第9話 戻らない
朝倉は、
最近、夢を見なくなっていた。
正確には、
目覚めたときに
何も覚えていない。
以前は、
どうでもいい夢を
断片的に覚えていたはずだ。
学生時代の風景。
名前も思い出せない誰か。
意味のない会話。
それが、
きれいに消えている。
気にするほどのことではない。
そう思おうとして、
少しだけ引っかかった。
朝、
アプリを開く。
> 支払い内容:180分
三時間。
一瞬、
指が止まる。
だが、
迷いはなかった。
YES。
胸の奥が、
ごっそり削れる感覚。
これまでで、
一番はっきりとした喪失感。
それでも、
吐き気や痛みはない。
ただ、
静かな空白が残る。
会社では、
白石が完全に中心になっていた。
打ち合わせの進行。
判断。
調整。
誰も、
朝倉を呼ばない。
必要がないからだ。
それは、
悪いことではなかった。
むしろ、
理想的だ。
白石は、
朝倉に気づくと
軽く会釈した。
それだけ。
以前のような、
目で探す仕草はない。
昼休み、
朝倉は一人で
弁当を食べる。
味が、
ほとんどしなかった。
塩辛いはずなのに、
記号のようだ。
――疲れてるだけか。
そう結論づける。
午後、
ふとした拍子に、
白石と二人きりになる。
「最近、
ありがとうございます」
唐突な言葉だった。
「え?」
「いえ、
何となく」
白石は、
少し考えてから言った。
「朝倉さんがいると、
安心する気がして」
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥で
何かが弾けた。
嬉しい。
確かに、嬉しい。
だが同時に、
違和感があった。
――“気がして”?
以前なら、
もっと具体的だった。
頼っている。
助けられている。
そういう実感。
今は、
理由のない安心。
それは、
「必要」とは違う。
朝倉は、
何も言わずに
微笑んだ。
帰り道、
白石は
別の同僚と歩いていく。
朝倉は、
その背中を見送った。
胸は、
痛まない。
ただ、
何かが欠けている。
部屋に戻り、
アプリを開く。
> 支払い完了
返却:1800分
三時間が、
三十時間。
白石の一日半分以上が、
守られた計算だ。
朝倉は、
その数字を見て、
初めて思った。
――これ、
――戻らないな。
何が、とは
言葉にできない。
ただ、
一度失ったら、
もう二度と
同じ形では
戻らないもの。
夢か。
感情か。
誰かとの距離か。
分からない。
だが確実に、
YESを押すたびに、
未来のどこかが
閉じていく。
それでも、
朝倉は
アプリを閉じた。
選択は、
まだ続く。
戻れないと
分かっていても。




