海と嘘
村上隆也は海と嘘が好きだった。どこまでも続いている広大な海にはどんな罪だって受け入れてくれるようなおおらかさが感じられた。嘘は、父親の暴力から自分の身を守る唯一の方法であった。だから無意識的に多用し、いつしか村上の習性となった。
彼は時々、吐いた嘘で人の感情を動かすことがあった。それは上手い冗談で笑わせることだったり、嘘の人情話で泣かせたりと様々だ。彼の生業である漁師業になぞらえて言うならば丁度、漁船の進行で揺れる波と同じ要領で聞く人々の情緒を自由に操った。先の生い立ちのせいで誰に対しても嘘を吐き続けてきた結果、今や真実と変わらぬほど純度の高い虚偽を平然と吐けるようになった。
村上は、今日も漁船の上でとっておきの嘘を吐き同僚達を見事なまでに騙しきった。彼の嘘を真実であると信じて話に聞き入っている人間の、なんとも言えない真剣な表情を思い出すたびに笑いが込み上げてきた。騙しきったのならば嘘も本当と変わらない。最後まで気づかれなかったことは彼にとって大いなる達成で、大変に気分を良くさせた。漁船を波止場にロープで固定する作業をしながら口笛でミッキーマウスのマーチを奏でていた。
雲の無い三日月の夜。ふと浜の方を見ると昼間は白い砂が月明かりで青く光っているのが遠目にも分かった。雲一つない空に特別綺麗な萬月が浮かんでいるせいだろう、と思った。そのまま数秒か十数秒眺めていると、浜に一人の女がゆっくりとした足取りで入ってきた。白いワンピースに大きな幅広帽子が印象的である。女の髪型までは見えなかったが、なんとなく長い黒髪だろう、と想像した。
こんな時間に何をしにきたのだろうか、もしや海を眺めるのが好きなのでないか、そうであれば一度話しかけてみようかな。そんなことを考えていると、女は夜の海に入っていった。しかも、浅瀬で足を止めることなく、ゆっくりだが確かに前へと進んでいく。ただ事ではない! ようやっとそのことに気づいた村上は波止場から離れ、急いで浜の方へと向かった。
浜に着いた時、女の姿は既になかった。間に合わなかったか、そう落胆しかけた時、浜辺から十メートルほどの海面から突然、白く細い腕が飛び出した。苦しそうに虚空を掴むように左右に激しく動いて消えた。
あそこにいる! と確信した村上は着衣のまま海に飛び込み、手が出ていたところを目指して必死に泳ぐ。女の姿を探そうとして潜ってみても夜の海は暗く、確認することが出来ない。
そんな状況下で両手を懸命に水中で動かしていると指先があるものと当たった。それは海中を踊る海藻や魚の身体ではなく、確かに人の身体だった。
その手触りをヒントに周辺を探すと、やがて身体の感触を両手全体で感じることが出来た。それを救い上げると、やはりあの時の女だった。溺れかけたショックで気を失っているが息はある。もう少し発見が遅れていたら確実に死んでいただろう。
女を浜の方に引き上げ寝かせた。月光に照らされた女の顔はこの世のものとは思えないほど美しかった。夜闇のように澄み切った長い黒髪と真昼の砂浜のように真っ白な素肌が得も言われぬコントラストを生み出していた。そしてなによりも本当に死んでいるのではないかと思わせるほどに静かな失神顔には男を誘う妙な色気があり、村上はキスをしたいと言う欲求に駆られ、何度も顔を近づけては躊躇した。三度目の時、女が目覚めた。村上の顔は女の顔と非常に近い位置にあったため、慌ててのけぞった。二回ほど瞬きをした後、女は消え入りそうなほどか細い声を発した。
「私は死ななかったんですね」
「死ぬつもりだったのか」
「はい」
女は徐にそれまでの経歴を語り出した。女の名は本多真紘と言った。彼女は生まれてから七歳までの間、酷い虚言壁持ちの母親の元で育った影響だったという。しかし、母親と引き離され祖父母の元で暮らすようになってから、その癖を矯正されるようになった。虚言癖は女の心に呪いのように纏わりつき中々治らなかったが、ある時に祖父の所有物である高級な壺を誤ってわってしまった時があった。その失態を虚飾で誤魔化すのではなく、ありのまま正直に話したら祖父母に泣いて喜ばれた。その一件で彼女は真実の告白が持つ重要な意味を知ったが、それまでに嘘ばかりついてきた反動でそれ以降は逆に本当のことしか話せなくなったと言う。
その後、何もない海沿いの街で祖父の書籍を読むことを趣味としてきたことが縁を結び、女は小さな本屋の書店員になった。そして最近、会計後の釣銭を間違えて千円少なく渡し、それに気づいた客から人格否定をされるということがあった。
女は酷く落ち込み、同僚の丸山に愚痴を吐いていた時にもののはずみで「死にたい」と口にした。
そして先に述べた女の、嘘を嫌い本当のことしか言えない性質によって言葉の辻褄を合わせるために海に入水した。信じがたい話だが女は自らが発言した死を、確かに実行に移したのである。
「馬鹿げてる。その場の勢いで言ってしまっただけだろうが」
「よく言われます。けれど口に出したからには必ず実行しなければならないのです。嘘は罪ですから、貴方には申し訳ないけれどもう一度死んできます」
女が立ちあがり、静謐な波音を立てる夜の海に向かって歩き出そうとするので、村上は女に抱きつき、死の歩みを必死で食い止める。
「待て待て待て!」
「離してください!」
「なにもせっかく助かった命をまた捨てることはないだろう!」
「嘘は罪なのです。幼少期に散々重ねてきた分、これ以上罪人に成り下がりたくはありません」
その発言から、女の心の深淵に巣くう嘘への複雑なトラウマの形が読み取れた。この嫌悪は病的である。
「嘘は必ずしも罪じゃないと思うぜ。俺は」
「何故?」
食いついた。一先ず女の興味を惹けたと言う点において村上は小さく安堵した。
「嘘が人を幸せにすることだってあるからだよ」
「そのような幸福な嘘、私は知りません」
女の歩みが止まった。月の明かりで薄っすらと見える白く細い横顔は、まるで過ぎ去りし遠い思い出を顧みているように哀し気だ。村上はこの女に嘘を吐く面白みを教えてやりたくなった。
「わからないなら俺が教えてやるよ。俺は日頃から嘘ばかり吐いているからな」
「信用できません。嘘は人を怒らせ人を悲しませる悪魔の吐息です」
「嘘だけに一度騙されたつもりで俺の口車に乗ってみなよ。その窮屈な考え方を変えてやるよ」
「わかりました。では少しだけなら」
その日は酷く蒸し暑い夏の夜だった。それ以来、村上は女の勤める書店によく赴き、閉店後に色々なところに良く連れ出すようになった。美しい夜景が一望できる山の頂上や初めて出会った時のように静かな濃紺の海。中でもとりわけ多かったのが海沿いから少し行ったところにある繁華街だった。街を歩いている人の中から適当に見繕った何人かを、村上は得意の嘘で騙した。時折、激しい怒りを買うこともあったが女の考え方を変えるという使命感の前では痛くも痒くもないことだった。彼は嘘を吐くことに宿命じみた思いを抱いていた。そんな日々を過ごしている内に、最初は辛そうだった女の顔が次第に緩んでいき、ついには冗談を言ったりして自らも嘘を楽しむようになった。
嘘と真実と言う相いれない性質を宿した二人の関係は男の嘘によって変化を迎え、日を追うごとに深化し、やがて恋人同士になった。そうして改めてのデートをすることになり、日取りは嘘にちなんで四月一日に決めた。当日、昼はレストランにて食事をし、映画を観た後はあの始まりの砂浜。そこで思い出を振り返り、出会いに感謝をした。もはや女の頭には「死」への願望などなく、村上と共に「生」を受容したいと言う真逆の願望があった。嘘で人を変える村上の目論見は一年を待たずして見事成功したのである。嘘がきっかけの二人の日々は真実の恋へと結実した。
「私に嘘の楽しさを教えてくれてありがとう」
「俺は何も教えちゃない。君が勝手に学び取っただけだよ」
二人は目を閉じてキスをした。夕日に照り映えて濃い影と化したその姿は、誰もが時間の停止を願うほどに美しかった。永遠とはこの場面のことであるように思えた。しかし、無情な時は決して一点に停留することはない。その後、二人はディナーを予約しているレストランへと向かう途中の道で居眠り運転の大型トラックにぶつかられ、あっけなく命を落とした。
エイプリールフールにも関わらず、皮肉にも彼らの死は嘘にならなかった。
女一人の死を止めるためとはいえ、誰彼構わずに嘘を吐いて回った罰が下ったのだろうか。それとも何の計算もない世界の無差別な不幸だろうか。どちらにせよ二人の嘘つきが辿った結末は恬淡として、かつ深い悲しみに満ちていた。




