第19話 8月7日 - 山崎千夏「井戸の底の声」
■古井戸からの誘い
おばあちゃんの家の庭に、古い井戸があります。
もう50年以上使ってなくて、木のふたがしてあります。ふたの上に、大きな石が置いてあって、「危険 開けるな」って札がはってあります。
でも、きょうの朝、井戸から声が聞こえました。
「千夏ちゃん、千夏ちゃん」
子どもの声でした。女の子の声で、わたしと同じくらいの年の子みたいでした。
井戸に近づいて、耳をすませました。
「いっしょに、遊ぼう」
井戸の底から、声が聞こえてきました。深い底から、響いてくるみたいでした。
「だれ?」って聞きました。
「さっちゃん」
さっちゃん? 知らない名前でした。
「どうして井戸の中にいるの?」
「30年前から、ここにいる」
30年前。また、この数字です。昭和32年から、井戸の中にいるってこと?
石をどけて、ふたを少し開けてみました。
まっくらで、底は見えませんでした。でも、ひんやりした空気が、下から上がってきました。
その空気に、あまいにおいがまざってました。花のにおいみたいな、でももっとこい、むせるようなにおいでした。
■水面に映る別の世界
小石を落としてみました。
ポチャンって音がするまで、5秒くらいかかりました。すごく深い井戸みたいです。
「水、あるの?」って聞きました。
「うん。きれいな水。でも、つめたい」
さっちゃんの声が、さっきより近くなった気がしました。
懐中電灯を持ってきて、井戸の中を照らしました。
ずっと下の方に、水面が見えました。黒い水でした。でも、その水面に、何か映ってました。
女の子の顔でした。
白いワンピースを着た、かみの長い女の子でした。手をふってました。
「下りてきて」
さっちゃんが言いました。
「こわい」
「だいじょうぶ。はしごがあるよ」
井戸の内側を見たら、本当にはしごがありました。さびた鉄のはしごが、下までつづいてました。
でも、下りる気にはなれませんでした。
「また来るね」って言って、ふたを閉めました。
でも、ふたを閉めても、声は聞こえました。
「待ってる。8月13日まで、待ってる」
■増える水と上昇する声
午後、また井戸を見に行きました。
ふたの下から、水がしみ出してました。
石をどけて、ふたを開けたら、水位が上がってました。
朝は、ずっと下だったのに、今は、半分くらいまで水が来てました。
水の中に、さっちゃんがいました。
でも、一人じゃありませんでした。
5人、6人、もっとたくさんの子どもが、水の中にいました。
みんな、白い服を着てました。みんな、上を見上げてました。
「千夏ちゃん、下りてきて」
みんなが、同じことを言いました。
同じ声で、同じタイミングで。
「みんな、だれ?」
「昭和32年の子どもたち」
「どうして井戸の中に?」
「8月13日に、落ちた」
みんなで、同じことを言いました。
「でも、楽しいよ。時間が止まってるから、ずっと夏休み」
水が、また上がってきました。
もう、井戸の3分の1まで来てました。
水の色が、変わってきました。黒から、赤になってきました。血みたいな、赤い水でした。
「もうすぐ、上まで来る」
さっちゃんが言いました。
「そしたら、みんな出られる」
みんな? 井戸の中の子たちが、出てくるってこと?
こわくなって、ふたを閉めました。
でも、ふたのすき間から、赤い水があふれてきました。
夜になって、井戸を見たら、水が地面まで来てました。
赤い水が、庭にあふれてました。
その水たまりに、子どもたちの顔が映ってました。
10人、20人、30人。
どんどんふえていきました。
そして、みんな、同じことを言いました。
「あと6日」
「8月13日」
「みんな、いっしょ」
おばあちゃんに、井戸のことを聞きました。
「昭和32年に、何かあった?」
おばあちゃんは、遠い目をしました。
「あの年の8月13日、町の子どもが、たくさん行方不明になった」
「何人?」
「40人」
40人。このクラスの人数と同じです。
「どこに行ったの?」
「わからない。でも、井戸の近くで、最後に見られた」
今、窓から井戸を見てます。
赤い水が、もう庭中にあふれてます。
水の中から、手が出てます。
白い、小さな手が、たくさん出てます。
みんな、手招きしてます。
「おいで」「おいで」って。
明日、井戸に下りてみようかな。
さっちゃんに、会ってみたいです。
30年前の夏休みが、どんなだったか聞いてみたいです。
でも、下りたら、もう上がって来れない気がします。
30年後の子どもに、「いっしょに遊ぼう」って言うことになる気がします。
あと6日で、8月13日。
井戸の水は、どこまで上がるんだろう。
町中を、赤い水でいっぱいにするのかな。
そして、みんな、井戸の中に引きずり込まれるのかな。
今、さっちゃんの声が聞こえます。
「千夏ちゃん、もうすぐだよ」
「みんなで、待ってるよ」
担任教師の赤ペンコメント:
井戸の声、さっちゃんの声、千夏さんにはとどいたのですね。昭和32年の子供たちが、まだ井戸の底にいるなんて…。早くおうちに帰してあげたいけれど、先生にはどうすればいいのか分かりません。でも、ぜったいに一人で井戸におりてはだめ。やくそくよ。みんなで、いっしょにいる方法を考えましょう。