◇プロローグ
空は、雲ひとつない快晴だった。
ハジャ湖の桟橋で釣りの最中、ヴァルターの頭上に影がかかる。
魔力で出来た伝令鳥──ヴァルターの師匠からの手紙だ。
ヴァルターは特に見上げることもなく、頭上から落ちてきた手紙を片手で掴み取る。
意識は未だ釣り竿に、視線は水面に向かったままだ。
魔素を使って指先で封を切り、読み上げの許可を与える。
隠匿魔法のかかっていない便箋は淡く輝き、無機質な声で文面を音へと変えた。
『ご機嫌よう、我が愛弟子。早速で悪いんだけど、君には王都にある王立魔法学園に向かってほしい』
「────はあっ?」
そこでようやく、ヴァルターの意識が釣り竿から逸れた。
宙に浮く手紙を振り返った彼は、その黄金色の瞳に剣呑な輝きを乗せて紙面を睨みつける。
「何言ってんだバカ師匠。魔法学園? そんなもん今更通って何になんだよ」
音声は手紙を読み上げているだけなので、会話など出来ない。
それが分かっていても尚口に出してしまいたくなるほど、ヴァルターにとっては突飛な内容だった。
ヴァルター・ヘルエスは、魔術師アフィスティア・ヴァン・ヘルエスの一番弟子である。
優秀な魔術師の後継を欲しがったアフィスティアが、とある都市の孤児院から貰ってきた子供だ。
十年前──拾われた当初、ヴァルターは六歳だった。
師匠であるアフィスティアから、『私には遠く及ばないが、まあ及第点だと言えるかな』と告げられたのが十四の時だ。
そこから二年。
手紙を残して屋敷を去った師匠は、一度も帰ってきていない。
このハジャ湖周辺の住まいの管理を、ヴァルターに任せきりにして。
どうせ、大陸中を己の探究心を満たす為に飛び回っているのだろう。
それが久々に手紙を寄越したと思ったら、なんだ?
学園に通え? 冗談じゃない。
あそこは魔法使いの巣窟じゃないか。
魔術師であるヴァルターにとって、魔法使いは忌むべき存在だった。
『何も生徒として通えと言ってる訳じゃない。ヴァルにはそこで、教師として生徒に魔術を教えてやって欲しいんだよ』
「……うーーわ」
それこそ、想定していた内で最悪の未来である。
すっぽ抜けた釣り竿は、今や獲物に引き摺り込まれて湖を泳いでいた。
『ヴァルも知っての通り、我が国における〝魔術〟への差別意識は未だに強い。
ただ、変換機構を持たずに生まれる人間が増え続けている以上、学園もただ魔術を軽視し、忌避している訳にはいかなくなってね。
魔術への理解を深める為にも、この私の一番弟子である君が、学園に特別講師として出向くべきだと話がまとまったんだ』
「どーせ学園長に研究資金でも貰ったんだろうが……」
万年金欠魔術師ことアフィスティアの我欲に塗れた笑みが、勝手にヴァルターの脳内で再生される。
枯れることのない探究心を抱く稀代の魔術師は、その才能と引き換えにでもしたのか、あらゆる欲に果てがない。
食欲も物欲も知識欲も、なんなら性欲もそうである。
魔術によってその美貌を保っているアフィスティアは、しょっちゅう、近場の街から好みの美丈夫、あるいは美女を森へと連れ込んでいた。
遣いから帰ったらとんでもない場面に遭遇したことも、月に一度や二度の話ではない。
見たくもねえもん見せんな、と死んだ目で過去を思い出していたヴァルターの耳に、無機質であるはずなのに妙に抑揚のついた文面が音となって届く。
『まあ、もちろん。強制じゃないよ? 君が、愚かで弱弱な僕ちゃんには教師なんて出来ませ〜ん!と泣きながら言う他ないなら、もちろん私にその旨を伝えてくれたまえ。
学園長に私から嘆願して、私の一番弟子は軟弱な臆病者なんです!この話は無かったことに!とお願いしてあげるからね!』
ヴァルターは、無言で手紙を握り潰した。
ひしゃげた便箋はまだ何やらほざいていやがるが、知ったことではない。
アフィスティアは、昔からよくこうしてヴァルターを煽った。
その方がよっぽど修行の習得速度が上がった為である。
生来の負けず嫌いと性根の捻くれ方は、どうにも治りようがない。
「やってやろうじゃねえかよ……!」
好戦的な笑みを浮かべたヴァルターの口から吐き捨てられた文言は、きっとアフィスティアの予想通りの台詞だっただろう。
『君ならきっと、彼女を助けてあげられるって信じてるよ』
最後の最後、手紙の端っこに書かれた些細な賞賛は、残念なことにヴァルターの目に留まることはなかった。