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「駄目よ。自分の分は、きちんと払います。……後で」
今までどんなに深窓の姫であっても、町どころか森の中に泊まるような生活を続けていれば、嫌でも変わる。
そんな会話をしたことを思い出しながら、ミラがその部屋に戻ると、先にラウルが戻っていた。
彼も男性側の共同浴場に行っていたらしく、紅い髪がまだ少し濡れている。
「夕食を買ってきた」
彼はミラの姿を見てそう言うと、テーブルの上を指した。
町には多くの屋台が出ていたので、そこで買ってきてくれたらしい。
ここには冒険者組合の支部があり、まだ残っている冒険者が多いようだ。そのため、魔物による被害は最小に抑えられている。
だからこそ人が集まり、活気が出ているのだろう。
テーブルの上にも、パンや新鮮な果物、サラダ。スープや焼いた肉などが並べられている。
「お姫様の口に合うかどうかはわからないが……」
「ううん、何でも食べられるわ。ありがとう」
新鮮な野菜や果物が、何よりも嬉しかった。
マナーをあまり気にせずに、好きなものを食べることができるのも、しあわせだ。パンに野菜と肉を挟んで、嬉しそうに食べるミラの姿を見て、ラウルは少し呆れたように笑う。
「世間知らずのお姫様だとばかり思っていたが、適応力はたいしたものだな」
「あなたのお陰だわ」
ミラはそう言って笑う。
逃亡生活の中では、不安ばかりだった。
侍女やサリアに守られるだけで、これからどうなるかまったくわからずに狼狽えていた。
ミラにできることは、なるべく目立たずに、守ってくれる彼女達の負担を最小限にすることだけだ。
でも今は明確な目標があり、聖女の力を使うことができる。
「聖女としての誇りを取り戻すことができた。だから、強くなれたの」
これからどうなるのか、まったくわからない。
でも、できることを精一杯やるだけだ。
夕食を終えたあと、それぞれの寝室に向かう。
それほど広くないが、ひとりになるのは随分と久しぶりだ。
ミラは寝台に横たわって、手足を伸ばす。
「うーん」
思わず声が出てしまうくらい、気持ちが良い。
もし侍女が一緒にいたら、はしたないと注意されてしまうかもしれない。
(みんな、無事だよね。心配しているかな。……ごめんなさい)
崖から滑り落ちて行方不明になってしまった主を、心配していないはずがない。まして、周囲には兵士達がうろついていたのだ。
兄にも、一度連絡を入れただけだ。
一刻も早く、無事だということを伝えたい。それには、聖女としての名を上げるしかない。
「もう一度、この国のために力を使うなんて思わなかったけれど……」
何度か探ってみたが、新しい聖女らしき魔力を感じることはできなかった。もし、彼女が聖女として力を使ったのなら、その魔力の残滓を感じ取ることができるはずだ。それがまったくない。
新しい聖女は、ミラが思っていたよりもずっと、力が弱いのかもしれない。
(もしかしたら、この国の瘴気が強すぎるのかもしれない。そのせいで、ますます力が弱っている可能性があるわね。でも……)
アーサーは、それを想定していなかったに違いない。
自分の思い通りにならないことに苛立ち、それを力の弱い聖女のせいだと決めつけて、彼女を責めるような真似をしていないだろうか。
会ったことはないし、ミラが追い出されるきっかけにもなった新しい聖女だ。
それでも、自分ではどうにもならないことでアーサーに罵倒されているかと思うと気の毒になってしまう。
もし姉が傍にいれば、お人好し過ぎると呆れられたかもしれない。
でも彼女が何もしていないのなら、ミラがいくら力を使おうとも、新しい聖女の力の邪魔をすることはない。
「うん、もう遠慮せずに使うわ。早く、みんなと合流したいもの」
そう決意したところで、ふいに階下が騒がしくなった。
悲鳴や、叫び声が聞こえる。
何があったのだろう。
上着を羽織って寝室から出ると、ちょうどラウルも自分の部屋から出てきたところだった。
「様子を見て来る。俺が出たら、すぐに鍵を閉めろ」
「……うん」
ラウルはそう言うと、すぐに部屋を出て行った。
残されたミラは気配を探ってみたが、どうやら魔物が出没したわけではなさそうだ。
複数の人間が争っている気配を感じる。
人間同士の争いなら、ミラにできることは何もない。
おとなしく鍵を閉めて、ラウルの帰りを待つことにした。
そのうち外からも、怒鳴り声のようなものが聞こえてきた。
窓からそっと覗いて見ると、もともとは冒険者であったと思われるならず者が、複数で宿を襲ったらしい。
この国の治安も、かなり悪化しているようだ。
今さらながら、ラウルが傍にいてくれて本当によかったと思う。
魔物を退ける力を持っていても、あのような人達に襲われてしまったらなす術がない。




