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第45話 エピローグ - 8月32日の朝

 私は、教室で目を覚ました。


 いつ眠ったのか、覚えていない。


 教卓の上には、40冊の作文ノートが、きれいに積み上げられている。一番上は、山田翔太の「ぼくの大冒険」。


 黒板を見た。


 日付が書いてある。


 8月32日(土)


 目を疑った。8月は31日までのはずだ。


 でも、確かに黒板には「8月32日」と書かれている。私の字で。いつ書いたのか、覚えていない。


 教室の後ろのカレンダーを見た。8月のページに、32日、33日、34日、35日...と、鉛筆で書き足されている。9月のページは、破り取られていた。


 教卓の名札を見た。


 「担任:北村ひろみ」


 でも、児童の机にも、同じ名前の名札がある。


 「北村ひろみ」


 最後の席。8月31日を担当した子の席。


 私は、教師なのか、児童なのか。


 それとも、両方なのか。


 窓の外を見た。


 空に、太陽が3つ浮かんでいる。   

 朝日、昼の太陽、夕日。   

 全部が同時に、空の違う場所で輝いている。


 時計を見た。


 すべての時計が、3時33分で止まっている。秒針だけが、カチ、カチと同じ場所を行ったり来たりしている。


 廊下から、子どもたちの声が聞こえてきた。


 「先生! おはようございます!」


 教室のドアが開いて、40人の子どもたちが入ってきた。


 いや、40人じゃない。


 80人? 120人? もっと?


 山田翔太が3人いる。一人は10歳、一人は20歳、一人は50歳くらいに見える。


 佐藤愛は透明になっている。体の輪郭だけが、かすかに見える。


 田中大輝の頭から、セミの羽が生えている。


 みんな、作文に書いた通りの姿になっている。


 そして、北村ひろみが入ってきた。


 10歳の女の子。


 私と同じ顔をしている。


 いや、私が子どもの頃の顔だ。


 「先生、今日から2学期ですね!」


 北村ひろみが言った。


 「でも、まだ8月ですけど」


 そう言って、くすりと笑った。


 私と同じ笑い方だった。


 私は、自分の手を見た。


 いつの間にか、手が透けている。骨と血管が透けて見える。垢嘗めに舐められたみたいだ。


 そして、手が小さくなっている。


 子どもの手になっている。


 鏡を見た。


 10歳の私が映っている。


 でも、目は大人の目だ。


 30年分の疲れた目。


 いや、もっと長い時間を生きた目。


 「先生? それとも、ひろみちゃん?」


 もう一人の北村ひろみが聞いた。


 「どっちでもいいよ」


 私は答えた。


 「だって、同じ人だから」


 窓の外で、赤い風鈴が鳴っている。


 チリン、チリン、チリン。


 「もうすぐ」「もうすぐ」「もうすぐ」


 何がもうすぐなのか、もう思い出せない。


 黒板に、新しい日付を書いた。


 「8月32日」


 そして、その下に書いた。


 「夏休みの思い出 その2」


 「さあ、みんな。新しい夏休みの作文を書きましょう」


 子どもたちが、嬉しそうに原稿用紙を取り出した。


 私も、原稿用紙を取り出した。


 8月32日の担当として。


 教師として。


 児童として。


 北村ひろみとして。


 最初の一文を書いた。


 「今年の夏休みは、とても楽しかったです」


 でも、最後の一文は、もう決まっている。


 「先生、昭和62年の夏休みは、まだ終わっていません」


 私は、私に向けて書く。


 私は、私からの作文を読む。


 永遠に。


 校門の前に、人が立っている。


 大人の女性だ。疲れた顔をしている。


 手に、古い教員免許を持っている。


 「北村ひろみ」と書かれている。


 昭和32年発行。


 その人も、私だ。


 30年前の私。


 30年後の私。


 すべての私が、永遠の8月の中にいる。


 赤い風鈴が、激しく鳴り始めた。


 チリンチリンチリンチリンチリン!


 「先生」


 北村ひろみが、私の袖を引いた。


 「これ、読んでください」


 一枚の紙を渡された。


 そこには、震える文字で、こう書かれていた。


 「助けて。ここから出して。もう92年目の8月です」


 私は、その紙を見つめた。


 筆跡は、私のものだった。


 いつ書いたのか、覚えていない。


 もしかしたら、これから書くのかもしれない。


 「これ、誰が書いたの?」


 私は、もう一人の私に聞いた。


 「先生が書いたんです。昔の先生が」


 昔の私。未来の私。今の私。


 全部が混ざり合っている。


 チャイムが鳴った。


 でも、それは始業のチャイムではなかった。


 終業のチャイムでもなかった。


 永遠に鳴り続ける、時間のないチャイムだった。


 「さあ、授業を始めましょう」


 私は言った。


 教師の私が。


 児童の私が。


 すべての私が、同時に。


 40冊の作文ノートを、もう一度最初から読み始めた。


 山田翔太の「ぼくの大冒険」。


 でも、内容が少し変わっている。


 最初の一文が、違う。


 「なつ休みは、もう何回目だろう」


 私は、赤ペンを手に取った。


 でも、何を書けばいいのか、わからなくなった。


 ただ、一つだけ、確かなことがある。


 昭和62年の夏休みは、まだ終わっていない。


 これからも、終わらない。


 永遠に。




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