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◇9ー1 学期末



 ヴァルターは、ラトリナを使ってアンディの私物に異変がないか探らせた。

 最近増えたか、あるいは減ったか。


 増えた場合には、実物を手に入れられるのが一番良い。

 減った場合でも、何が無くなったか判明するだけでも手掛かりになる。


 物的な証拠がない、とは考えていなかった。

 アンディ・エルナンドは魔法使いである。その身に宿る魔素によって、魔的影響へある程度の耐性を持ち合わせている。

 物理的な品もなく、遠隔で暗示をかけるのはそう容易いことではない。

 それも、本人の意識に違和感なく仕込むなら、やはり書物の類いを使った、読むという行為に組み込んだものだろう。


 そう考えて、報告を待っていたところ。

 期末試験の一週間前。待ち合わせた空き教室に、ラトリナは一冊の魔導書を片手にしてきた。

 犯人は、騒動後に回収は出来なかったらしい。


「プラグメ先生から、もう少し勉強しなさいって渡されたんだって」

「……プラグメから?」


 ユマ・プラグメは、歴史学の教師だ。

 ドリエルチェの取り巻きをしている、分厚い眼鏡をかけた気の弱そうな女教師。


 魔法学科の教師である以上、神殿派なのは確かだろう。

 ドリエルチェの授業で起きたのも、実習上の『事故』とするなら仕方ないことか。


「しっかり仕事したんだから、アンディのせいじゃないって証明してよね! ショックでまだ学校来れてないんだから……!」

「あーはいはい、分かった分かった」


 軽い調子で追い返す。

 被害者面で結構なことである。被害者意識の強い人間は、扱いにくいが操りやすい。

 

 魔導書を開いてしばらく。

 ヴァルターは静かに眉を寄せた。

 該当する箇所をなぞり、何度か確かめる。


「……別件か?」


 ヴァルターはてっきり、この魔導書からも痕跡は出ないと思っていたのだ。


 だが、丁寧に隠されてこそいるものの、これは見る者が見れば分かってしまう。

 前回とは痕跡の消し方が異なる。


 大規模な転移であるためにドラゴンの一件だけ隠匿したのだろうか。

 もしくは、プラグメはバレても簡単に切り捨てられる程に価値がないのか。


 しばらく考えたものの、ヴァルターは別件だと結論づけた。

 あそこまで丁寧に隠蔽出来る者の仕事にしては雑だ。

 オルキデアの一番弟子であることを誇る人間が、この粗雑さで満足する筈がない。


 魔導書を閉じる。

 ヴァルターは教室を出た足で、プラグメの研究室へと向かった。



      * * *



 証拠を手に問い詰めると、プラグメは予想よりも遙かにあっさりと白状した。


「そ、そうですよ!! 私がやりました! でも、それの何が悪いんですか!? あの婆、いつも私のことを扱き使って、偉そうに!

 本当は学園長なんてやる度胸もないくせに、口ばっかりで! 良い加減うんざりしてたんです! さっさと辞めればいいんですよ!」


 魔法科の失態ゆえ、揉み消されると思って油断していたのだろう。

 詰め寄ると、彼女は猫背気味の背を更に丸めながら吐き捨てるように自白した。


「……アンディを選んだのも、腹いせということですか?」

「ええ。彼、随分と調子に乗っててむかつくでしょう? 親がどれだけ稼いでいるか知りませんけど、貴族の生まれでもない癖にあんな態度で。教師相手にも見下してばかりで、目障りだったんです。良い気味ですよ」


 目的はレネアではなかったようだ。

 ただ、あの方法を選んだ時点で、巻き添えにするつもりではあっただろう。


「……貴方の行いで、何の罪もない生徒が怪我を負いましたが?」


 ヴァルターの声には、確かな軽蔑が滲んでいた。


 プラグメ自身、罪悪感は多少持ち合わせていたらしい。

 背を丸めた彼女の目は、動揺に微かに揺れる。

 だが、すぐに勢いを取り戻した。


「それは……っ、でも、そんなの、魔法が使えないのが悪いんじゃないんですか? あれから平気な顔をして来てるんだから、何の問題もないでしょう!」


 ヴァルターは、思わず天井を見上げていた。

 この学園にはクソしかいねーのか? の意である。


 しばらくの沈黙。

 彼の口からは、悪態より先に疲弊と呆れの滲む溜息が落ちた。


 プラグメは追撃がないと察すると、虚勢を張るように大袈裟に鼻を鳴らした。

 

「言っておきますけど、貴方の言葉を信じる人なんて誰もいませんよ? 良い気になって脅しに来たみたいですけどね、私はこれまで我慢して横暴にも耐えてきたんです。

 貴方と私じゃ築き上げてきた信頼が違うんですよ!」


「あーはいはい、そうですね。俺の言葉を信じる人なんて魔法科にはいませんね」


 ヴァルターは聞き流しつつ、手元の魔宝石を操作した。


 魔術師は、増幅装置として魔宝石を所有している。

 その加工は、これまで映像や音声保存媒体として使われていた技術を応用したものだ。


 元を辿れば同じ技術であるので、魔宝石はある程度の技術があれば、映像音声記録装置として使える。

 まあ、何かしら保存すると増幅に使えないので、費用対効果を考えると、魔術師にとっては無駄遣いも良い所だが。

 ヴァルターにとっては然程痛い出費でもなかった。


『そうですよ!! 私がやりました! でも、それの何が悪いんですか!? あの婆、いつも私のことを扱き使って、偉そうに!

 本当は学園長なんてやる度胸もないくせに、口ばっかりで! 良い加減うんざりしてたんです! さっさと辞めればいいんですよ!』


 さあ、とプラグメの顔から色が無くなる。

 ヴァルターは、伸びてきた手から即座に魔宝石を庇うと、にっこりと微笑んだ。


「これ、あの婆(・・・)に聞かせてきてもいいですか?」

「はっ、えっ、ちょっと、や、やめてください! こ、この卑怯者!」

「いや〜、聞かれたからってすぐ自白する方が悪いんじゃないですかね……」


 この優位性は証拠品によって保たれている。

 つまりは証拠の品さえ奪うか壊すかすればいいのだが、プラグメが動く気配はなかった。


 警戒は怠らずに観察してみるが、荒事には向いていないようだ。

 ただ両手を握り合わせたまま、睨みつけてくるだけだった。


「御安心を。別に今すぐ暴露しようなんて思ってませんし。ただ少し気になったもので、個人的に調べてただけなんですよ」

「な、なんで魔術師がわざわざ魔法科の事故に首突っ込んでくるんですか……!」

「だって、誰もまともに調べないんですもん。ムカつきません? 緋龍の時は職員会議までしたのに」


 変に神殿絡みの調査だと思われても困る。

 単なる緋龍の件の意趣返しであると思わせておくことにした。

 

「ちなみに、先生は緋龍の件には関わってないですよね?」

「ある訳ないでしょう。私、魔法は……あんまり得意じゃないんです。あんな生き物、名前を聞くだけでも悍ましいですよ」

「はあ、下手なんですね。偉そうに言っておいて」

「あんまり得意じゃない、って言ったんです! あの出来損ないと一緒にしないでください!」

「【落水(イロウ)】」

「きゃあ!?」

「ああ本当だ、稚拙極まりないですね」


 冷めた顔で、尻餅をついたプラグメを見下ろす。


 上から降ってきた水を被った彼女は、情けないことに避けることも防ぐことも出来ずにびしょ濡れになった。

 これが炎であったなら、腕で顔を庇うことすら出来ていないだろう。


 面倒事は御免なので、服だけは乾かしておいた。


「いきなり何をするんですか、やはり非人族は野蛮──……っ、もう! 最悪!」


 魔宝石を軽く揺らして見せれば、彼女は悪態を最後に黙り込んだ。

 いつまでもお邪魔しているのもなんなので、その辺りでお暇しておくことにした。


 アンディ・エルナンドの件は、どうやら神殿とは関係がないらしい。

 ドリエルチェへの嫌がらせだったのだから、ある意味では関わっているとも言えるが。


 もう動くつもりはないということだろうか。

 緋龍の件が失敗したことで諦めたか、あるいは何か別に準備をしているか。


 軽く探ってみたものの、神殿は運営自体は至って清廉潔白だ。

 不正な金の動きもなければ、信徒への待遇も手厚い。

 少なくとも王都に関しては、慈善事業にも福祉活動にも力を入れている。


 ただ、神子の片割れを冷遇しているだけ。

 それすらも、彼らにとっては『魔法が使えないのだから仕方がない』で済むのだろう。


 傲慢で身勝手だ。

 だが、上層の人間とはいつだってそういうものでもある。


 ヴァルターの頭には、先日交わしたリディアとの会話が浮かんでいた。



     *   *   *



 レネアの傷がすっかり治った頃。

 ヴァルターは約束通りにリディアと話をする場を設けた。


 魔術師であるヴァルターが神官長と関わる場面などそう簡単には作れない。

 内情については、リディアに聞いた方が早いと判断した。


「神殿は……確かに居心地がいいとは言えません。数年前までは魔術を受け入れようという動きもあったそうですが、今ではほとんどが魔術排斥派で、年々その意識は強まっていると思います。

 魔法が使えないことで姉さんにも酷い扱いをしていますし、不愉快極まりないです。ただ、他の神官の方はともかく、神官長様に関しては……姉さんを虐げようとしている訳ではない、と思います」

「というと?」


 片眉を上げたヴァルターに、リディアは続ける。


「あの方は恐らく、心の底から姉さんに興味がありません。大神殿ではなく遠方の教会を指定しているのも、冷遇というよりは……姉さんが大神殿に来ることで軋轢が生じて、神官長様が処理しなければならない面倒ごとが増えてしまうから……だと思います。

 下手をすれば、私にも関心はないかと。きっと、三賢者にも届く実力をお持ちですから、職務として長をされているだけで、神子程度では興味の対象でもないのかもしれません」

「なるほどね」


 グシオン・リウェイズの中にあるのは、双神にも届くとされる希代の天才、賢者オルキデアの存在のみである。

 二年前の一件以来、彼の中ではオルキデアの存在は更に大きいものとなっただろう。

 神子にも興味が無い、という話は学園長から聞いた彼の印象からも外れることはなかった。


「神官長様の様子……ですか? ええと、仕事熱心な方でいらっしゃいます。学園長の一番弟子でいらっしゃいますし、実際に驚く程に優秀で、神殿はあの方が居ないと回らない程だと聞いてます。

 多忙故か、伏せっていた時期があるようですが、最近は顔色も良くなられてますね」


 神官長と学園長の一件については、当然ながら神殿でも知る者は少ない。

 首謀者であるグシオンと、彼が信頼する幾人かだ。


 何せ、あのオルキデア・ノーツ・パスクアルに洗脳魔法を掛けようとしたのだ。

 失敗した以上、隠蔽工作は念入りに行われたに違いない。

 普段の業務に加えてそんな作業が行われたともなれば、倒れる程に体調を崩してもおかしくはない。

 そもそも、敬愛する師を動く死体に変えてしまったのだから、心労は想像を絶するものであるはずだ。


 となると、少し妙な点がある。


「顔色が良く、ねえ」


 オルキデアは未だ、大罪を犯した動く死体以外の何者でもない。

 一番弟子であるグシオンにとっては、常に最大の問題が生き続けているようなもので、気が晴れるようなことはないだろう。

 神子として最も関わりの多いだろうリディアから見ても変化があるのならば、それは明らかに何かしらの好転を示したものである筈だ。


「何か解決の方法が見つかったとでも……?」


 緋龍の一件も、神殿に――というよりはグシオンにとっては意味のある行いの筈だ。

 だが、学園の生徒を襲撃するなどという方法を取った理由が分からない。

 まさか、ヴァルターがオルキデア直々に呼ばれたように見えたから、始末したいと願った訳ではないだろう。


 ……もしかしたら、狂信者とも呼べる一番弟子にとっては、それもあり得るのかもしれないが。


「……あの、神官長様に何か、問題でもあるのでしょうか」

「いや、少し気になっただけで、大したことじゃないんだ」


 口にしてから、あまりにも白々しい響きになったな、と思った。

 対面に座るリディアも、同じように思ったらしい。彼女は姿勢を正し直すと、真っ直ぐな声で告げた。


「先生。もしも何か気になることがあるのでしたら、私の方でもお手伝いします」

「手伝いだっていうなら、今ので十分だ。無理する必要は無い」

「だって、姉さんのためになることなんですよね?」


 リディアの問いには確信があった。ヴァルターは目を逸らしつつ、軽く頭を掻く。

 彼女にこの話を持ちかけた時点で、ある程度予測されるのは当然だとは思っていた。

 その言葉を待っていなかったかと言えば、嘘にもなる。


「……二年前、レネアの転科が却下された際に、学園長と神官長の間で少し問題が起こってな。俺はそれを解決することで、彼女が魔術科に入れるようにしてほしいと頼まれてるんだ」

「姉さんを、魔術科に……」


 嘘ではない。結果として、この状況を解決したのならばきっとそうなる。

 何をもって解決とすればいいのかすら分かっていないのが現状だが、出来ることはやるつもりだった。


「私は神子ですし、神殿で多少無茶をしても咎められることはありません。協力させてください」

「神子である前に生徒でもあるだろ。無茶はしなくていい。出来る範囲で、もう少しだけグシオンについて知りたい」

「分かりました。調べてみます」



       *   *   *

 


 そうして、学期末。

 当然ながら試験後のヴァルターは採点に忙殺されていた。


「だぁーっ、クソ! 終わらねえが!?」


 本来、低中高の学年区分けごとに非常勤の補助教員が居る。

 魔術科にも当然居る。だが、この二年で悪化した学園の状況を見た彼らは、契約更新を望まなかった。


 極めて合理的な判断である。ヴァルターでもそうする。

 誰がわざわざ重荷を背負って針山を歩きたいものか。


 結果、ヴァルターは現在、全学年の採点を一人で一気にこなすという、恐ろしい苦行と向き合っていた。

 人数は魔法科の半数とは言え、全学年別の答案を全て採点せねばならない。

 時間が足りない。腕も足りない。目も足りない。はっきり言って吐きそうだった。


 実技はまだ良い。その場で採点し、後日評価を纏めれば良い。

 問題は筆記試験とレポートである。


 前任者の残した十年分の試験問題があるとは言え、ヴァルターは教師としては素人だ。

 問題作成の時点でも割と怠かった。採点ともなれば尚更だ。


 別に出来なくはない。

 ただ辛い。割としんどい。


 力量的に可能であることと、やりたいかどうかは別だ。


「────ヘルエス先生。ピエリ・ユーベルツです。少し宜しいでしょうか」


 一人唸っていたヴァルターは、ノックの音で顔を上げた。

 扉の向こうで聞こえるのは、事務のピエリの声だ。


 涼やかな美貌を持つ、若手の事務員である。

 まあ、ヴァルターからすると当然年上なのだが。

 二十二歳。アイスグレーの長髪をひとくくりにした、眼鏡が印象的な美女だ。


 このクソ忙しいのに、更に問題でも起きたのだろうか。

 ヴァルターは軽く頭を掻きながら、一旦ペンを置いた。

 扉まで向かい、用件を尋ねる。


「お力になれないかと参りました。ご迷惑でなければ、補助教員代わりに使ってください」

「それは随分と、有難い申し出ですが。……ピエリさんのお仕事の方は?」

「業務時間内のものは終わらせてあります。人員も揃っていますから、足りない場所をお手伝いするべきかと」


 ご迷惑でしたら戻ります、と言うので、ヴァルターは是非にと願った。


 仮にこれが魔法科からの嫌がらせだとしても、乗っかった上で片をつけるつもりだ。

 そのくらいには、採点というのはやりたくない仕事だった。


 ピエリはそれから三日間、業務時間内に採点作業を手伝ってくれた。

 見る限り、誠実に手伝ってくれたようである。


 魔法科の教員と違って、事務の方々はさほど差別意識が強い訳でもないのかもしれない。

 用務員や門番などは魔術師なので、同僚にも居るようだし。


 それでも、単なる善意とは思えなかったが。


 最終日。

 労いを込めていつくかの菓子と紅茶を用意したヴァルターに、ピエリは事情を語り始めた。


「……兄が、五色龍マニアでして」

「ほう」


 討伐された個体を解剖し、魔道具開発の為に研究する仕事に就いているそうだ。


「ヘルエス先生が討伐された緋龍が一月ほど前にようやく機関に回されたらしいのですが、学園からの討伐報告処理の担当が私だと知った途端に『これを討伐したのは誰だ』と煩くて」

「はあ、なるほど」

「討伐時の状況や使った魔法について聞きたい、と。ただ、得意な魔法や魔述式は、易々と他人に明かせるものではないでしょう?」


 学園に所属する内は、互いに高め合うためにある程度自分の魔法や魔術について開示する。

 だが、卒業後に高次の試験を受けて等級を上げた魔法使いや魔術師にとって、技術は宝も同然だ。


 正式な調査でもないのに、大して親しくもない相手に簡単に明かすものでもない。

 言うなれば初対面で給与額や貯蓄をしつこく聞くような、礼を失した行いだ。


「ですので……私の働きに対する報酬、というわけではありませんが、一部でも兄が満足する程度のお話しでも聞けないかと思いまして。お願いできますでしょうか」

「ああ、別に構いませんよ」


 頭を下げるピエリに、ヴァルターはあっさりと頷いた。


「よ、よろしいのですか?」

「お兄さんが聞きたいのは恐らく、緋龍の鱗をあれほど容易く貫くような魔述式でしょう。

 あれは緋龍自身の魔素を使って紡いだ式なので、教えたところで再現には魔術を学んだ人員が必要です。

 魔術師か、あるいは魔術を学んだ魔法使いを頼らないと再現不可能なので、魔術の印象改善を目指す学園長の方針とも合いますしね」


 全てを教えろと言われたら断ったかもしれない。

 だが、満足する一部でいいなら、今回の手伝いの謝礼としては何も問題はなかった。


「ところで、解剖時には特に不審な点などはなかったのですよね」


 ヴァルターは引き出しから用紙を取り出すと、魔素の使用方法と対属性への変容方法を書き記した。

 筆先を走らせながら、ふと思いついた問いを口にする。


「異常があれば学園にも報告が入るでしょうから、特にはなかったかと。……何か気になる点でも?」

「いえ。あんな場所に現れるような緋龍は珍しいですから。特異な個体なのかと思っただけです」


 転移による異常事態だったと知るのは、職員会議に出席している教員のみである。

 ヴァルターは笑顔のまま誤魔化した。


 書き終えた紙を一度確かめる。

 機関に勤めるような魔法使いや魔術師なら、この程度でも充分伝わるだろう。


「どうぞ。満足してくださるかはわかりませんが、お伝えできるのはここまでです」

「……いえ、充分過ぎるほどです。感謝いたします」


 受け取ったピエリがさっと目を通し、丁寧に持参した鞄へと仕舞う。

 作業が長引くので、彼女は荷物も此処へと持ってくるようになっていた。


 帰り支度を整えたピエリが立ち上がる。

 一度は退室しようとした彼女は、姿勢良くヴァルターを振り返った。


「あの……先生は、何方の学舎で魔術を会得されたのですか?」

「学校には通った覚えはないですね。何か気になることでも?」

「では、本当は十六歳ではないということでしょうか」

「……えーと。そうです、と答えた方が良いですか?」


 ヴァルターは知らず、苦笑していた。

 恐らくだが、他国かどこかで魔術を学んだ人間が、身分を偽って雇われている──と思われている。


 当然の予測だろう。十六歳の教師、という存在自体がそもそも不可解だ。

 あまりにも引き受けてくれる魔術師が見つからないので、学園長が実在しない人物を据えたのだ。

 そう考えられてもおかしくはない。


 一応断っておくと、ヴァルターは生年月日を記した認識票(タグ)と共に捨てられた。

 故に、嘘偽りなく十六歳である。


 捨ててなければ見せられたのになあ、などと思うヴァルターに、ピエリは軽く頭を下げた。


「いえ、失礼しました。少し、己が十六であった時を思って、驚愕が勝ってしまっただけです。

 きっと、想像もつかない程のたゆまぬ研鑽を積まれたのですね。敬服の至りです」

「いやいや。崖から生身で落とされて『浮け』って言われたら、みんな同じことが出来るようになりますよ」


 笑顔で告げたヴァルターに、ピエリはほんの小さな微笑みと共に部屋を後にした。

 どうやら冗談だと思われたらしい。本当なのに。


 まあ、現実というのは時に、想像よりも奇なものだ。

 何せ、実際に味わったヴァルターでさえ、時折信じがたい気持ちになる程である。


 高高度自由落下からの【浮遊(ピュレイス)】習得など。酔っ払いの戯言にしたってまだマシな言いようがある。


「とんでもねえ師匠だよな、全く……」


 溜息混じりにぼやきつつ、ヴァルターは卓上の手紙を手に取……ろうとして、先に白兎(アインス)を退かした。


「こら、下に隠すな」


 採点作業中は疲労回復補助の魔術を使うばかりで、放ったらかしにしていたせいだろうか。

 普段は聞き分けのいい方であるアインスは、封筒の上に座り込んだまま、激しく撫でろの主張を続けた。


「仕方ねえなあ、分かった、分かったよ」


 のしのしとやって来た他二匹も抱えながら、ひたすらにご機嫌を取る。

 白い頭の毛並みは滑らかで、触れてる側にも心地がよい。


 うっとりと目を閉じたアインスは、手が浮くたびに察知して目を開く。

 十五分後。

 ようやく、封筒が抜き出せた。


「本当、悪かったよ。夏に一回帰るからさ、ハジャ湖で遊ぼうな」


 ぷ、ぷ、と短い鳴き声が次々上がる。

 ヴァルターは苦笑と共に返事をして、手紙を開いた。


 真紅の封筒は、師匠アフィスティアからのものだ。

 中身はまだ確かめていない。答案用紙に溺れている間に、窓辺に伝令鳥が運び込んできた。


『我が愛弟子の願いとあれば、喜んで引き受けよう。

 他人を陥れるのは、私の暇潰しの中では随分と楽しい部類に入るからね!

 謝礼は【頂きの薔薇(エンカンタドール)】の花束でいいよ♡』


「高えよアホ」


 読み上げの魔術も使っていないのに、つい突っ込んでしまった。

 師匠の手紙は、読み上げを使われる前提だからか、大抵いつも口語体だ。


『ところで、夏はこっちに戻ってくるよね?

 湖の主に用があるんだけど、私って嫌われてるでしょ? ヴァルに助けてほしいな〜!

 学園の為にもなることだから、絶対来てね』


 学園に届くことを考えてか、アフィスティアの手紙は曖昧な言い回しが多かった。

 まあ、元よりあまり親切な説明をする性質の者ではないのだが。


 封蝋を確かめる。

 印の種類と意図して歪んだ蝋の形から、優先度は高いと認識した。


「厄介事には厄介事が重なるものなのかね」


 目を細めたヴァルターは、溜息混じりに封筒をしまった。



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