第26話 8月13日の夜、北村ひろみ先生の手記
■8月13日 (金) - 深夜、職員室の机で
ペンが、うまく握れない。指が、自分のものとは思えないほど冷たく、震えている。なぜ、私はまだ学校にいるのだろう。帰れなかった。いや、帰るという感覚が、もう思い出せない。
今日の午後、3時33分。空が、赤と紫の絵の具をかき混ぜたような、不気味な色に染まった。そして、時計塔に雷が落ちた。私はこの職員室の窓から、全てを見ていた。校庭に、何人かの子供たちの姿が見えたような気がしたが、轟音と閃光でよくは分からなかった。
問題は、その後だ。世界から、音が変わった。空の色がおかしい。時間の流れが、まるで粘り気を持ったように重い。
先ほど、割れた窓ガラスの破片に自分の顔が映った。疲れた、30代の女の顔。その隣に、不安げにこちらを見つめる、10歳の少女の顔が並んで映っていた。私とそっくりな顔。…いや、そっくりなのではない。あれは、紛れもなく、子供の頃の私自身の顔だった。悲鳴を上げて後ずさった。もう一度見ると、そこに少女の姿はなかった。
電話が鳴った。校内には誰もいないはずなのに。恐る恐る受話器を取ると、ザーというノイズの向こうから、聞き覚えのある声がした。
「先生、夏休み、本当に終わりますよね?」
それは、終業式の日に、ある生徒が私に尋ねた声だった。なぜ、今。声はそれだけを繰り返すと、すぐに切れた。
あの子たちは、無事だろうか。このおかしなことになった世界で、どんな夏休みを過ごしているのだろう。約束の日、9月1日。私が、あの子たちから受け取ることになる「夏休みの思い出」。ただの楽しい思い出が綴られているはずのその作文に、なぜこれほど胸騒ぎがするのだろう。




