2-35
「お兄様?」
ソファーにゆったりと座り、寛いでいた様子の兄は、部屋の入口に立ち尽くしたままのミラに、中に入るように促す。
ミラは困惑しながらも、兄に従った。
ジェイダー、ラウルも部屋に入ると、扉が閉められ、ミラが張っていた結界が作動する。
「ラウルが同行していたから大丈夫だとは思うが、怪我はないか?」
「ええ。私は大丈夫よ。お兄様は?」
「……こっちは少し面倒なことになっている。本来なら新しい聖女が誕生した以上、無暗に他国が介入すべきではない。だが、孤立したままのジェイダーをひとり残していくわけにはいかない」
「えっと……」
つまり、この国に残る正当な理由が必要だったと、そういうことか。
「ミラが体調を崩した方が、説得力があったかもしれないな。だが、この場にいない者を口実に使うわけにはいかなかった。どこまで通用するかわからないが、しばらくはこのままでいくつもりだ」
「そうでしたか」
ジェイダーも知らなかったらしく、ほっとして息を吐いていた。
色々と聞きたいことはあったが、とにかく今は、王城の状態の知り、見てきたことを説明しなければならない。
ミラは、今までのことをすべて兄に話した。兄はミラの話を真剣な顔で聞いていたが、マリーレの話になると、途端に顔を顰める。
「生き延びていたのか」
「もう、お兄様。彼女はまともに会話もできないくらい怯えていたのよ。一体どんなことをしたの?」
「お前のことを偽聖女といい、その呪いのせいで力が使えないなどと言うから、それは俺の妹だと言っただけだ」
それだけだと兄は言うが、本気で怒った兄は、それは恐ろしかっただろう。
「彼女も利用された被害者なのよ。もう何もしないでね」
「俺の目の前に、姿を現さなければな」
「……」
やはりマリーレを王都に連れてこなくて、正解だったかもしれない。
「それで、お兄様。グリーソン公爵令嬢が戻ってきたときのことを、教えてほしいの」
「そうだな。ミラから、南に移動すると連絡が来てすぐのことだ」
兄は、そのときの状況を詳しく語ってくれた。
港町で孤立していた人達が安全な場所にいることを確認したあと、ミラから引き続きグリーソン公爵令嬢の探索を続けると連絡を受けた。
それを公爵に報告すると、彼は神妙な面持ちで礼を述べた。そして、娘を追い詰めてしまったのは自分かもしれないと、悔やんでいたのだ。
「娘が生まれたとき、誰もが、娘は聖女かもしれないと期待してしまった。そして事あるごとに、お前が聖女であったなら、と口にしていたかもしれません」
その重圧は、彼女の日記にすべて記してあった。
だが翌日、そのグリーソン公爵令嬢オーリアが帰還する。
しかも聖女の力に目覚めたといい、この王都に結界を張ったのだ。
途中からオーリアに同行してきた騎士が、彼女が魔物を退けたことを報告すると、王城中が大騒ぎになった。
昨日は自分のせいで娘を追い詰めてしまったと悔やんでいた公爵は、さすがグリーソン家の娘だと誇らしげに娘を抱きしめる。
そしてジェイダーの周囲にいた人達は、気が付けばひとりもいなくなっていた。
「そんな……」
兄はグリーソン公爵のことを、状況によって自分の立ち位置を上手く変えていく。そういう男は、簡単に信用することはできないと言っていた。
それを聞くと、兄は正しかったのだと思うしかなかった。
「もし本当に聖女が誕生したのならば、他国の支援など必要ない。ミラの婚約は解消しているし、もうこの国に係わる理由もない。だが」
言葉を切り、兄は視線を窓に移した。
「ミラ。これは本当に、聖女の力か?」
兄の言葉に、ジェイダーがはっとしたようにミラを見る。
「そのことで、私もお兄様に話があるの」
ミラはラウルと顔を見合わせ、オーリアを探していたときのことを報告した。あの場に残しておくこともできず、彼女の日記帳もここにある。
「黒の聖女がまた現れたか。今度は何を企んでいる?」
ミラの話にジェイダーは青ざめ、兄は厳しい顔をした。
「この王都に初めて来たとき、不思議に思ったの。黒の聖女が張っていたという結界の痕跡は、聖女の魔法のものではなかったわ」
そして、今。
この王都を覆っている結界も、聖女の魔法ではない。
「だから、それをグリーソン公爵に伝えれば……」
「いや、難しいな」
ミラの主張に、兄は首を振る。
「聖女の魔法かどうか。それを確かめられるのはミラだけだ。しかも今、ロイダラス王国の貴族達の中には、エイタス王国がジェイダーを傀儡にしてこの国を乗っ取ろうとしているのではないか。そんな疑念を抱いている者もいる」
「……まさか、そんなことを?」
王城に入ったとき、たしかに兄は威圧的だったかもしれない。
それも、すべてはミラのため。兄は、ミラの受けた仕打ちに怒っていた。
そしてジェイダーのことも、誠実に国と向き合おうとしている彼を、手助けしたいと思っているだけだ。
「とにかく今は、様子見をすることしかできない」
「……そうですね」
兄の言葉に、ジェイダーは真摯な声で答える。
「この国は今、何よりも平穏を必要としています。権力争いをしているような場合ではありません。国をこれ以上混乱させるよりは、身を引いて公爵を支えることができれば。そう思っていました」
まず何よりも復興を。
ジェイダーはそう考えていた。
「ですが、あの聖女が変わっているとなれば、話は別です。今は静観しつつ、向こうの動きを探りましょう」
その言葉に、全員が頷く。
「しかし問題は、体調不良がどこまで通用するか。今からでもミラに……」
「駄目よ。私はこの王城を回って色々と探らなくてはいけないもの」
兄の提案を、即座に否定する。
「公爵令嬢にも会ってみたいし、聖女の魔法かどうかわかるのは、私だけ。それに」
ミラは手を伸ばして、兄の腕にそっと触れる。
「体調不良は、本当でしょう?」
「ミラ、何を……」
「王都に帰ってきて驚いたわ。この辺りの瘴気はすべて浄化したはずなのに、ここは今、瘴気に満ちている」
兄の身体は冷え切っていた。間違いなく瘴気の影響だ。
「エイタス王国は、お母様やお姉様が瘴気をすべて浄化してしまうから、そこで暮らしているうちに耐性がなくなってしまうの。お兄様には相当つらいはずよ。今、浄化するわ」
ミラはこの部屋と、兄の身体を蝕んでいる瘴気をすべて浄化した。
清浄な空気が満ち、兄だけではなく、ラウルとジェイダーもほっと息を吐く。
「……すごい」
「こんなに違うのか」
ずっとこの国で暮らしていたジェイダーや、冒険者として各地を回っていたラウルも、思わずそう呟いている。
「お兄様はこの部屋から出ないで。ここなら安全だから」
「……俺が足手まといになるとはな」
兄は悔しそうに言うが、エイタス国王として、無謀なことをするわけにはいかないと悟ったのだろう。
「ラウル、ミラを頼む。傍から離れないでくれ」
兄の言葉に、ラウルは真剣な顔をして頷いた。