最終話
数日後エレノアは鏡で自らの頬を見た。
すっかり腫れも引き切れていた唇も完治した。
骨が折れていたら数か月かかったと言われ、オーランドが少しは手加減してくれたのではないかと言われたがエレノアは納得ができそうもなかった。
手加減をしてくれたと言っても何も悪いことをしていないのに誘拐されて一方的に殴られたのだ。
エレノアの背後で母のヘレンが上機嫌に買ってきた花を花瓶に生けているのが鏡越しに見えた。
「エレノア、お化粧の練習でもしたら?明日は婚約の書類をかわす日よ、少しでも綺麗にならないと」
「今更綺麗にしてもねぇ」
相手はアドルフだしと心の中で呟くのが聞こえたのか、ヘレンはギロリとエレノアを睨んだ。
「全く、占い好きでそれも妙な事件に巻き込まれて攫われて殴られて!そんなどうしようもないエレノアでも結婚してくれるっていうのだからせめて綺麗になりなさい。マーガレットも貴女が嫁に来てくれて嬉しいって言っているのよ」
マーガレットはアドルフの母であり、ヘレンとは子供が生まれる前からの友達でもある。
お互い仲が良かったので、アドルフと幼馴染になったのだ。
「そういえば、マーガレットおば様はたまにウチに来てお茶を飲んでいたわよね」
エレノアはアドルフが来なくなってからもマーガレットが訪れていたことを思い出す。
なぜアドルフの事を忘れていたのだろうか。
「ウチに来ない上に手紙もよこさないからね。忘れるわけよ」
エレノアは呟いてもう一度鏡を見つめる。
鏡越しにアドルフと目が合って驚いて声を上げた。
「わぁ、来ているなら言ってよ」
「声はかけたよ。ずっと鏡を見ているからだろ」
「今日来るって言ってた?」
そんな予定だったかとエレノアが聞くとアドルフは首を振った。
「いや、ちょっと早く帰れたから。顔を見ようかと思って」
少し顔を赤くして言うアドルフにエレノアも顔が赤くなる。
明日、婚約の書類をかわすとなると少しだけ気恥しい。
「明日会うのだからわざわざ来なくてもいいじゃない」
「会いたかったんだよ」
会いたかったと言われてエレノアはますます顔が赤くなる。
お互い赤い顔をして見つめ合っているエレノアとアドルフを見てヘレンは声をかけた。
「突っ立ってないで、客間で話したら?」
「そうだな。いろいろ報告があるんだ」
アドルフに言われてエレノアは頷いた。
「で、話って?」
ソファーに座りながらエレノアは紅茶を一口飲んで前に座るアドルフを見た。
「オーランド隊長の除隊処分が決定して、まだ取り調べ中だけれど一生牢屋からは出てこられないって。ただ、精神的にもおかしいらしくて閉鎖病棟に入院になるかもってさ」
アドルフの言葉にエレノアは思いだしたと手を叩く。
「支離滅裂なことを言っていたもの。全部私の占いのせいにして、しまいには一緒に死のうとしていたのよ。目もうつろだったし。人間って急に可笑しくなっちゃうの?」
「多分、薬の影響じゃないかって言われているらしいよ。オーランド隊長も薬を飲んでいたらしいし、もしかしたら大量の薬を摂取したのかもしれないな」
「浮気もしていたに違いないわ」
薬をただ飲むだけではないだろう。女と楽しむために飲んだに違いないとエレノアが確信を持って言うと、アドルフは肩をすくめる。
「さぁ?まだそこまでは分かっていないみたいだ。で、エレノアが気にしているハインリッヒ王子は、寝たきりで意識が無い状態だけれど極秘に国に帰ったってさ」
「気にはなっていたけれど、とうとう目を覚まさなかったのね」
「国としても王子が違法の薬を密売していてそれも自ら使用して死にそうになっているのだから隠せるものなら隠し通したいようだ。エレノアにも多額の賠償金が支払われるってさ」
「疑いが晴れたことはうれしいけれど、お金なんていらないわよ」
「口止め料だろ。不明の病気で意識不明ってことにするらしいよ。そのお金でジュミー副隊長が持っていた高いタロットでも買えば?」
揶揄うように言われてエレノアは唇を尖らせた。
「もう売ってないもの。ジュミー様はきっとお金とコネを使ってあのタロットを手に入れたのよ」
あのジュミーならありそうだとアドルフは頷く。
エレノアもあのタロットが売り出されたときを知っているが、高すぎる値段のために買うのを躊躇していたのだ。
流石に趣味に費やす値段ではない。
「ジュミー様はタロットカードを使っているのかしら」
エレノアが言うと、アドルフは眉をひそめた。
「使っているみたいだよ。休憩時間はタロットの本を読んでいるし。そう言えばパトリシア姫も買ったらしいよ、タロットカード」
密かにはやり始めているタロットカードにエレノアは笑みを浮かべた。
「嬉しいわ。私しかやっていなかったけれど、パトリシア姫がタロットカードをやりはじめたらきっと流行るし私も奇異な目で見られることもないわね。アドルフもやればいいのに」
「絶対にやらない」
断固として拒否をするアドルフが面白くてエレノアはクスクスと笑った。
「明日になったら、俺達は婚約者同士ってことになるけれどあんまり実感がないな」
アドルフに見つめられてエレノアも頷く。
「そうね。まさかアドルフと結婚するとは思わなかったわ。ハインリッヒ王子みたいな美しい人が好みだったけれど現実は違うって学んで、アドルフでいいって思うことができて良かったわ」
「それを言うとまるで俺が劣るようないい方だな」
少し不貞腐れたようなアドルフをエレノアはじっと見つめる。
「言い方が悪かったわ。アドルフがいいって言う事。ハインリッヒ王子なんて中身最悪だったし、アドルフは見た目もカッコいいし、なにより私を命がけで助けてくれたじゃない!私はそんなアドルフが好きだから結婚してくれて嬉しいわ」
エレノアが勢いに任せて言うと、アドルフは感激したように立ち上がった。
「俺も、エレノアと結婚できるなんて嬉しい。ずっと幼い頃からの夢だったんだ」
ヅカヅカと近づいてくると力強くエレノアを抱きしめた。
エレノアの頭にグリグリと頬を撫でつけてくるアドルフが可愛くてエレノアもアドルフを抱きしめ返す。
「幼いころの夢って、私アドルフに好かれている理由が分からないんだけれど」
「人を好きになるのに理由なんてないだろ」
アドルフに言われてそれもそうかとエレノアは頷いた。
「頬の腫れが治って良かった」
アドルフはじっとエレノアの顔を見つめながらそっと殴られた頬を触った。
優しく頬を撫でるアドルフの指がくすぐったくてエレノアは目を閉じた。
アドルフの大きくて暖かい手がエレノアの頬を包む。
親指で唇の端を撫でられそのままエレノアの唇をなぞっていく。
「くすぐったいわよ」
クスクスと笑うエレノアが目を開けると、黒いアドルフの瞳が近くにあって目を見開いた。
熱を含んだアドルフの瞳に見下ろされる。
「目瞑ってよ。開いていてもいいけれど」
囁くように言われてエレノアは慌てて目を閉じた。
何度かアドルフの指がエレノアの唇を撫でられ、すぐに塞がれた。