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◇7ー1 揺さぶり


「先生の使い魔ちゃんって、可愛いですよね〜!」


 とある日の授業終了後。

 研究室へと戻るヴァルターに、一人の女生徒が声を掛けた。


 ラトリナ・エスカペルテ。

 普段はアンディの取り巻きをしている女生徒の一人だ。


 肩に乗ったツヴァイに向けられたのは、なんとも薄っぺらい賛辞である。

 アインス達三匹がこの世全ての使い魔の中で一等可愛いことは、言われるまでもなく真理に等しい事実だ。

 今更受け取るにも値しない褒め言葉だったが、ヴァルターは極めて当たり障りない笑みを浮かべた。


「ええ、可愛いでしょう」

「あと二匹いるんですよね〜、見に行きたいなあ」


 両腕で挟むようにしてあからさまに押し上げられた胸元と、妙に甘ったるい声音。

 瞬きを増やして潤ませた瞳には媚びた色が乗っている。


 ラトリナは性格はともかく器量がいい。エルナンドの取り巻きの中でもずば抜けているだろう。

 実際、男子からはそれなりに人気もある。

 彼女の仕草の全ては、向けられる好意を利用するのに慣れている人間のものだ。


 おそらく同学年の男子であれば、容易く好意でも抱いてしまうことだろう。

 

 が。


 うーーわ、とヴァルターは思った。

 声に出さぬだけ、まだマシな対応だと言える。


 〝人目のない研究室に入り込み、被害を装ってから『生徒に不埒な真似をした』と学務課に通報する。〟

 過去にこのような被害に遭い職を辞した教員が居たと、メビウスから聞いたのは記憶に新しい。


 その件自体はエルナンドの入学前の話だが、顔の広い彼のことだ。

 同じような性格の卒業生に、目障りな教師の始末について相談(・・)でもしたのだろう。


 そうして、容姿に自信のあるラトリナは自分であればヴァルターが誘いに乗ると思ってやってきた、と。

 なんとも浅はかな考えだった。

 浅はかすぎて逆に愉快になってきたせいで、ヴァルターは笑みを崩さずに済んでいる。


 美貌の魔女アフィスティアに弟子入りしてから十年。

 ヴァルターが師匠のお楽しみ(・・・・)に遭遇した回数は十や二十では聞かない。


 見られたところで呆気乱として、挙げ句の果てには『混ざる〜?』などと聞いてくる絶世の美女に振り回されているのだ。

 その上、面白半分でとある都市の高級娼館に放り込まれたことすらある。

 さんざっぱら弄ばれたのだ、耐性がつかない方がおかしい。


 さて。断ってもいいが。

 ヴァルターは、今回は一旦乗ることに決めた。


 出鼻を挫くのは重要である。


「構いませんよ。ただ、少し寄るところがあるので先についてきてくれます?」

「え。えーっと、いいですよ」


 有無を言わせぬ態度で歩き始めると、ラトリアは躊躇いつつも着いてきた。


 演習の件から、一月が経っている。

 あれ以来、四学年の生徒は明らかにヴァルターを見る目が変わった。


 まず、剣術科の生徒が声をかけてくる頻度が上がった。

 これは実力評価を重んじる人間が多い特性上、比較的容易に想像できた反応である。


 魔術科の生徒については、以前よりもきちんと『教師』として認める者が増えた。

 同世代以下は元より好意的だが、実際の現場を見ていない生徒にも積極的に噂が広まっていることが理由のようだ。


 問題の魔法科の生徒も、中立寄りの人間は嫌悪より好奇の方が勝っている様子である。

 魔法科の生徒を魔術関連の書物の並ぶ棚で見かけることが多くなった、とは図書館司書の言だ。


 ここ最近の浮ついたような空気は、魔術師を心底嫌悪する人間にとってははっきり言って面白く無い状況だろう。


 アンディの苛立ちが更に増していることには、ヴァルターも気づいていた。

 授業妨害や抗議文などでは、到底発散できるものではない。


 だが、流石に直接危害を加える訳にもいかない──というより出来そうにない。

 故に取り巻きを使って、『教師』としての名誉を傷つけることにしたのだろう。


 ヴァルターは淡々と、常と変わらぬ歩調で空き教室へと足を向けた。

 段々と人気の少なくなる廊下に、徐々にラトリアの顔に緊張が滲む。


 学園に来て三ヶ月。

 ヴァルターは、学園の構造についてはもはや誰より詳しい自信があった。


 『学校内の配置を覚えようと思っているんです』

 以前にゴミ集積所でレネアに向けた言葉は、彼女に気を遣わせないための台詞でもあったが、半分はただの本心だ。

 校内の配置を正しく把握することは、あらゆる場面に役に立つ。

 例えば今とか。


 人気のない廊下を、二人揃って歩く。

 ヴァルターは逃げるか否か迷っているらしいラトリナを、とりあえず軽めに言葉で刺した。


「お仲間の中では、貴方が一番価値が低いんですか?」

「……は?」


 理解の追いついてないらしい顔で、ラトリナはヴァルターを見上げる。


「あれ、違いました? 家格ではレイクリンジャーさんが最上で、それ以外の三人は差がありませんよね。こういう実行犯って大抵、切り捨ててもいい一番下っ端がやるもんじゃないですか」

「何言ってんの、意味分かんないんだけど」


 この曜日、この時間には誰一人来ないと確信している空き教室。

 無防備にも付いてくる彼女が踏み入れたのを確認してから、ヴァルターは極めて迅速に魔術を使用し、音もなく扉を閉めた。


「だって貴方、もし仮にここからそういう(・・・・)訴えで私を害すにしても──下等な家畜同然の『魔術師』にそういう真似をされた、と勘違いされても構わない扱いを受けてるんですよね?」


 ヴァルターは、あくまでも笑顔で告げた。

 ラトリナが誤魔化しなど出来ないタイプなのは、普段の態度で把握済みだ。


 自分がどういうつもりで声をかけ、そしてどう扱われているのかを察したラトリナは、さっと顔を青ざめさせた。


 意外な反応だな、と思う。

 ヴァルターは一応、怒らせるつもりで今の言葉を吐いたのだが。

 行動の真意はともかく、下卑た噂をばら撒けば多少なりともラトリナにも被害が出る。

 事実を突きつければ当然、侮辱を前にまず怒りが出る筈だ。


 だが、ラトリナは狼狽に呑まれて青ざめるばかりだった。

 まるで、たった今その可能性に思い至ったような顔である。


 自身の容姿を全面に押し出してアピールしてきたのだから、方法としてはヴァルターが予想したもので間違いはないだろう。

 メビウスも卒業生としての伝手で何かしら感じたところがあるから忠告したのだろうし。

 だから、ラトリナが実行する作戦自体に無自覚だった、ということはない。


 狼狽えているのは、自分が何をさせられようとしていたのか、という点ではない訳だ。

 ということは、まさか、本当に自分がグループ内で軽んじられている自覚がなかったのだろうか。


 いやいや、とヴァルターは内心首を振る。

 女性と言うのは共感性が高く、空気を読むのに長けている。

 特に複数人で連むような者なら尚更だろう。相応の覚悟を持ってやってきたに決まっており、自分でもその立場に納得している筈だ。


 と、思っていたのだが、ラトリナは口元に手を当てながら小さく呟くばかりで、次の言葉を紡ぐことはなかった。


「……えっ、まさかマジで分かってないのか?」


 思わず気の抜けた声が漏れてしまう。

 呑気な声音はあまりに馬鹿にしているように聞こえたのか、ラトリナは強くヴァルターを睨み付けた。


「そっ、そんなことどうでもいいでしょ! 生意気な口利いてられるのも今の内よ!! あたし、先生の秘密知ってるんだから!」

「おや、なんでしょう。秘密なら山のようにありますよ」


 肩を竦めたヴァルターに、ラトリナは勝ち誇ったように言い放った。


「先生、あの出来損ないの神子と密会してるでしょ」


 知らず、目を細めていた。

 黄金色の瞳にやや剣呑な光が宿るが、ラトリナが気づく様子はない。


 密会、などと称されたが、別に隠してなどはいなかった。

 隠したいのであれば、そもそも教会裏で会うことなどしないからだ。


 これはそもそもが、レネアに親切な神官──エルゲルの目の届く範囲で会う、という意図もある。

 エルゲルは、レネアに対して神子である以上に、何処か娘を思うような情を抱いている。

 何かレネアにとって不利益があるようならば、必ず口添えをしてくれるだろう。


 最悪、ヴァルターを切り捨てるだけで事はいくらでも済むのだ。

 ラトリナの言は何の脅しにもなっていない。単に、ヴァルターをほんの少し不快にさせただけである。


 彼の肩ではツヴァイが主人の苛立ち──主に『出来損ない』の部分に反応して──を感じ取って臨戦体制に入っていたが、ヴァルターは特に気に留めることはなかった。


「魔術師って本当に不潔ね! まあ、あの出来損ないにはちょうどいいのかもしれないけど!

 これ、バラされたらどうなるか分かるよね?」


 ヴァルターは思った。

 勝利条件を満たしてないのに勝ち誇るのはどうかなあ、と。


 そもそもが、ヴァルターは魔術を学ぶことに学園の必要性を感じていないし、自身が教師であることに意義も見出していない。

 もちろん、学園の存在そのものは重要だとは思っている。

 多様な人間と関わり、己のとの差異を知り、社会性と技術を身につけるのは大切なことだ。


 だが、別にそれはヴァルターにとって必要なものではない。

 ヴァルターはハジャ湖に引っ込んで人生を終えても、別に一向に構わないのだ。


 だが、レネアは違うだろうな、とは思う。

 彼女は魔法が好きで、詰まるところ、素敵な魔法や魔術を使う人間が好きなのだ。


 だから、妙な噂は彼女の為にもならない。

 結局は大した害にはならないとヴァルターが判断しても、彼女がどう感じるかまでは分からないのだ。


 ヴァルターは、とりあえず手札の中から一枚切った。


「その密会がどうとかって話、エルナンドさんには伝えました?」

「はあっ? なんで? 伝えるわけないじゃん」


 反射的に返ってきた声には、棘の他に、確かに狼狽があった。


「まあ、そうですよね。ムカつく魔術教師と親しくしてる、とバレて惜しくなったエルナンドさんが何がなんでも──それこそ攫って駆け落ちじみた方法でルクシュタインさんを手に入れようとしたら、困るのは貴方ですものね」


 なんともさらっと告げたヴァルターに、ラトリアは一瞬、何を言われたのか分かっていない顔で凍りついた。

 次いで、焼けた鉄にでも触れたような勢いで飛び上がって激昂する。


「はあ!? アンディがあんな女好きになるわけないでしょ!! 馬鹿にしないで!!」

「だったら伝えてみれば良いですよ。ああ、それとも私がバラしに行きましょうか。実はレネアさんとはとても親しくしていて、貴方が入る隙なんてないんですよとか、言ってきましょう」

「はっ、あ、えっ!? や、やめてよ!!」


 ラトリナは混乱し始めていた。

 秘密を握って脅しているつもりが、何故かラトリナの方が懇願する羽目になっている。


「彼、何処からどう見たって負けず嫌いですものねえ。プライドが邪魔して態度が反転してるんでしょうが、『私への嫌がらせ』などと言う名目を与えてしまったら、彼は嬉々としてルクシュタインさんを口説き始めるかもしれません」

「ちょっ、ま、待ってよ! 分かった、言わない! 言わないから!」


 ラトリナは混乱のままに断言した。

 焦りか怒りからか分からないが、赤く染まった顔に浮かぶのは真剣なものである。


 どうやら、余程エルナンドに惚れ込んでいるらしい。

 そして、今の所は自分に望みはなく、こと恋愛に関しては『出来損ない』の方が余程優位にあることも分かっているようだ。

 まあ、レネアにとっては良い迷惑だろうが。


「大方、私の秘密を探れば一歩先んじて嫌がらせが出来て、彼の役に立てると思ったんでしょうけどね。自分にとって不利になる手札を集めてもしょうがないでしょうに」

「う、うるっさいなあ!」


 焦りの滲む声には、恋する乙女の純朴さがあった。

 やっていることは脅迫だが、手段が悪いだけで目的にはまだ稚気の愛らしさが、まあ、なくはない。


 ヴァルターの察した通り、ラトリナはアンディ・エルナンドが好きだった。


 初めは、見た目で好きになった。あんな理想の王子様みたいな人がいるなんて、とときめいた。

 仄かな片想いを抱えることしばらく。

 休日に嫌な男に絡まれているところを助けられて、本当に好きになった。


 彼女は分かっていない。それはアンディが、『興味のない女』を相手にしているからこそ、最適な態度が取れているのだと。

 否。本当は分かっているが、見ないフリをしている。


 けれども、仕方のないことだろう。誰だって、好きになる相手を選べるなら最初からそうする。

 人間の脳は、心は、そこまで都合よく出来てはいないのだ。


「もう良いわよ! 上手くいかなかったって言って誤魔化してあげるから……もう行っていいでしょ!?」


 鼻を鳴らして強い足取りで扉へ向かおうとしたラトリナは、そこで、遮るように逃げ道へと割り込んだヴァルターを見上げた。

 何、と尖らせた唇が口にするより早く、笑顔のヴァルターが告げる。


「あれ、もしかして、このまま逃げられると思ってます?」

「……え?」

「嫌だなあ、エスカペルテさん。あなた、私のこと脅しに来たんですよね?」


 ヴァルターはあくまでも笑みを絶やさぬまま、穏やかにラトリナに詰め寄った。


「だったら、脅し返されても何の文句も言えませんよね?」

「なっ、わ、私は、別に、脅されるようなことなんて!」

「あれ? じゃあ、この間私がたまたま見かけたアレは見間違いだったかな……確か、エルナンドさんの、」


 それは完全にブラフだった。

 が、何もかもが瓦解し、混乱し切ったラトリナにはよく響く。


「み、見てたの!? 嘘!! 誰も居なかったのに!!」


 にっこりと、笑顔で小首を傾げて見せたヴァルターに、ラトリナは紅潮したまま冷や汗をかいた。

 肯定も否定もしていない。彼女にとっては、どう見ても前者に見えるだろうが。


「分かった、分かったから。誰にも言わないで」

「ええ、もちろん。大事な生徒の隠し事ですから、誰にも話したりはしません。ただその代わり、ちょっと手伝ってほしいことがありまして」

「な、何よ」

「エルナンドさん及び、レイクリンジャーさん方の情報が欲しいんですよね」

「はあ!? 友達を売れっての……!? 最低!」


 その友達に売られてるんじゃないのかお前、とは言わないでおいた。

 彼女たちにとってはそれこそが友情の形なのだろう。そういう方法で友情を確かめる手法はあるにはある。

 ヴァルターには女性の友情などは理解が及ばない範疇なので想像もつかないが、きっと、彼女達にとっては尊き友情であるに違いない。


 詭弁である。


「そうですねえ……上手いこと出来たら、レイクリンジャーさん達にはお似合いの縁談でもおすすめしようかなと思ってまして。どうです?」

「は? は?」


 勿論、これも口から出まかせだ。


「実は貴方がたを見ながらずっと思ってたんですよ。エルナンドさんには、エスカペルテさんのような、家柄もしっかりした、ちゃんと愛してくれる女性が支えてあげるべきなんじゃ、とね」

「くだらない媚び売ったって無駄なんですけど!?」

「ご令嬢三人にはこれと言った相手もいませんし。さっさとそれなりの相手をあてがってしまって、残った貴方が頑張ると言うのはいかがです?」


 ラトリナの瞳は、一瞬、確かに右へと逸れた。

 打算的想像を巡らせたに違いない。

 だが、彼女は目を逸らしたまま、切羽詰まったような声で言い放った。


「そっ、そんなんできるわけないじゃん! あたしだけ抜け駆けしたら、どんな扱い受けるか……!」

「だからバレないように上手くやるんじゃないですか。別に洗脳する訳でもないし、好きな人を手に入れる為にある程度(・・・・)努力することなんて、みんなやっていることでは?」


 『納得したい』と思っている時、人間は容易く都合の良い言葉に流される。

 ラトリナ自身、今まで膠着状態には飽き飽きしていたのだろう。

 美貌の御曹司に心惹かれた少女達は、いわば互いへの牽制の為にグループを組んだ。


 抜け駆け禁止の暗黙のルールを破るには、ラトリナの立場は弱い。

 今まさに、その弱い立場を身をもって痛感したばかりだろう。


「ほ、ほんとにうまいことやれるんでしょうね……」

「まあ、そこはエスカペルテさんの頑張り次第では?」


 数分後。

 ラトリナの天秤は呆気なく傾いた。


 やる、と頷いたラトリナに簡単な指示を出し、それから最後につけ加える。


「ああ、ついでに言っておきますけど、誘い方雑魚すぎるのでもっと考えたほうが良いですよ」

「ざ、雑魚!? こんな美少女捕まえておいて何言ってんのよ!!」

「そんな美少女なのにエルナンドに見向きもされてないんだから、やっぱり雑魚なんじゃないですか?」


 なんだかごちゃごちゃ喚いていたが、ラトリナは反論できなかったらしく、涙目になって真っ赤な顔で逃げるように去っていった。

 今に見てなさいよ!と言い捨てていたが、目にものを見せるべき相手はヴァルターではなくアンディである。

 まあ、精々頑張ってほしい。


 走り去る足音を聞きながら、ヴァルターはしみじみと思った。

 恋愛ごとの絡んだ集団は壊しやすくて良いなあ、と。


「変なことに付き合わせてごめんなあ、ツヴァイ」


 肩に乗るツヴァイの頭を撫でながら、ヴァルターは呆れたように溜め息を吐く。


 そもそも、迂闊すぎやしないだろうか。

 仮にも貴族のご令嬢が、よりにもよって魔術師の男と密室で二人きりになるなんて。

 どうにも隙だらけで詰めが甘い。


「まあ、俺は見られても困るような相手いないからいいけど」


 強いて言うならドリエルチェだろうか。

 などと思いながら空き教室を出たヴァルターは──、


「……先生、エスカペルテと、何を……?」


 僅かに青ざめた顔で立ち尽くすレネアに、ぎくりと足を止めた。

 こちらをまっすぐに見つめる彼女は、胸の中の書物を拠り所を求めるかのようにして抱きしめている。


「る、ルクシュタインさん? 貴方こそ、こんなところで何を……」

「教室から出ていった後に、見かけて、あの子、エルナンドと仲が良いから……先生に何か嫌がらせしてたら、嫌だと思って……心配で……」


 小さな声で説明する内、レネアの声は震え始める。


「そしたら、あの、エスカペルテが、赤い顔で、出ていって……」


 最後の方はほとんど声にすらなっていなかった。


 ヴァルターは静かに、頸の辺りに嫌な汗を掻くのを感じた。

 もはや身を守るようにして書物を抱きしめて立つレネアに、何故か、助けでも求めるような声で呼びかける。


「いや、あの。違うぞ? 何もしてない」

「わ、わかってます! 大丈夫です、ちゃんと分かってますから!」


 いいや分かってないって、と言うより早く、レネアは弾かれるように駆けて行った。


 中途半端に伸ばした手を、引っ込めることすら出来ない。

 ヴァルターは、そのまましばらく廊下に立ち尽くしていた。



    *   *   *



 週末。

 ヴァルターは教会裏で一日を過ごし、そしてレネアが来ないことを悟った。


 避けられている。

 あんな理由で。


 でもまあ、女の子って変に潔癖なところあるもんな。

 いや、男もあるか。


 人間とは、兎角異性に幻想を抱きがちである。

 ヴァルターの場合、抱くより先に尽く師匠にぶち壊されただけだ。


「思ったよりショックがデカい──ことにショックを受けている……」


 ヴァルターは聡い男だ。

 レネアが自分に好意を抱き始めていることには気づいている。


 初恋が落ち着くのを見守って、頃合いが来たらもっと素敵な男にでも譲ってやるのが最善だと思っていた。

 それが最適な行動だと。


 ただ、理性で『最適』が取れるなら、人間そこまで苦労などしないのである。


「いや、この思考不味いな。深追いやめとこ」


 これ以上悩んでいると妙な方向に沈みそうな気がする。

 それはそれでよろしくない。

 ゆっくりと呼吸したヴァルターは、無心でアインスを撫でた。

 


    *   *   *



 しかして。

 それから二週待ったが、レネアが来ることはなかった。エルゲルからもそれとなく聞かれる始末だ。

 答えようがないので苦笑いで誤魔化す他ない。


 授業では顔を合わせるが、話が出来る状況ではない。

 けれども、学園では距離を取ると決めたのは他でもないヴァルターだ。


 せめて、誤解だけでも解いておきたいのだが。

 手紙を出しても良いが、ここまでの反応だと読まずに捨てられるかもしれない。


 隠居した爺のような空気感で釣りを続けること、三週目。

 

「先生」


 やって来たのは、レネアではなく、リディアの方だった。


「ルクシュタインさん、貴方が来るとは思いませんでした。ちょっと驚きですね」

「時間が取れたので、姉さんの代わりに来ました」


 普段はレネアが座っている定位置で、リディアは立ったまま言葉を続ける。


「姉さんは、ちょっと熱を出して寝込んでしまって」

「…………それはそれは、お大事に。あ、魚いる?」

「要りません。とりあえず、先生にお会い出来るのは来週以降になるかと思います」


 いや、授業には出てたじゃん。

 という至極真っ当なツッコミを、ヴァルターは確かな意志を持って放棄した。


 先週も先々週も、授業に居たじゃん。

 という、果てしなく真っ当な突っ込みを、ヴァルターは確固たる意志で飲み込んだ。


「先生、お聞きしても良いですか」

「何ですか」

「姉さんのこと、どう思ってますか?」


 どう、とは。

 何処か居た堪れない気持ちで見上げたヴァルターに、リディアは真摯な声で問いかけた。


「先生の目から見て、姉さんには魔術の才能はありますか」


 真剣な眼差しに、ヴァルターは浮かれていた自分をやや恥じた。

 どうにも、学園という場は心が浮ついてしまうものらしい。割り切っていたつもりだが、しっかりとヴァルターも学生の空気に当てられていたということか。


 あれ以来、神殿がすっかり動く気配が無いのも気が緩んでいる理由かもしれない。

 ともかく、気を引き締め直したヴァルターは、きっぱりとした声で答えを口にした。


「間違い無くあるね。課題のレポートの他に、これまでの試験成績を見せてもらった。

 彼女は魔素発現記述式への理解が驚く程に深い。それは天性の勘ではなく、地道な反復と丁寧な情報収集によって身につけたものだ。

 魔術師に必要な才能こそがその血の滲むような反復と、決して諦めず未知に挑む覚悟だ。彼女はその何方もを持ち合わせている」


 ヴァルターは断言した。

 真剣に。何処までも真っ直ぐに。


 レネア・ルクシュタインに魔術の才能が無いと謗るのなら、もはやこの大陸に『才能のある人間』など存在しないだろう。


「……学園では、誰も姉さんの価値を理解しようとしません」

「そうかな。学園長は違うみたいだけど?」

「でも、あの方は天上に座すような方でしょう。何を言おうと、あまりに遠すぎて響きません」


 だから、とリディアは掠れた声で繋げた。


「先生、姉さんのこと。よろしくお願いします」

「そりゃ、勿論。大事な生徒だからな」


 至極真面目に答えたというのに、リディアから返ってきたのは、小さな苦笑だった。


「姉さんに魔術科への転科を薦めないのは……神殿への配慮ですよね?」

「……まあ、それもあるよ」


 一番は、下手に動いてオルキデアの二の舞になるのを防ぐためだったが、口には出さない。


「……二年前に、学園長先生が姉さんに転科を薦めてくれたんです。でも、結局話は立ち消えになってしまって。先生はご存知なんですよね?」

「まあね」


 何なら、そのせいで学園長が死んでいるところまでご存知である。


「神子である姉さんが表立っては魔術科に入ることは出来ないかもしれません。でも、年度末の魔法大会で結果が残せれば……道は拓ける筈です」


 リディアは身体の脇に下げた拳に、強く力を込めて握りしめた。


「……私は歴代でも最高の寵愛を受けている、と言われています。それは魔素生成量を見てだと思います。

 でも、実際は過剰生成で上手く扱えないことが多くて……姉さんは私の為に、私以上に色んなことを考えてくれたんです。苦しんでいるのは姉さんの方なのに」


 寵愛の証である、輝かんばかりの翡翠の瞳に、薄く涙の膜が張る。

 瞬きの間にそれを拭い去ったリディアは、改めて頭を下げた。


「姉さん、先生のおかげで、最近は楽しそうなんです。ありがとうございます」

「……それは良かったよ。まあ、まだ何も大したことは出来ちゃいないんだが」

「いいえ、十分すぎるほどです」


 少し不格好に笑ったリディアは、「来週は大丈夫だと思いますから」などと言い残して踵を返した。

 その真っ直ぐに伸びた背を見送りながら、ヴァルターはやや参ったように頭を掻く。


 こんな程度を『十分』だと思ってもらうのは、少し困る。

 引いている釣り竿もおざなりに、頬杖をついたヴァルターは湖面を眺めながら静かに思った。


 どうせ結果を残すなら、やっぱり一番だよなあ? と。



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