◇4ー1 魔術科
魔術学科、四学年での授業。
魔法科棟の教室に比べるとやや小ぶりな教室で、ヴァルターは革張りのトランクを片手に教壇に立っていた。
年々人数は増えているとは言え、魔術師は魔法使いに比べればまだまだ少ない。
学年別に教えるともなれば更に減る。
教室内には十七名の生徒が各々階段状の席を選んで座っていた。
魔法科の半数程度しかいないにも関わらず、教室内はあまり寂しく感じない。
彼らの連れている使い魔が関係しているのだろう。
安定した人気の四種から、ちょっと変わった相棒まで。
生徒らが連れている使い魔たちの存在感は確かなものだ。
ついでに言えば、癒し効果も。
「四学年の皆さんなら、もう既に補助用の増幅装置については学んでいるかと思います。学生の内は補助金の範囲で買える宝石を加工したものを使用しますが、いずれは自身で選んでいかなければなりませんよね。
使い魔との相性も見極められているこの学年だからこそ、増幅装置について理解を深めていきましょう」
魔術師は、変換機構を持つ存在がいなければ魔術を行使できない。
低学年の内には使い魔の正しい世話と魔素を借りる訓練を積み、三学年からは本格的に魔述式を学ぶ。
ただ、ヒトとそれ以外の存在では、やはり魔素の生成量には大きな差が生じる。
それを補助する為に使用するのが、魔力増幅装置としての『魔宝石』だ。
一般的には、掘り出された原石を特殊な技術を持った職人が切り出し、加工を施したものが使われている。
ヴァルターは教卓の上に載せたトランクを、やや無造作に開いた。
途端に、生徒たちから小さく感嘆の声が上がる。
二段式のトランクの中には、学生の内には到底お目にかかれないような増幅装置──要するに宝石の類がぎっしりと詰まっていた。
「一般的には加工された宝石を装飾品の形にして使用することになります。ただし、これらは魔術の行使と共に消耗し破損しますから、いずれは買い替えねばならない訳です。
魔術師というのは、兎角金が掛かります。質と値段の見極めは、この先を生きる魔術師にとっては最重要スキルであり、下手な魔述式を覚えるよりも優先されるべき事項です」
表立っては明言されないが、魔法はいずれ失われるかもしれない技術だ。
それを補うために、魔術師に対する金銭的補助も多少は行われている。
ただ、当然の如く無駄遣いは出来ない。
魔法が使える者が納めた税金を、魔法を使えない者の為に使うだなんて、という声が上がることもある。
魔術師が快適で安全な生活を送るには、魔述式以外の技術も当然のように必要になってくるのだ。
「ところで、増幅装置には加工済みの宝石を選ぶことが多いですが、その他にも使用できるものがあります。答えられる人はいますか?」
「はいっ!」
問いかけには、丸眼鏡の男子生徒が手を挙げた。
「では、エンリケスさん」
「頂きの薔薇は、宝石類と同じく魔素を増幅する効果があります」
「その通りです。他には海底の百合や灼熱の霞花などがありますね」
肯定を返したヴァルターは、トランクの下段の方からケースに仕舞われた一輪の薔薇を取り出した。
透き通るような花弁を持つ、大輪の青い薔薇だ。
中心に行くにつれて濃い色へと変わり、明かりを受けてきらきらと輝く様は宝石に勝るとも劣らない。
再び、教室中の生徒から感嘆の息が零れ出た。
「頂きの薔薇は宝石類と同じく増幅装置として働く数少ない植物です。
ただ、これ一つで最高級の純蒼宝石二つ分ほどの値段がしますし、持ち運ぶにも適さないので、普段から使用するのはちょっと現実的ではないですね」
説明するヴァルターの頭に浮かんでいたのは、学園長室の植物たちである。
あの時は然程気に留めていなかったが、室内のどれもが希少な植物だったように思う。
ヒト由来の魔素は、複雑かつ完成されているが故に、外部補助での増幅が非常に難しい。
魔法使いが増幅装置には手を出さないのは、その辺りも関係している……のだが、どうやら学園長殿はしっかりちゃっかり使いこなしているようだった。
規格外の存在というのは何処にでもいるものである。
「では。此方の薔薇と宝石類数点は授業後半、皆さんが見れるよう回しますので、ぜひ自分の目で確かめて審美眼を磨いてくださいね」
笑顔で告げると、教室内の生徒数人からもはや悲鳴に近い歓声が上がった。
多学年での授業でも、大体同じような反応をされている。
やはり、興味を引くには実物を見せるのが一番いいようだ。
ヴァルターは授業計画を立てた際の己の判断に満足げに頷いた。
「えぇっ!? い、良いんですか!? サフィロ二つ分の希少品ですよ!?」
「そうですね。とっても貴重な品なので、くれぐれも壊さず丁寧に見てくださいね」
いずれはこのレベルの品を使うこともあり得るのだから、と告げると、生徒の数人は顔を引き締めた。
おそらくは一級魔術師を目指す者だろう。
真剣に授業に取り組み、美しい希少品に目を輝かせる様は、同い年であってもなんだか微笑ましいものだ。
切っ掛けは師匠の挑発だが、こういう光景を見ると教師をやるのも悪いもんでもないな、と思う。
ヴァルターは、魔術をとても楽しいものだと思っている。
いや、まあ、修行中は『殺してくれ』と『ぶっ殺してやる』を行き来する衝動を師匠に向けていたが、身につけた今では、心底楽しい。
使い魔もそうだが、宝石による増幅なんて、なんとも浪漫があって最高じゃないか、とすら思っている。
心の底から期待に満ちた様子の、魔術学科の生徒たちから向けられる羨望の眼差しは素直に嬉しい。
ああ〜、出来ることなら魔術学科でだけ授業がしてえ〜〜、というのがヴァルターの極めて正直な気持ちだった。
残念なことに、本日も午後には普通に他学科の授業が入っているのだが。
例の学年でなければ、まあ、まだマシである。
脳内で不平不満を並べ立てる内、授業終了の鐘が鳴る。
レポート作成と次回の授業範囲を告げて去ろうとしたヴァルターは、そこで生徒に呼び止められた。
「ヴァルター先生、あの……」
「どうしました、エンリケスさん……だけではなく、リュライさん達まで」
もしや、授業時間内で回した以外にも見たい宝飾品があったのだろうか。
昼休みは一時間あるので、時間的には余裕がある。
少しばかり付き合うのもやぶさかでは無いな、などと考えていたヴァルターに、トレイユ・エンリケスが意を結したように問いかけた。
「いえ、その。……先生は、や、辞めたりしないですよね?」
「……はい?」
首を傾げたヴァルターを、複数人の生徒が囲んで見上げる。
「辞めた先生も、みんな、良い先生だったんです! でも、魔法学科のエルナンドとか……ドリエルチェ先生とか、そういう奴らのせいで辞めちゃって……」
「僕たち、卒業までヴァルター先生に教わりたいです!」
「も、もし先生があいつらから酷い目に遭わされたら、私たちが庇いますから、だから辞めないでください……!」
ぽかん、と口を開いたヴァルターは、脳内で軽く頭を振った。
いや。待て待て。
辞めるも何も、まだ学期が始まってから一月ほどしか経っていないだろうが。
ヴァルターは少なくとも一年は勤めなければならないのだし、それより手前で辞めるつもりは──まあ、今のところは無い。
そんな深刻な顔をしてわざわざ言いに来なくとも……と思ったのだが、緊張で強張った顔を見るに、彼らは真剣にこの先の学園生活を危惧しているようだった。
生徒にまで心配されるほどに酷いのか。エルナンド一派は。
そりゃあ、ムカつくこともあるし、クソ怠い〜とは思っている。
だが、師匠との修行に比べたら実害など羽根で撫でられる程度のものだ。
崖から突き落としておいて『ほらほら〜、浮遊が使えないと死んじゃうよ〜』なんて言われたりもしないし。
火柱に突っ込まされて『よーし! 水壁でがんばろっか!!』とも言われないし。
大森林に着の身着のままで放り込まれて『あっ、言うまでもないけど自分で食料調達してね〜』などとも言われないし。
まあ、そんなことを言ったところで彼らもリアクションしづらいだろうが。
どう答えたものかな、と眉を下げて生徒達を見下ろしていると、少し後方に立つ女生徒が控えめな声で呟いた。
「や、やめなよ……先生困ってるじゃん……」
「でもっ、アンナだって先生が辞めたらやだって言ってたでしょ?」
「それは……そうだけど……」
無理強いは良くないよ……なんて弱い声音で響いた言葉に、ヴァルターはあくまでも明るい笑顔で告げた。
「心配しないでください、私は間違いなく職務を全うする為に此処に来ました。皆さんの不安を取り除くことが私の仕事ですので、きちんと続けますよ」
でないと、あの強欲の魔女が何を言い出すか分かったものではない。
あの程度の嫌がらせで学園を去ったともなれば、アフィスティアは必ずや指を指して笑いに来るだろう。
笑いすぎて呼吸困難で痙攣するくらいには馬鹿にしてくることだろう。なんなら使い魔の白蛇──ヴィダも一緒に笑ってくるかもしれない。
思い出して無意味にムカつきかけていたヴァルターは、時計へと目をやった。
なんとも、生徒たちにも分かりやすい仕草で。
気のつく生徒などは、ハッとした様子で遠慮するように距離を取った。
「私はお昼に行きますね。皆さんも、午後の為にもしっかり食べてください」
はーい、と明るく響く声音を聞きながら、ヴァルターは教室を後にする。
自作の弁当があるので、ヴァルターは購買にも学食にも滅多に立ち寄らない。
真っ直ぐ研究室に戻るだけだ。
いやあ。
それにしても。
「魔術学科は素直で良いなあ!」
人目のない廊下までやってきたところで、ヴァルターは機嫌よく呟いた。
大きく拳を突き上げ、楽しげに歩くヴァルターの頭の上で、ツヴァイが同じく機嫌よく鼻をひくつかせる。
もちろん、魔術科にも厄介な生徒は居る。
全員が全員良い子ちゃんな訳もないし、上学年については『年下の教師』という時点で面白く思っていない者だっている。
実際に言葉にされたことも何度か、あるといえばある。
けれども授業の度に毎度わざとらしく席を立ち、たまにいるかと思えば暴言で授業を妨害し、グループで連んでいつまでもヒソヒソ笑い合っているような輩よりは百倍マシである。
抗議文も脅迫文も飛んでこないし。
何より、同じ魔術師であるが故に、きちんとした実力を見せれば態度を改めてくれるところが良い。
使い魔は確かに癖の無い魔素を持つが、それでも魔術師側との相性はある。
相性や適性の見極めが原因で伸び悩む生徒はやはり多い。
ヴァルターは基本的に大体の魔素に関して『最適』を見極める勘が磨かれているので、そうした生徒にも手本が示しやすいのだ。
現行の魔法使いたちは忌避感情から遠ざけているが、ちょっと割り切れるやつならすぐに気づくだろう。
自分より優れた魔術を使う魔術師に〝最適〟な魔述式を見定めてもらうのが、最も手っ取り早い成長への道である────ということに。
オルキデアとアフィスティアが懇意にしているのもそれが要因だろう。
魔術は魔法のためになるし、魔法も魔術のためになる。
相互理解が進み、手を取り合うことが出来れば我が国の技術は飛躍的に発展する。
正しく言うのであれば、現状は他国に遅れを取っている、とも言えるが。
ただ。まあ。
「そこまで整えてやんのはめんどくせえ〜わな……」
悪感情を持って接してくる奴に協力してやろう──なんて人間は、それこそ魔術師も魔法使いも関係なく少ない。
一方的に嫌ったのだから、嫌われても当然の話である。
虐げておきながら、憎まれることなく従順に振る舞うと思っている方がおかしい。
誠意を持って接した上でなら応える準備はなくもない、程度の好感度だ。
だからこそ、ヴァルターは思う。
やはり、レネアは魔術科に転科するべきではなかろうか、と。
彼女ほど真面目で勉強熱心な人間ならば、魔術科でもきっと上手くやれるだろう。
魔述式への理解度を見るに、下手すれば歴代の優秀者よりも素晴らしい功績を残すことすら考えられる。
本来磨かれるべき才能が埋もれていくのは、ヴァルターとしても微妙な気分だった。
宝の持ち腐れもいいところだよなあ、なんて思いながら研究室へと戻ったところで────ヴァルターは自室の前に立つ黒髪の男を見とめた。
メビウス・ログラック。剣術科の教師だ。
歳は三十。魔法剣士に相応しい逞しい身体付きに、日に焼けた勇ましくも爽やかな顔立ちの男である。
「ログラック先生。どうかなさいましたか」
「ああ、来週の合同演習の件で話がしたくてな。今、時間大丈夫か?」
「構いませんよ。午後一は空きコマなので」
開錠するヴァルターの隣で、メビウスはやや苦笑染みた笑みを浮かべる。
「悪いな、待ち伏せみたくして。本来は在室蝶が働くんだが……ここしばらく調子が悪くてな」
こんこん、と拳の端で叩かれたのは、研究室の扉の脇に掛かった魔法陣だ。
学園では教員にそれぞれ個別の部屋が与えられている。
その部屋の表札に当たる部分には、固有の花を模した飾りがついている。
花に触れると、反応して魔法で出来た蝶が出てくる。
在室ならそのまま花に止まるし、校内に居るなら行く先まで案内してくれるのだ。
確か、学園長の施した魔法だと記憶している。
発動範囲が校舎に限定されているが非常に便利な魔法であり、魔述式がひっくり返るほどに長いと有名である。
そもそも、パスクアル学園長の魔述式は、基本的にやたらと長い。
魔法開発の面でも名高い彼女の魔述式をめぐって、『適正量を守って余計な記述を省け派』と『装飾記述がゆとりある魔法を生む派』が永遠に争っているのは有名な話だ。
ちなみに、『なんでこれで発動するんだ』と泡を吹く魔法使いが年に数人出るらしいとか、なんだとか。
まあ、そんなことはさておき。
「茶でも出しましょうか」
「いやいや、お構いなく。すぐに去るよ」
室内へとメビウスを招き入れたヴァルターは、テーブルの上に広げられた演習地点の地図を見下ろした。
地図には地形による危険箇所と魔物の発生区域が記されている。
この辺りを活動区域にしている魔術師ならともかく、ヴァルターは師匠に買われて以来、聖峰に篭りっぱなしの引きこもり魔術師だ。
演習というのはただでさえ不測の事態が起こりがちだ。
三学科合同ともなれば尚更である。
生徒の安全の為、念入りな最終確認に来てくれたらしい。
……まあ、用件はそれだけでは無かったようだが。
「──そんで? どうです、魔法学科は」
「どう、と言われましても」
一通り話が済んだ頃、メビウスは少しばかり自嘲を含んだ笑みを浮かべて尋ねてきた。
敬語混じりの問いかけが何を聞き出したいのかを察したヴァルターは、にこやかに当たり障りない答えを返す。
「基本的には問題ありませんよ。パスクアル学園長が就任してから三十年、誠実に運営されていることがよくわかります」
「そーゆーのは良いからさ。なんか不満とかあったら、遠慮なく言ってくれよ」
どうやら、この答えはお気に召さなかったらしい。
新人教師のメンタルケア、という面では、多少おせっかいな人間がいるのは良いことなのだろう。
剣術科、というのも立ち位置的に中立で良いとも思う。
ただ、それを聞いたヴァルターはと言えば。
不満ねえ……、と視線を天井の灯へとずらしていた。
なんとも冷めた仕草だが、別に気分を害した訳ではない。
言うなればそれは、白けたような、というのが合っている。
「とりあえず、魔法科の教師が魔術師に対して攻撃的なのはどうにかなりませんかね? 生徒以前の問題だと思うんですが」
極力棘を引っこ抜き、まろやかに丸めた声音は、それでも尚冷ややかに響いてしまった。
二、三度の瞬きの後、メビウスはぐしゃりと黒髪の短髪を掻き混ぜる。
なんとも強い苦悩の滲む仕草だった。
「そこだよなぁ〜……!」
「ええ、そこです。在籍する六名の殆どが私に対して随分と当たりが強いです。特に学科長が酷すぎます。御歳を見るに前時代的な考えでも無理もありませんが、あれじゃあ差別撤廃なんて夢のまた夢でしょう」
「そうなんだが……あれでも、数年前までは大分大人しくなってたんだよ……」
項垂れるメビウスの様子から察するに、彼も学園内の現状は憂いているようだった。
少なくとも、そこに演技は無いように見える。
腰を落ち着けたヴァルターは、テーブルに手を突き項垂れるメビウスに、端的な問いを投げた。
「それは……やはり『神子』による影響ですか?」
真っ先に浮かぶのはそれだった。
神子として生まれたはずの双子の片方が、魔術師よりも更に難のある魔法的問題を抱えている。
それは魔法使いの立場を盤石のものと信じる教員たちにとっては、耐え難いものがあるだろう。
優位に立った上で存在を許容してやる、というスタンスが彼らの限界なのだ。
その優位性が揺らぐようなことがあっては、我慢がならないのも当然だと言える。
予測を立てて話を振ったヴァルターに、メビウスはいや、と首を振った。
「……在室蝶の不調からしてそうなんだが……恐らく、魔法学科の教師は『学園長』はそう長くはないと思っている」
「あ。待ってください、それ以上は要らんです、結構。帰ってください」
「まあまあ、まあまあまあ、聞いてくれよヴァルター先生!」
下手に学園の事情を知らされるなんて勘弁願いたい。
即座に飛び退いたヴァルターに、メビウスは縋り付くようにして詰め寄った。
ヴァルターに出来ることなど精々、魔術の何たるかを生徒に教えることくらいだ。
クソ面倒臭い学園内の勢力争いなど微塵も興味は無い。
大体、ぽっと出の何処の馬の骨とも知れん若造に、いかにも頼りにしてます、と言った顔で詰め寄るな、と言いたい。
「せっかくパスクアル学園長が立て直してきたものが、あの人の不調でもって揺らいでいる。でもな、そもそも学園長が変わった程度で揺らぐような教育じゃあ駄目なんだよ」
「それはごもっともですが。何十年とそうして生きてきた人達でしょう、今更何を言っても無駄では?」
強いて例外を挙げるとするなら、ラフル・サーキスタだろうか。
学期初めからやたらと当たりの強い他の教師陣とは違い、彼はヴァルターと触れ合わないことを選んでいるようだった。
嫌いなものは目に入れない派、ということかもしれないが。
「別にヴァルター先生に魔法使いの意識改革を!とか言う訳じゃないぜ? ただちょーっと……上手いこと手伝ってもらえれば……と」
「嫌ですけど。ほとんど部外者の厄介者でしかない私に頼まないと変わらないような時点でお終いですよ」
「部外者だからこそだよ! ヴァルターには柵がないだろ?」
この短時間で一気に名前呼びになっている。
距離の詰め方が激しい。
だがまあ、真っ直ぐな性根の人間は嫌いでは無かった。
「無理にあれこれしてくれってんじゃないんだよ、むしろヴァルターが何かする必要はないとも言える。アンタが学園に来てから一月、もはや居るだけで何かが変わり始めてるからな」
「じゃあなんでわざわざ面倒事を暴露してったんです?」
「いや、だって。魔法科の空気最悪だから……嫌だな〜って……」
「嫌仲間を増やそうとしないでください」
「すまんすまん、とりあえず俺の方からも態度改められないかって根回ししてみるからよ! その、なんかあったら相談してくれよな!」
誤魔化し笑いと共に言い残したメビウスは、そのままの勢いで去っていった。
まあ、要するに、彼も『辞めないでくれ』と言いに来たのだろう。
静かになった室内で、ヴァルターは溜息混じりにツヴァイを撫でる。
「……師匠も、一体何のつもりなんだか」
脳裏に浮かぶのは、欲に塗れた麗しの美女の顔だ。
師匠からは、例の手紙以降、何一つ連絡らしきものは届いていない。
元々筆不精な人間だからこまめに連絡が来るとも思っていない。
だが、もう少し親切な説明があっても良いものじゃなかろうか、と思う。
パスクアル学園長が顔合わせ以来ヴァルターと話す機会を持たないことも、多忙以外に『不調』が関係しているのだろうか。
「まあごちゃごちゃ考えたってしょうがねえわな。飯でも食うか」
『飯』と聞いた途端、窓際の日向でのんびりしていた二匹と、頭上の一匹が大きく反応を示した。
「お、よしよし、今用意するからなー」
魔兎であるアインスたちには食事は必要ない。
それでも三匹はヴァルターが食事をする時には、卓上やら膝の上やらに乗りたがる。
三匹とも、ヴァルターが何かを食べているところを見るのが好きなのだ。
黒白茶のもふもふに囲まれて弁当を広げたヴァルターは、神ではなく三匹に食前の祈りを捧げてから、食具を手に取った。
◇◆◇◆
ヴァルターは学園内ではあまり、レネアと関わらないと決めている。
勿論、教師として授業での質疑応答くらいはするが、それだけだ。
魔術科の教師──それも何処の馬の骨とも知れぬ新米の若造が、いくら落ちこぼれとはいえ『神子』に深く関わる素振りを見せれば、神殿派の者がどう悪意を持って捉えるか分かったものではないからだ。
故に、ヴァルターは週末、教会奥の池で釣りをするだけに留めている。
レネアが会いたければ来ればいいし、来たくないなら来なければ良いのだ。
ついでに言えば、この教会の担当神官には、お布施と称して結構な金額を渡している。
人は良さそうだが、油断はならない。
彼女は最初から魔術師であるヴァルターにも好意的な対応だったが、別に親術派という訳でもないだろう。
「先生!」
三匹目を釣り上げたところで、弾むような声が掛かった。
視線を向ければ、そこには鞄を抱えたレネアが息を切らせて立っていた。
走ったせいか、白い頬は真っ赤に上気している。
転けないか心配になるほどの勢いでやってきた彼女は、湖面の近くで慌てたように足音を潜める。
「どうも、ルクシュタインさん」
そろりと水面を覗き込んだ彼女に呼びかけると、笑顔で返事が返ってきた。
次いで、彼女はカバンからレポートを取り出す。
「それと、先生に貸して頂いた書籍も読み終わりました! ありがとうございます」
「もう読んだのか。……ちゃんと寝てるか?」
「えっと……さ、三時間は……」
ヴァルターは無言でレネアを見やった。
呆れの滲んだ視線に、レネアはきゅっと縮こまる。
「……す、すみません。ちゃんと寝ます」
「睡眠は大事だぞ、徹夜したところで効率落ちるだけだし」
「面白くって、つい」
「まあ、気持ちは分かる」
ヴァルターが魔術の面白さに気づいたのは、師匠がハジャ湖を離れてからのことだ。
二年間、夢中になって魔導書を読んでいるうちに夜が明けていたのも一度や二度ではない。
苦笑したヴァルターに、レネアも照れくさそうに笑みを返した。
彼女は最近、笑顔が増えた気がする。
「来週は合同演習があるので、先生に会える回数が増えますね」
追加講義を取ったら更に会える回数増えるけど、とはわざわざ口にはしなかった。
嬉しそうに呟く彼女の楽しい気分に水を差すつもりはない。
ヴァルターはただ、「そうだな」とだけ相槌を打った。