最悪の日 1
翌朝、眠い目を擦りながらエレノアは町に買い物に出ていた。
母親にはアドルフにプレゼントする商品を買いに行きたいと言って出てきたが、本当はハインリッヒに会いに来たのだ。
アドルフが午後来るのなら、その前に行動しないといけない。
彼に見つかればハインリッヒと会うことは二度とできないかもしれない。
もう一度あの美しい人を見てみたいとエレノアはホテルの前までやって来た。
昨日、アドルフの手によって破り捨てられたハインリッヒから貰ったメモはしっかりとエレノアは記憶している。
(破り捨てても無駄だったのよ。アドルフ、残念だったわね)
深窓のお嬢様でもないエレノアは一人で町に来ることもある。
ハインリッヒが滞在しているというホテルは大通り沿いから一本裏にある一流ホテルだ。
ホテルの斜め前にはエレノアが懇意にしている占い雑貨が売っている店があるのでこの辺りは自分の庭みたいなものだ。
慣れているはずの道だが、ハインリッヒと会えるかもしれないと思うと心臓がドキドキしてホテルの入口に入ることができず大きく息を吸って空を見上げた。
生憎空は曇っていて今にも雨が降り出しそうだ。
肌寒い風が吹き抜けエレノアは寒さで身を縮こませた。
(寒いけれど、心は温かいわ)
これから美しいハインリッヒと会えると思うと胸が暖かくなり、寒さも耐えられる。
それでも入る決意が出来ず、ホテルの入口でウロウロしていると、ホテルマンが出てきてエレノアに声を掛けてきた。
「何か御用ですか?お嬢様」
「あのっ、405号室に居る方に用事がありまして」
ハインリッヒの名前を出したらいけないかもしれないととっさに思ったエレノアが部屋番号を言うと、ホテルマンは大きく頷いた。
上から下までエレノアを見ながらホテルマンは口を開いた。
「なるほど。どうぞ、お入りください。あの方を訪ねてくる綺麗な方が多くて羨ましいですね」
ホテルマンの言葉にエレノアは少しガッカリして頷いた。
(訪ねてきたのは、私だけではないのね)
あれだけの美貌の持ち主で、王子様だ。
モテるのは仕方ない。
自分だけが特別ではないのかと少しガッカリしつつ、それでも彼の姿を見たいとホテルに一歩踏み込んだ。
一人では怖くなってしまい帰ってしまったかもしれないが、ホテルマンは怖気づいているエレノアをハインリッヒの元へと案内してくれる。
一流ホテルともなれば内装も豪華で、階段を登り4階へと向かうとホテルマンは廊下で立ち止まり頭を下げた。
「この階すべてを王子が貸し切りになっております。あちらの部屋に女性を案内するように言われておりますので、どうぞお尋ねください」
そう言うと、ホテルマンは綺麗なお辞儀をして去って行ってしまった。
一人残されたエレノアはドアをノックするべきか悩んだが、ここまで来たのだから一目だけでも王子に会っていこうと決意をして歩き出した。
ホテルマンが言っていたドアの前に立ち止まり、大きく息を吸う。
(どうしよう、緊張するわ)
もし部屋に入れば王子とお茶だけをして終わりではないかもしれないと言う不安はある。
乙女であろうエレノアだって知識だけはある。
少女達が集まるお茶会で、親に内緒の話だってすることもある。
もしそれが今日だったらどうしましょうという気持ちになりエレノアはドアをノックする勇気が出ずにまた鞄をゴソゴソとあさり、タロットカードを取り出した。
誰も見ていないことをいいことに、タロットカードを切りながら心の中でカードに尋ねる。
(ドアをノックするべきか教えて)
これだというカードを一枚取り出して、そっと見つめた。
カードに描かれているのは10本の剣が刺さっている男性が横たわっている姿。
(最悪だわ。ソードの10が出るなんて)
“望まない結果、終止符”などと言う意味はあるが、エレノアの占いは絵柄を見てインスピレーションを大切にしているタイプだった。
エレノアは、一枚引きしたタロットカードを見つめながら絶望的な気分になる。
(男性が剣に刺されて横たわっている姿ってもう再起不能としか思えなのよね。死んでいるようにも見えるし)
タロットからはノックしたら滅亡するようなイメージを受けてやっぱり引き返そうと決意をしてドアから少し離れた。
「やっぱり私には釣り合わない相手だったのかもしれないわね」
どこかホッとした気分になってドアから背を向けた時に部屋の中から物音がした。
「誰か来たのか?」
ドア越しにハインリッヒ王子の声が聞こえエレノアの心臓が早鐘を打つ。
低く心地いいハインリッヒ王子の声はエレノアの心を揺らした。
(やっぱり好きかもしれない)
一目だけ顔を見たら帰ろうと決意をしてエレノアはか細く返事をした。
「は、はい。エレノアです。昨日お会いしました」
「あぁ、エレノア嬢か。今開けるよ」
ドキドキしながら待っているとゆっくりとドアが開いた。
「あ、あのこんにちは」
エレノアは元気よく挨拶をして、ドアを開けてくれた王子を見た。
「やぁ、よく来たね」
気怠い挨拶をするハインリッヒ王子は上半身裸で、かろうじてタオルを腰に巻いている状態だ。
あまりにも破廉恥な姿にエレノアの頭はパンクしそうになり一歩下がった。
(何?この格好?風呂上りなのかしら)
瞬時にいろいろな思考が頭をめぐり、部屋の中からムッとした強く甘い匂いに頭がクラクラする。
「どうぞ、入って」
ハインリッヒ王子はエレノアの姿を上から下まで見ると、ペロリと唇を舐めた。
流石のエレノアも見の危機を感じて慌てて首を振る。
「いや、私、その、ちょっとお話がしたくて来ただけなのでお取込み中でしたら失礼しますけど」
「いいよ、気にしないで。話ながら楽しいことをしようよ」
逃げ出そうとするエレノアの手をハインリッヒ王子は掴むと部屋の中に引き込もうとする。
強い力に、掴んでいる手を振りほどくこともできずずるずると部屋の中へと連れていかれエレノアは必死に抵抗をした。
「あの、帰りますから」
「いいじゃないか。楽しいよ」
いやらしい笑みを浮かべて言うハインリッヒは昨日の夜見た美しさも、王子さらしさも無いただの男に見えてエレノアは首を振った。
あれだけ会いたいと思っていたハインリッヒだが、今は早くこの場から立ち去りたい。
なんとか逃げ出そうと必死に抵抗をしていると、甘ったるい匂いと共に女性の艶やかな声が聞こえた。
「なぁに~?誰かきたのぉ?」
ハインリッヒと引っ張りをしながらも声の方向を見ると、ベッドに横たわった女性が起き上がりこちらを見ている。
「ひぃー」
二人の裸の女性が大きなベッドの上に居るのを見てエレノアは声にならない悲鳴を上げる。
エレノアの初心な反応を見てハインリッヒはますますいやらしい笑みを浮かべた。
「可愛いね。初めてなら優しくするよ」
「無理です。無理~」
エレノアは必死に抵抗をしながら腕を振り上げると鞄の蓋が勢いよく開き、タロットカードとお手製の“魅惑の香水”の瓶が宙を舞った。
パラパラと落ちるカードに気を取られたハインリッヒが一瞬手を緩め、エレノアは瞬時に手を引き抜いた。
(逃げなきゃ)
部屋に散らばったタロットカードを拾いたかったがそんな暇はない。
香水の瓶の蓋が開きカーペットに染みを作っているのが見えた。
むせ返る室内の甘ったるい匂いが強く、エレノア特製の香水のキツイ匂いは全くしない。
「ごめんなさい!」
逃げるように部屋から駆けだしたエレノアに、ハインリッヒは声を上げて笑っている。
「あははっ、可愛いねぇ気が向いたらまた来てね」
無理に追いかけてくる様子も無く、ホッとしながらエレノアはホテル部屋から飛び出して階段を駆け下りた。