◆5ー2 学校開放日
演習から半月が経った、週末の学園開放日。
レネアは課題レポート作成のため必要な文献を探しに、学園の図書館へとやって来ていた。
王立魔法学園の図書館は在校生であれば、王城近辺に在る中央図書館より手続きも簡便で使いやすい。
魔法・魔術に関する文献が豊富な点も、多くの学生が集まる理由になっている。
その便利さ故に、平日はとにかく利用者が多く、レネアは休日開放日に来ることがほとんどだった。
出来損ないの神子の名は、学園内ではすっかり広まっている。わざわざ人の多い日に来てもあまり良いことはない。
さっと来て、必要なものだけ借りて速やかに帰るのが、レネアにとっては一番都合が良いのだ。
ただ、今回ばかりはすぐさま帰る、と言うわけには行かなかった。
必要な書籍が貸出禁止の、館内閲覧用の資料である為だ。
よって、わざわざ生徒の特に少ない時間帯を狙って来たのだけれど。
「うわっ」
「……『うわっ』て何さ」
目的の棚に辿り着いたレネアは、まさに自分が探していた書籍を手にしたイサークと遭遇した。
「…………」
実技で結果を出せない以上、レポートでは最上の評価を取らなくてはならない。
恐らくはこの資料に辿り着くか否かも課題の評価対象に入っている筈だ。
だが、不必要にエルナンド一派と関わるくらいなら、評価を一段階落とした方がまだマシな──いや、マシではない、マシではないし、時間外使用申請を出して来ると心に決める他ない──ので、レネアはごく自然な仕草で半身を返した。
が。
そのまま立ち去ることは叶わなかった。
「まあ、待ちなよ。逃げることないじゃん」
退路を立つように位置を変え立ちはだかったイサークを、レネアはやや強張った顔で見上げた。
イサーク・イァン・イリアルテ。
エルナンドの唯一の友人と言って良い彼は、王立騎士団ルサブランカの騎士団長、ロレンシオ・イァン・イリアルテの息子だ。
青みがかった銀髪に、燃えるような紅い瞳。
長髪を高い位置で一括りにしているが、女性的な印象は受けない。
魔法の成績は実技も座学も常に上位十名に入る。
容姿も整っていて成績優秀。エルナンド同様、女生徒には人気だ。
ただ、人を遠ざける雰囲気からか、ひっそりと思いを寄せる女生徒が多い。
一学年下の剣術科には、同じく大層顔の整った弟がいる。
顔立ちは似ているが、弟の方は耳にかかる程度の短髪なので、見分けるのは容易い。
これまでの学園生活で、イサークに何か直接的な嫌がらせをされた、という経験はなかった。
彼はいつも、面倒臭そうな顔で眺めているだけだ。そもそもレネアに大した興味もないのだろう。
ただ、エルナンドと仲が良い以上、必然警戒心は強まる。
「そんなに構えなくても。オレから貴方に何かした覚えは無いと思うけど」
「…………」
「これ使いたいの? 先に譲ろうか?」
「……何が目的?」
警戒をそのままに尋ねたレネアに、イサークはうんざりしたように溜息を吐いた。
「アンディも居ないのにわざわざ嫌がらせする必要もないでしょ。オレが使うより学年一位サマが使う方が早く終わるんだから、順番的に貴方が先の方が良いんじゃない?」
「……そこまで変わらないよ。貴方が先に使えばいい」
「暗示系の妙な魔法付与されるかも、とか考えないんだ?」
イサークの言葉に、レネアは一度、ゆっくりと目を瞬かせた。
確かに『文を読む』という行為には、暗示の効果が組み込みやすい。
自ら頭に入れよう、と思いながら読むせいだ。
イサークほど優秀な生徒なら、集中を掻き乱す程度の暗示ならそれとなく仕込めるだろう。
「……貴方は、そんな馬鹿げた校則違反するタイプじゃないから」
可能であることと、実際に行動に起こすことは違う。
貸出禁止の文献にそんな細工をすれば罰せられるのはイサークである。
それが分からないほど馬鹿な人間ではないし、そもそも、嫌がらせする必要もない、と彼自身が言った。
その言葉を信じるほど呑気でもないが、嘘ではないと感じる程度には、イサークには何の敵意も見えなかった。
かと言って、善意である筈もなさそうだったけれど。
「………………」
差し出された書籍が引っ込められる気配はない。
しばらくの逡巡の後、レネアは差し出された書籍を恐る恐る受け取った。
そのまま学習席まで向かおうとしたレネアは、そこで、躊躇いがちに振り返った。
「その。一緒に使う?」
「はあ?」
「待ち時間、出来ちゃうし」
イサークは、決してアンディを止めない。
止めはしないが、ただそれだけだ。それ以上も、以下もない。
レネアの髪を掴んだり、突き飛ばしたり、スカートを捲ったりしたのはアンディである。
罵倒の言葉も、嘲笑も侮蔑も、全てアンディが放ったものだ。
制止しない代わりに、加担もしない。
傍観こそが加害だとも言うかもしれないが、そんなことを言い出せば、きっとレネアはクラス中の全員を敵視しなければならなくなるだろう。
人を嫌うという行為は、レネアにとってはとても疲れることだった。下手をすれば、我慢することよりも余程。
だから別に、レネアはイサークをわざわざ嫌いの枠に入れたりはしない。
イサーク自身には何もされた覚えがないからだ。
イサークはアンディの隣にいるだけで、なんだかいつも詰まらなそうな顔をしている。
かといって、アンディが嫌いな訳ではないようだから、不思議な話だ。
レネアが妙な提案をしてしまったのは、その不可解さ故かもしれない。
こんな時でもなければ、イサークと話すことなど一生ない気がするから。
ちなみに、言ってからだいぶ後悔している。
そして、その後悔は顔を見るだけでも充分に伝わっていた。
首を軽く傾けたイサークが、なんだか呆れたような顔で言う。
「別の課題やってるから良いよ。早くしてくれる?」
「……うん」
離れた席へと向かったレネアは、出来る限りの最速で目を通すと、必要箇所を転写した。
それでも一時間は経ってしまっている。やっぱり、素直に日を改めるべきだったかもしれない。
イサークを探して歩き回ったところで、隅の方の、人気のない読書席に座っているのが見えた。
「イリアルテ、これ」
「……早いね」
何と返したらいいのか分からず、レネアはただ文献を差し出すに留めた。
イサークが受け取ったところで手を離して、挨拶を言うのも変な気がして、無言で立ち去ろうと踵を返す。
その時、レネアの背に声が掛かった。
「君って、どうしてあんなに優秀な妹がいて、そこまで頑張れるの?」
「え。好きだから」
「…………」
「魔法を学ぶことが好きだからだよ。……イリアルテは違うの?」
あまりにも当たり前すぎて、何の衒いもなく答えてしまった。
何処か呆然としたような気持ちで、思わず問い返してしまう。
イリアルテ家は騎士の家系だ。
イサークは剣術の名家に生まれて、それでも尚魔法学科で学ぶことを選んだ。
それは無論、魔法が好きだから……ではないのだろうか?
もしかしたら、何かいけないことを聞いてしまったかもしれない。
レネアにはレネアの悩みがあるように、イサークにもイサークの悩みがある。当然の話だ。
レネアの悩みは誰にでも見えやすいというだけで、誰しも見えない悩みを抱えてるいるものだろう。
反射的に返したせいで、内容の精査などしなかった。別に、それを後悔する必要など微塵もないのだろうけれど、これは単なる性分だ。
レネアは知らず、ぎこちなく、居心地悪そうに目を逸らしていた。
しばらくの沈黙。
イサークはレネアの問いには答えることなく、温度の変わらぬ声で問いを重ねた。
「ついでにもう一つ聞きたいんだけどさ、どうしてアンディとの婚約断ったの?」
「え?」
視線を戻す。
問いの意味が、上手く掴めない。
「いや。だって断ったら明らかに態度酷くなるって分かってたでしょ。
あんな婚約どうせ上手くいかないんだから、エルナンド夫人が我慢できずに旦那を言い負かすまで数年待ってやればよかったんじゃないの。
その方がよほど、穏便に済む」
イサークは、どうやら本気で言っているようだった。
貶める為でも、挑発の為でもない。
本心から、そうするのが最適だったと思っている。
それを隠す気もない。
必要もない、と言うのが正しいか。
悪意すらないのは察せたので、レネアは素直に、とても素直に言葉を紡いだ。
「…………イリアルテは、生理的嫌悪感って言葉、分かる?」
ぱちり、と紅い瞳が一度瞬く。
返事より先に、イサークからは笑い声が返ってきた。
くく、と押さえ込んだような喉を鳴らす音が響く。
「ああ、うん。分かる、よく分かる。ごめんよ、変なこと聞いて」
「……ううん。別にいい」
どうでも、という言葉を飲み込んで、レネアはぎゅっと身を守るように拳を握った。
仮にこの言葉がエルナンドに届いたとしても、もはやどうでも良かった。
「私からも聞いて良い?」
「どうぞ」
「イリアルテは、どうしてエルナンドと一緒にいるの?」
「最低のクソ野郎なのに?」
勝手に補足されてしまった。せっかく省いたのに。
黙り込むレネアに、イサークは笑う。
「あいつはね、残念ながら考え無しの傲慢野郎だけど、それでもどうしようもなく良いところがあるんだよ。顔と家柄だけじゃなくてね」
「………………」
「別に信じなくて良い。自分が誰を大事に思うかなんて、万人に理解される必要ないだろ? オレだってアンディが『本当は良いやつなんだよ』だなんて、口が裂けるどころか拷問されたって言えないからね」
イサークはそれだけ言うと、挨拶もそこそこに学習室へと去っていった。
* * *
次の日。
レネアはいつものように祈りを捧げに教会に向かった。
迎え出てくれたエルギルといつものように幾つか世間話をして、祈りを済ませる。
「今日もいらしてますよ」
組んだ指を解いて立ち上がったレネアに、エルギルは普段と変わらぬ柔らかい表情で微笑んだ。
微笑ましいものを見るような、なんとも優しい目だ。エルギルは神官の中でも特にレネアには優しい方ではあるけれど。それでも、いつもよりもよっぽど。
まさに見守るようにして向けられる眼差しが何を示しているのか、なんとなく分かってしまって、なんだか居た堪れなくなって縮こまる。
おそらく、演習後の休日に此処に来た際、興奮が冷めぬままにヴァルターの話をしたせいだろう。
緋龍を単独討伐して、先生はすごくて、しかも優しくて、などと、快く聞いてもらえるからとつい話しすぎてしまっていた。
エルギルだけだ。神子であるレネアが、魔術師と親しくしても苦言など一つも口にしない神官は。
いや。正確に言うならば、神官長もレネアの行動には何一つ口を出さない。
けれどもそれは優しさからではなく、興味や関心が全くないからだ。
彼はもはや神子であるレネアには見切りをつけている。期待など欠片もしていないし、祭典の時にだけ揃いの飾りとして使えればいいと思っている。
故に何も言わず、何も咎めない。この教会で祈りを捧げ続けることが許されているのは、単にそういうことだろう。
「ああ、そうです。焼き菓子を作ったので、もしよかったらお二人で食べてくださいね」
沈みそうになった気分を、エルゲルの穏やかな声音が柔らかく引き上げる。
素敵な口実まで用意してもらって、会わないまま帰るなんて真似は出来ない。
レネアは照れ隠しの笑みを返すと、丁寧に包まれた菓子を手に、慣れた様子で教会裏へと向かった。
「あの。先生は、どうして魔術を学ぼうと思ったんですか?」
「成り行き」
「なりゆき……」
「あるいは生存権の主張とも言えるかな」
「なるほど……?」
いつもの湖の端。
お馴染みになった定位置に座るレネアの膝には、珍しいことに白兎が乗っていた。
若干落ち着きない素振りで、膝の上の定位置を探そうと動き回っている。
彼女(どうやらメスらしい)はつい数分前、ヴァルターの膝から降りてレネアの元までやってきた。
使い魔と触れるのは、魔素を感じる練習になるそうだ。
魔術科では低学年の間は、とにかく使い魔の魔素を感じ取る訓練をするらしい。
レネアは自分の魔素すら上手く感じ取れた経験が少ないのだが、アインスが一際強い魔兎だからだろうか、なんとなく、これかな?というものはうっすら伝わっている、ような気はしている。
「前に言ったと思うけど、孤児院に居たからさ。そこから師匠に拾われて、地獄のような特訓を受けた訳よ。だから俺は王都の学生みたく、何か将来に役立てようとか、就職のことを考えて身につけた訳じゃないんだよな」
茶兎と黒兎は、じっとレネアの手元を見つめている。
仲間が知らぬ人間の手の中にいるのは、不安なのかもしれない。レネアは努めて丁寧に、安心させるように心がけて、白い毛並みをゆっくりと撫でた。
「じゃあ、魔術のこと、そんなに好きではない……ですか?」
「いや? 今は好きだよ。師匠に拾われて良かっ……いやよくはねーが、この歳で大体身につけて、あとは楽しく研究出来るってのは面白い。
ほら、学生って課題だの何だので強制されて、やる気無くすやつもいるじゃん?
ああいうのはもっと別の楽しみ方見つけたら伸びると思うんだけど、魔術科の限られたカリキュラムの中でそこまで細かく面倒見れるかってーと違うからなあ……」
ぼやきながら釣竿を眺めるヴァルターに、レネアは何だか嬉しくなって笑った。
彼はこの短期間でも既に十分すぎるほどに、魔術科の生徒のことを大事に思っている。
羨ましいなあ、と素直に思った。
「後は、例えばリュライとかはアシェット国よりフィデル国の方がもっと楽しく魔術が学べるかも……と思わなくもないかな」
「リュライさん……ってマーティン・リュライさんですか? 夏期研究で魔導具を開発してましたよね」
「そうそう。フィデルのが魔導具研究は進んでるから……でも難しいか。気風が合わないと辛いしなあ」
水面に視線を移しながら、レネアはそっと尋ねる。
「先生は、他所の国に移ろうと思ったことはないんですか?」
ヴァルターならば、きっと何処の国だろうと──いや、他の国で評価された方がよっぽど上手くいくのではないだろうか。
そんな風に思っての言葉だったが、隣に座る彼は、少し首を傾けてから、軽い調子で断言した。
「無いな。例えばほら、ミルーラ国は週末に必ず双神に愛と祈りを捧げる習慣があるだろ?
水の聖霊は民に近い分、『嘘』の祈りは見抜く。ミルーラ国の生まれで、習慣に何の疑問も持たない魔術師にとっては過ごしやすいんだろうが……アシェット出身の魔術師が今から滞在するには割とキツイと思うぜ」
「キツイ、ですか」
「俺なんかは太陽神も月光神も嫌いだからな。心込めた祈りなんて無理無理」
レネアは、思わず教会の方面を振り返っていた。
聞こえる筈もないのに、エルギルの顔が浮かんで変な汗が出てしまう。
教会の敷地内で双神を侮る発言は許されない、と長年培った感覚が言っている。
かといって、魔術師が双神を嫌う理由も十分すぎるほどに理解できてしまう訳で。
ワタワタと一人慌てるレネアの隣で、ヴァルターは乾いた笑い声を響かせた。
そうして、特に構うことなく、何処か発言を押し流すかのように、話を続ける。
「フィデル国は職人気質な上に上下関係厳しいから、俺は間違いなく向いてないわな。今ですらかなり煩わしいのに。
あー、あとはポルシィ国は剣の国だから論外。剣術苦手なんだよな、俺」
「えっ。先生って苦手なことあるんですか?」
「勿論あるよ。完璧超人にでも見えるか? それは勘弁して欲しいな」
「でも、運動とか得意そうなのに……」
いつの間にか位置を整えていたアインスが、中途半端な位置で止まったレネアの手に頭を押し付けている。
撫でろ、の要求だ。レネアはそっと手のひらで毛並みを流すように撫でつつ、魔素へと意識を向け直した。
「人並みには鍛えてるけども、剣技はな〜……棒切れでぶん殴る方がまだ得意かな……」
「えっと……『剣術』としての剣の扱いが苦手なんですね」
「そう。棒状の鉄製鈍器としてならまあ、使えなくもない。下手だけど」
なるほど、と何がなるほどかも分からないまま頷いてしまう。
「ルクシュタインさんは? 何か苦手なこととかないのか」
「え? ま、魔法……ですかね……」
ヴァルターは、横目でレネアを見た。
そういうんじゃなくてさ、と言いたいのが表情だけでもよく分かる。
だが、誤魔化し笑いを浮かべたレネアが何か言うより先に、ヴァルターはやや真剣な声色で尋ね直した。
「ルクシュタインさんが一番苦手意識の少ない属性って、風魔法?」
「ええと、はい。他属性はもっと駄目なので……」
「ちょっと見してもらってもいい?」
「え」
思わず言葉を詰まらせてしまう。実技を急に放り込まれるのは、素直に言って、恐ろしい。
逃げるように視線を膝の上のアインスに落としたレネアに、ヴァルターはあくまでも軽い調子で付け足した。
「あー、別に発動が失敗してもいいんだ。変換機構はあるのに魔法が発現しにくいって話だろ? 一旦、ちゃんと見てみたいなって思ってただけでさ。あと、嫌なら断ってくれていいし」
「いえ、その……嫌ではないです」
ヴァルターは以前、魔素を見極める能力に長けている、と言っていた。
神殿とは違う視点で見てもらうことで、何か解決策も見つかるかもしれない。
「あの、やってみます」
失敗してもいい、と言うのなら、気分は幾らか楽だった。
とりあえず、一旦アインスを膝の上から下ろしておく。優秀な使い魔である彼女の魔素は、悲しいことにレネアよりよっぽど潤沢である。
触れ合うほどに近すぎると、それはそれで妙な作用をしかねないのだ。一応は、人類種の魔素が最も複雑で、安定している、という話であるのだけれど。
レネアは一つ呼吸を置いて、そっと空中へと手を差し出した。
「【旋風】」
風属性の初級魔法。魔述式も極めて基本形。
どう間違っても発動する筈の魔法は────ほんの僅かにその場に風を巻き起こすだけで終わった。
失敗、という訳ではないが、成功ともあまり言えない。
だが少なくとも、緋龍を単独討伐する規格外の魔術師の前で披露していいレベルの魔法ではないだろう。
それでも、発動もしないくらいの失敗をしなくてよかった、と心から安堵してしまう。
尊敬している人の前で不出来な部分を見せるのはあまりに恥ずかしい。もうすでに、出来損ないの神子だと知られた上でも、だ。
「ええと、それで、ど、どうでしたっ?」
「ん、あー、やっぱり変換機構自体はちゃんと────」
どれだけ低かろうと目標は達成した。
小さく拳を握りつつ、勢いのままに隣を見やったレネアは、そこでぎくりと身体を強張らせた。
顔が近い。
真っ先に思ったのはそれだった。
次に、此方を真っ直ぐに見つめる黄金の煌めきに目を奪われた。
言った通り、ヴァルターはその目で以って魔素の流れを読み取っているのだろう。
であれば、目視で集中して観察されるのは当然の話だ。
魔素というのは目に現れやすいことは、神眼と呼ばれる神子の瞳が、寵愛によって色鮮やかに煌めくことからも証明されている。
だから別に、彼がレネアの瞳から更に適正な魔素を読み取ろうとすることは何らおかしくはない。
ただちょっと、レネアが想定していたよりも、ちょっと距離が近かっただけで。
「ごめん、聞いてる?」
「えっ、あっ、はい!! 聞いてます! 変換機構は働いてるけど魔素の生成が通常のプロセスと違って発動箇所にまとまらずに霧散して消失してる気がするんですよね!?」
「ああ、聞こえてたなら良かった。魔法使ったせいで気分悪くなってたりしないよな? ちょっと休んでくか?」
どうやらあんまりにも固まっていたせいで、あらぬ心配をかけてしまっていたらしい。
レネアは大混乱に陥っても尚正確に聞き取っていた自分の耳と理解していた脳に、心からの賛辞を送った。
しかして、混乱は長引きそうである。
今はなんとしてもこの場を離れたい。何故だかとっても離れたい。どうしても。
先生は今、とても有意義で私のためになる話をしてくれているのに、何故自分はこんなにも不埒な思いを抱えてしまうのか。
レネアは、涙目になりそうなところをグッと堪えて、言った。
「あの、私、今日はそろそろお暇します!」
「ん。そうか、じゃあまた授業で」
「はい!」
一刻も早くこの場から逃げなければ、と謎の焦燥と共に立ち上がりかけたレネアは、しかしてそこで、見事にすっ転んだ。
混乱のままに急に立ち上がったので、足がもつれたのである。
そのまま隣に倒れ込みそうになった彼女を、ヴァルターは最適な動きで支えた。
ちょうど、抱き抱えるような形で。
「マジで大丈夫か? 寮まで送る……のは多分俺じゃない方がいいだろうから、誰か迎えでも呼ぶか?」
「あああああ、いえっ、これはその、倒れた訳ではなく、倒れた訳ではなくっ」
倒れた訳ではない理由を迅速に用意せねばなるまい。
そんなものは何処にもないが。多少無茶でも掘り出さなければならない。
あらゆる可能性を考えた結果、混乱仕切ったレネアは一言、端的に叫んだ。
「お、お魚!!」
「魚?」
「お魚が見たいなあと思って! 勢いが余ってしまって!」
「ああ、魚? 欲しいのか?」
「いいいいつも、美味しそうだなって思っていました!」
ヴァルターがいつも魚を入れている籠は、レネアから見ると彼を挟んでちょうど反対側にある。
どう考えても無茶な言い訳だったが、それでもレネアは勢いだけでその場を乗り切る覚悟で言葉を繋げた。
どのような理由で無理にこの場を乗り切らなければならないのかは、今の彼女には判断がつかなかった。
「うーん……俺としては此処の魚よりは是非とも東側の渓流をおすすめしたいが……まあ、いいか」
慌てて言葉を付け足すレネアに、ヴァルターはやや迷ったように言葉を濁す。
そのあたりでようやく、支えてくれていたヴァルターが離れる。
もはや爆発しそうだった心臓が、やや落ち着きを取り戻した。慌てて距離を取り、何故だか忙しなく指で髪の毛を梳く。
魚籠を片手に立ち上がったヴァルターは、持ち運び用に別の袋を用意すると、笑顔で告げた。
「妹さんと一緒に住んでんだっけ? 何匹欲しい?」
普段の頂き物は寮母さんにもお裾分けするのだが。
今回はちょっと事情が違ったので、とりあえず、レネアは指を二本立てておいた。
言葉を紡ぐだけの精神の余裕は、ちょっと無かった。
* * *
「リ、リディ……お魚もらってきちゃったんだけど、食べる……?」
「魚!? な、なんで?」
「な、成り行きで……」
帰って早々、レネアはキッチンに立つリディアに貰った魚を見せた。
口実としてもらってしまった以上、きちんと食べるのが礼儀というものである。
現在、リディアは日課の激辛料理の作成中である。
エプロン姿の彼女は貰ってきた魚を見ると、困った顔で寮母さんの部屋へ向かった。
料理上手の妹だが、流石に魚を捌く勇気はないようだ。
揃って並び、よく似た困った顔で部屋を覗き込んだ二人に、寮母さんは快く調理を引き受けてくれた。
かくして、夕飯には二匹の魚が並ぶこととなった。
向かい合って食事することしばらく。
魚を見ている内に何やら思い出してしまったレネアは、意識もしない内にぽつりと呟いていた。
「リディ……先生ってすごい女誑しなのかもしれない……」
「えっ、今更……?」
「今更!?」
「それは今更でしょ……」
リディアはもはや何処か呆然とした顔で、食具を持った手を止める。
素っ頓狂な声をあげていたレネアは、呆れた顔で見てくる妹の前で、何処か居心地悪そうに肩を縮めた。
対面のリディアが、何かを思い出すように斜め上へと目線をやる。
艶やかに煌めく翡翠色の瞳は、軽く細められていた。
「ヘルエス先生、かなり女慣れしてない? この間、ロディリアス先生と話してる時も顔色ひとつ変えてなかったよ」
「そ、そうなの……!?」
保健医のリーフィア・ロディリアスは、学園の男子生徒の視線を一身に集める美女である。
艶やかでありながら清楚さを兼ね備えた美貌に、唸るような抜群のプロポーション。
『ああ! 先生が旦那持ちでなかったなら!』という悲鳴と『馬鹿が! 人妻だからいいんだろうが!』の叫びは、学園内ではお馴染みである。
そんな絶世の美女、リーフィア先生を前にしても顔色ひとつ変えないとは。
確かに、女性慣れしているとしか言えないだろう。
「じゃあ、私みたいなのは駄目に決まってるか……」
ぽつりと呟いた言葉が何を意味しているのか、レネアはあまり深くは考えていないようだった。
一方のリディアは深過ぎるほどに深く捉えたが、フォークの先端が皿を叩いた程度で、あとは素知らぬ顔で会話を続けた。
ただ若干、声には謎の力強さが篭った。
「姉さんは可愛いから大丈夫だよ」
「リディの評価はおかしいから当てにならない……」
「私たち双子なんだよ。姉さんは私を可愛いって言ってくれるでしょ。なら姉さんも可愛いってことだよ」
「……双子でもそっくり全部同じって訳じゃないし。リディは可愛いし、綺麗だけど」
私は違うと思う、とまで口にしなかった。
あまり自分を否定し続けると、リディアが悲しい顔をするからだ。
けれどもやはり、レネアは何処か納得のいかない顔で、対面の妹を見やった。
確かにレネアとリディアは顔立ちは似ている。
双子なのだから当然の話だ。
ただ、持ち合わせる要素の系統がやや違う。
レネアは瞳がやや丸みを帯びていて、眉が少しばかり下がっている。
リディアは姉に比べると切長で、平行よりやや吊り上がった印象を受ける。
体型にも違いがあるため、その点でも違いを感じるだろう。
レネアは丸みを帯びた柔らかい印象を受けるが、リディアはすらりとしていて手足が長く見える。
「リディの方が綺麗だと思うけどな……」
「……私は姉さんの方が可愛いと思う」
要するに、無いものねだりである。
「それにしても、どうしてお魚もらって帰ってきて、ヘルエス先生の話になるの?」
「あっ……えーと、それは……その……」
「姉さん?」
笑顔の問いかけに、流石に隠し事はできなかった。
教会裏の池で出会ってからの話を聞かせたレネアに、リディアは納得したように頷いた。
「成程ね。学外の課題か」
「そう。その……転科は難しいけど、勝手に学ぶのは自由だから」
「それは確かにそうだけど。毎週通うほど熱心なんだね」
リディアの紡いだ何処か含みのある言葉を、レネアは文面のままに受け取ったようだった。
何度も嬉しそうに頷いて、そして、心からの安堵を込めてそっと息を吐く。
「先生は……王都の神子の事情とか、知らないのかもしれないけど。でも、言ってくれたんだ。魔法が好きじゃなきゃ、四年もあんなところに居ないよな、って。
そうなんだよ。私、魔法が大好きで、魔術も、すごく楽しいものだと思って、好きだから続けてるんだって、分かってもらえて嬉しかったの。
魔法が私を嫌いでも、私は魔法が好きだなあって。最近忘れそうになってて。
何も考えなくて、ただ好きでいられるから、先生と勉強するのは楽しいんだ」
「……そっか」
楽しそうに話す姉を見つめて、リディルは優しく微笑む。
リディルは知っている。
レネアが座学一位を誰にも譲らずここまで来たのは、確かに『実技の不出来さ』をカバーする意味もあるが、何よりも『魔法が好きだから』であることを。
この四年間、二人は何度も話し合った。
仮に退学して逃げたとして、未成年で、後ろ盾となる家も無く、学園を卒業せずにどんな仕事に就けるのか。
そもそも神子でありながら自由が許されるのか。
散々考えて、時にはぶつかって、二人は耐えて乗り越えることを選んだ。
学園は監獄にも思えるが、同時に盾にもなり得る。
卒業さえすれば、その頃には身を守る術も手に入る。
実際にレネアは今、耐えたからこそ新たな道の可能性に出会った。
「あーあ、もっと早くヴァルター先生に会いたかったなあ」
「いやでも、私たちの入学時って、同い年だから先生も十二歳だよ……?」
「……た、確かに!」
すっかり忘れていたらしいレネアの心底驚いた顔に、リディアが声を立てて笑い出す。
ヴァルター・ヘルエスという男は、風貌だけで言えば間違いなく同い年の少年だと感じられる。
それでも年上と勘違いしてしまうのは、彼が鍛え上げた優秀な魔術師の風格を漂わせているからだろう。
持ち合わせる雰囲気は恐らく、彼の身の内にある確かな自信から来るものだ。
「そっかあ、先生って何か違ってたら、同級生だったかもしれないんだもんね……」
「まあ、魔術科だろうけどね」
「あー……そっか、そうだよね。そしたら、今よりもっと接点なかったんだろうな」
ほんの少し気落ちした響きの声に、リディアはなんと声をかけたらいいものか迷った様子で、食事に口をつけた。
視界の端でそれを捉えたレネアもまた、少し言葉に困って逃げ場を探すようにグラスを手に取る。
実のところ、『魔術科』の話は二人にとってはあまり触れてはならない話題だった。
きっと、魔術科に新しい教師がやってこなかったなら、この先も触れずにいたかもしれない。
二年前。
レネアを魔術科に転科させてはどうか、という話が出た──そうだ。
詳しいことは知らない。結局、その話はレネアに来るよりも前に、無かったことになったらしいから。
間違いなく、神殿が大反対したのだろう。実際、神官の幾人かが、魔法使いとしてあまりに劣る『神子』を言い訳の為に転科させるなど、あってはならないことだと話していたのを聞いた覚えがある。
『そもそも万が一魔術を学ぶことを許されたとして、そちらでも不出来が判明するだけでしょうに』
『ご多忙な神官長様にこれ以上の心労をかけようなど、全く恥知らずもいいところですな』
侮蔑の目を向けてきた神官の嘲りを隠しもしない物言いに、表面上だけは神子の顔を保って、それから屋敷に帰って、耐えきれなかったリディアが爆発した。
その時の喧嘩のことは今でも覚えている。二人とも今よりも心身ともに幼かったから、大人に不満がぶつけられない分、感情の逃げ場が互いにしか向けられなかった。
姉さんが馬鹿にされるなんて許せない、と主張するリディアと、事実なんだから馬鹿にされても仕方がないよ、と納得しようとするレネア。
涙混じりの言葉のぶつけ合いでぐちゃぐちゃになった感情の中で、ふと、言うつもりもなかった一言がこぼれ落ちた。
『リディアはいいよね、何も諦めなくていいんだから』
それは別段、鋭さを持った言葉ではなかった。
どちらかというと、諦観と疲弊で出てしまった、ただの弱音だ。でもその弱音が、これまでのどんな言葉よりリディアを傷つけたのだろう。
あの時の妹の顔は、思い出すと今でも辛くなる。多分、それはリディアにとっても同じなのだろうけれど。
二人はそれから二週間、碌に口を利かなかった。
そうして三週目になって黙ってレネアが妹のベッドに潜り込んで、ごめんねの代わりにおやすみを言った。
それ以来、転科の話は二人の間でなんとなく避けて通る話題になっている。
なっていた、のだけれど。
ごく自然に話し出せたことに内心驚いているのは、きっと自分だけではないのだろうな、とレネアは思った。
綺麗に食べ終えた皿を片付けて、丁寧な所作で立ち上がる妹をそっと見やる。
「あのさあ、リディ」
「なあに。お皿は自分で運んでね」
「もし私が魔術を身につけて、それでいつか、とっても優秀な魔術師になれたら、リディの魔素、使ってみてもいい?」
動揺は、重ねた食器の立てた小さな音にだけ現れて、すぐに消えた。
翠玉の瞳が、真っ直ぐにレネアを見つめる。寵愛の証を宿して輝く瞳に、うっすらと魔素とは別の輝きが滲んだ。
揺らいだ視線に気づいたレネアは、わずかに誤魔化すような笑みを浮かべた。
「あの、人間の魔素が使えるほど上手くなれるかは、ちょっと分からないんだけど」
「出来るよ。姉さんは、凄い人だから」
少し不恰好な笑みと共に落とされた呟きは、何処か祈りのように響いた。




