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少し休ませた方がいいと、ミラはラウル、ジェイダーとともに兄の部屋を出た。
「ミラは大丈夫なのか?」
心配そうに言うラウルに、ミラは頷く。
「ええ。私は聖女だから、瘴気の影響は受けないの」
どんなに瘴気が濃くても、何も問題はない。
「そうか」
「ラウルとジェイダー様の部屋の瘴気も浄化したいけれど、耐性がなくなってしまうと、かえってつらいかもしれないわ」
「私は大丈夫です。今のところ、何も感じません」
ジェイダーがそう言い、ラウルも頷く。
「俺も、問題はない」
今は大丈夫でも、これ以上瘴気が濃くなったらつらいかもしれない。そのときは必ず言ってほしいと伝えておく。
「私はとにかくこの瘴気と、グリーソン公爵令嬢がどう関わっているのか。調べてみようと思う」
ラウルに、くれぐれもひとりで行動するなと念を押されて、部屋に戻る。
荷物を置き、着替えをして、それから窓から王都の様子を眺めた。
瘴気は濃くなっているが、復興は順調に進んでいるようだ。王城の周囲にあった瓦礫は撤去され、作業をしている人の姿も見える。
一見、ロイダラス王国は、魔物の脅威から立ち上がりつつある。
オーリアが本物の聖女なら、何の問題もなかっただろう。
この王都を守る結界は、聖女の魔法ではない。
もし聖女の魔法ではなくとも、人々が守られ、王都が平和になるのなら、問題はないのかもしれない。
(でも……)
ミラは立ち上がり、荷物の中から日記帳を取り出した。美しい装丁の表紙を、じっと見つめる。
オーリアの力は、あのエリアーノから授けられたもの。
彼女が善意でこんなことをしたとは思えない。きっと何か仕掛けがあるはずだ。それをきちんと見極め、今度こそ彼女の企みを阻止しなくてはならない。
けれど、なかなか前途多難なことばかりだった。
兄が言っていたように、エイタス王国はとても警戒されているようだ。
王城を少し歩くだけで、見張っているような視線を感じる。オーリアがいるだろう神殿に近付こうとすると、どこからか護衛騎士が飛んできて、毎回阻止されてしまう。
オーリアは今、結界を維持するために祈りを捧げているのだと言う。
そう言われてしまえば、無理に入ることはできない。下手に周囲をうろついているとますます警戒されそうで、部屋に戻るしかなかった。
「困ったわね。会うこともできないなんて」
オーリアだけではなく、グリーソン公爵とも会っていない。
すれ違ってしまったとはいえ、オーリアを探して幾つもの町を回ったというのに、公爵からはそれに対して一言もない。出立する前なら考えられないことだ。
警戒されているのは、仕方がないと思う。
兄はミラを助けるためとはいえ、先触れもなく国境を越えている。ミラだってアーサーの仕打ちを思えば、この国を恨んでいると思われても仕方がない。
どうやったら、兄もミラにも、ロイダラス王国に対して悪意は持っていないとわかってもらえるのか。
おそらくエリアーノは、目的を達するために着々と動いているのに、こちらは何もできない。
焦りが、日毎に強くなる。
部屋の中にいても、集中すれば魔法の軌道を辿ることができる。王都に張り巡らされた結界を探り、その魔力の源を辿ろうとした。
「!」
すると、ひとりの女性の姿が見えてきた。
長い黒髪。
白い肌に、緑色の瞳。
見る者の視線を奪ってしまうほど美しいその女性は、ひどく残酷な笑みを浮かべていた。
それが誰なのか。
一度も会ったことのないミラでも、すぐにわかった。
(エリアーノ!)
彼女が両手を掲げると、何もない空間に黒い影が生じた。そこから溢れ出す魔物。エリアーノは自らの力で魔物を生み出し、その魔物に王都を襲わせている。
(魔物が。そんな……)
だが魔物に反応した結界が淡く光り、魔物は結界に触れると、耳障りな鳴き声を上げながら倒れていく。
それが何度も繰り返される。
魔物はいくら倒されても、結界に突進し続ける。倒された魔物から瘴気が溢れ、魔物を倒し続けた結界が薄まると、オーリアがそれを補強するために魔力を使う。
こうやって瘴気を生み出すのが目的か。または、オーリアにその力を使わせるのが目的か。
エリアーノはそれを繰り返したあと、高笑いを響かせながら消えていく。
頭に浮かんだ映像も、同時に消える。
だがミラはすぐに動くことができずに、その場に蹲っていた。
魔物を生み出したエリアーノ。
あの姿は聖女どころか、人間でもない。
彼女はいったい何者なのか。
そして、あの結界。
聖女の結界は魔物を退けて浄化するが、オーリアの結界は魔物を攻撃し、倒していた。攻撃魔法のようなものだ。だから魔物の瘴気はそのまま残り、蓄積されていく。
震える手を握りしめて、ようやくミラは立ち上がった。今見たことを話すために、そのまま兄の部屋に急ぐ。
兄にはゆっくり休んでほしかったが、何だか嫌な予感がする。
オーリアに、あの力を使わせてはいけないのではないか。
ミラの話を聞いた兄は、険しい顔をして考え込む。
「黒の聖女は、魔物の類か?」
「わからない。でも、魔物を生み出して、王都に攻撃を仕掛けていた。普通の人間とは思えないわ」
今すぐオーリアにその力を使わないように伝えたいが、あの映像を見たのはミラだけだ。今のこの状況では、それをそのまま話して信じてもらえるとは思えない。
「でも、何もせずにこのまま待つわけにはいかない。何とかして、彼女と話をしてみたいの」
ミラは断られてしまったが、さすがにエイタス国王である兄の要請を退けることはできないだろう。兄をこの部屋から出すのは少し心配だが、他に方法がない。
「わかった。グリーソン公爵と話をしてみよう」
兄はすぐに動いてくれた。
さすがにエイタス国王の要請を断ることはできなかったらしく、グリーソン公爵は応じたようだ。
こうしてミラはようやく、オーリアと対面することが決まった。
彼女がいるのは、かつてミラが暮らしていた神殿だ。オーリアはそこで祈りを捧げているため、動くことができないと言う。
兄、そして護衛のラウルとともに神殿に向かう。
懐かしい光景。
ここで今のオーリアのように祈りを捧げ、王都を守るために結界を張っていたことを思い出す。
最初はアーサーも優しく丁重に扱ってくれて、ここで生きていくと決めていた。あの頃が、もうこんなに遠くに感じる。
あまりにも多くのことがあったせいかもしれない。
「大丈夫か?」
背後にいたラウルが、気遣うように声を掛けてくれた。兄も足を止め、心配そうにこちらを見ている。
「ええ、もちろん。少し昔のことを思い出しただけ。私は今の方が幸せだわ」
自分の力を知り、明確な目標がある。
信頼できる仲間もいる。
笑顔でそう答えると、二人とも明らかに安堵した顔をした。
兄はともかく、ラウルまで少し過保護になってきていると感じるのは、気のせいだろうか。




