙しそうに走り回る。
声をかけられるたび、
立ち止まり、
判断を下す。
朝倉は、
その様子を
少し遠くから見ていた。
以前なら、
並んで歩いていた距離。
今は、
数歩後ろ。
同じ方向を向いているのに、
重ならない。
スマートフォンが震える。
> 支払い内容:300分
五時間。
数字を見ても、
もう感情は動かない。
YES。
胸の奥が、
大きく削れる。
だが、
痛みは鈍い。
感覚そのものが、
薄れている。
その日の夕方、
白石が
一人で立ち止まっていた。
資料を見つめ、
少しだけ困った顔。
朝倉は、
反射的に
声をかけそうになる。
――今、
――行くべきか?
だが、
白石の背後から
別の同僚が来た。
「白石さん、
どうしました?」
白石は、
すぐ顔を上げる。
「あ、
ここなんですけど……」
問題は、
その場で解決した。
朝倉は、
何も言わずに
立ち去った。
――必要なかった。
それだけの話だ。
帰り道、
駅のホームで
自分の姿を
ガラスに映す。
変わっていない。
服装も、
顔も、
体格も。
だが、
何かが違う。
輪郭が、
少しだけ
曖昧だ。
部屋に戻り、
アプリを開く。
> 支払い完了
返却:3000分
五時間が、
五十時間。
誰かの二日分以上。
朝倉は、
その数字を
ただ眺めた。
――俺は、
――ここにいる。
声に出さず、
そう確認する。
誰に
聞かせるでもない。
世界は、
何も答えなかった。
それでも、
アプリは
次を促す。
> 次の支払いを、選択してください。
朝倉は、
画面を見つめたまま、
しばらく動かなかった。
消えていく。
それが、
誰かの幸福と
引き換えなら。
そう考えられる自分が、
まだいる。
それが、
最後の“存在証明”
だった。




