2-44
「オーリア様の魔を浄化したとき、遠くから断末魔のような声が聞こえたの。もしかしたら、そのとき……」
そう言いかけて、ミラは大切なことを思い出す。
「ラウル、怪我は? 私を庇ったときの怪我を、治療させて」
「いや、大したことはない。傷の手当はしてもらったし、もう大丈夫だ」
「駄目! あれは普通の魔法ではないわ。きちんと治療しないと、もしかしたら後遺症が残るかもしれない」
服を脱がせるほどの勢いで迫るミラに根負けをして、ラウルは治療を承知してくれた。服の上から手をかざして、治癒魔法を唱える。
「うん、これで大丈夫。やっと安心したわ」
そう言って笑顔を向けると、ラウルは少し困ったような顔をしながらも、笑みを返してくれる。少し強引だったかもしれないが、彼に闇の傷を残すなんて考えられなかった。
「もう少し、この町を探ってみたほうがいいかしら?」
「そうだな。町を回ってみるか」
この日は一日、町のいたるところに足を運んでみた。だが、どこにも彼女の影を見つけることはできなかった。
オーリアの魔を浄化したときに聞いた、断末魔を思い出す。
エリアーノは、あの魔と一緒に消滅してしまったのだろうか。
夜になると、ふたりで町の中心で野営をした。
泊まれるほど原型を留めている建物は、ひとつもなかったからだ。
毛布に包まり、炎を見つめながら、ミラはこの国の最後の聖女のことを思う。
平民だったひとりの女性が聖女となり、王弟の妻となった。
それだけ聞くと、まるで物語のようなハッピーエンドだ。
けれど実際の彼女は平民だと蔑まれ、夫には部屋に幽閉され、子どもさえも取り上げられて、孤独に生涯を終えてしまった。
呪いによってこの国の聖女は絶えたと噂されてしまうくらい、悲劇的な人生だった。
その聖女とエリアーノの関係は、いったい何だったのだろう。
隣を見ると、ラウルも同じように考え込んでいる様子だ。
ラウルにとってエリアーノは、祖国を滅亡の原因となった相手だ。その彼女を探しているのは、やはり仇を取るためなのか。
ふと強い風が吹き、炎がかき消された。
海風のせいだろうと思ったが、ミラが魔法で調整している炎である。普通の風で消えるなんてあり得ない。
「ミラ、気をつけろ」
ラウルはすでに戦闘態勢に入っていた。海の方から、呻き声のようなものが聞こえてくる。
「あああ……。うう……」
地の底から響くような昏い声。
ずるり、ずるりと何かを引き摺るような音が聞こえる。
「憎い……。許せない……。ああ……」
憎しみをまき散らしながら海から這い上がってきたものは、もう人間の形をしていなかった。
「……っ」
そのおぞましい姿に恐怖を覚えて、ミラは思わず視線を逸らす。
大型の蜥蜴のような姿が、ゆっくりとこちらに這ってきている。
全身が黒い鱗に覆われているが、その頭部からは長い黒髪が生えていた。その黒髪には、たくさんの宝石が飾られている。
きっとこれはエリアーノだ。
見た目は完全に魔物になってしまっているようだが、まだ言葉を発している。
話ができるかもしれない。
「ラウル。彼女の話を聞いてみたいの。何を思っていたのか。何を企んでいたのか」
兄は、敵のことは知らなくていいと言っていた。ただ戦うだけだと。
でもミラは、彼女の憎しみを、悲しみを理解したいと思った。
「ああ。俺も知りたいと思う」
ラウルを見上げると、彼は静かな瞳で頷いてくれた。そこに憎しみは宿っていない。
魔物と化した仇を、問答無用に切り捨てなかったラウルは、やはり優しい人だ。
「あなたは誰? あなたの名前は?」
臆する心を制して、ミラは話しかける。
「ああ……。う……」
「何が憎いの? 誰が許せないの?」
「わたしを……。虐げたあの男……」
憎しみが増したのか、黒い蜥蜴の緑色の瞳がぎらりと光る。
ラウルがミラを庇ってその前に立った。
「その男は、誰?」
ミラは彼女の登場と同時に、周囲に瘴気が満ちていることに気が付いて、少しずつ浄化する。エリアーノが完全に魔物になってしまうのを、遅らせることができるかもしれない。
「私の夫となった男……。ギークス」
「!」
ミラは衝撃のあまり、思わずラウルの背に縋る。
ギークスとは、最後の聖女の夫だった男の名だ。
「あなたはまさか、この国の最後の聖女、クリスティー?」
黒の聖女エリアーノが聖女ではなく、魔物の力を使っていると知ったときは、恐ろしいと思いながらもどこか安堵していた。
同じ力を持つ聖女が、そんなひどいことをするはずがない。そう思いたかったのかもしれない。
でも彼女は、このロイダラス王国の最後の聖女。あのクリスティーだというのか。
名前を呼ばれたことで意識がはっきりとしたのか、彼女の口調が滑らかになる。
「そう。私は以前、クリスティーと呼ばれていた。それは生まれ変わる前の記憶――」
不幸なまま亡くなってしまったクリスティーは、エリアーノとして新たな生を受けた。
前世と同じように、聖女の記憶を持って。
だとすれば、グリーソン公爵は、オーリアは彼女自身の子孫ではないのか。
「どうして、あんなひどいことを。だってオーリア様は、あなたの……」
「あの男の血を引いているわ。子どもが生まれた途端、あとは用済みだと言って、毒を飲ませたあの男の。私が苦しんでいるところを、愛人と笑いながら見ていたのよ!」
あまりにも深い憎しみ。
愛情が芽生える前に子どもを取り上げられたクリスティーにとって、グリーソン公爵もオーリアも、憎い男の子孫でしかなかったのか。
「どうしてリーダイ王国まで滅ぼしたの? あの国は何の関係もなかったはず」
「私を閉じ込めようとしたのよ。あの男のように。それをきっかけに、私はクリスティーとして生きていた頃を思い出した。きっとまた用が済んだら殺される。だから、その前に魔物に襲わせたわ」
ラウルが息を呑む。
リーダイ王国は、長く魔物の襲撃に苦しんでいた。
きっと貴重な聖女を失いたくなくて、彼女の自由を奪ってしまったのだろうか。もちろん、彼女を害するつもりなどなかったに違いない。
けれどその行為が、過去の悪夢を呼び覚ましてしまったのだとしたら。
「権力者は聖女を利用することしか考えていない。お前だって、身をもって知っているだろう?」
「……私は」
「偽聖女と呼ばれ、守っていた者から罵られて、悲しかっただろう。罪人のように追われ、冤罪まで被せられて。あの男を憎いと思わなかったのか?」
アーサーに突き飛ばされ、婚約破棄を言い渡された。
守っていたはずの人達に罵倒され、偽物だと認めるように、書類にサインすることまで求められた。
王城で大切に守られ、家族に溺愛されていた王妹が、慣れない山道を歩きながら逃げ回らなくてはならなかった。
そんな日々が、まるでたった今体験したことのように頭の中に蘇る。




