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マリーレが暮らしていたのは、大きな港街にある小さな遺児院だった。
崩れかけた古い建物に、入りきれない数の子どもが暮らしている。
子ども達は皆、一定の年齢になると遺児院を出ていく。仕事を見つけて自立したり、他の家の養子になったりして、みんな幸せに暮らしている。
遺児院の職員はそう言っていたし、マリーレもそれを信じていた。
だが、マリーレもそろそろ遺児院を出ていく年齢になった頃、遺児院の下働きの女性から衝撃の事実を教えられた。
この遺児院に暮らしている子どもは一定の年齢になると、売られてしまうという衝撃的な話だった。最初は信じなかった子ども達も、複数の下働きに事実だと言われてしまえば、信じざるを得なかった。
そうして、ひとり、またひとりと仲間達が消えていく。
そんなある日。面会を拒否した友人が遺児院から逃げ出そうとして、大怪我をした。マリーレはその子を助けたくて、無我夢中で治癒魔法を使っていた。
それを見た神官の目が、怪しく光る。
マリーレはきっと聖女だ。しかも、長らく絶えていたこの国出身の聖女だと、嬉しそうに言っていた。
この港町には、大貴族の別邸があった。
大きくて美しい建物。綺麗なものが大好きだったマリーレは、外出したときはいつもこっそりと見つめていた。
その屋敷に、同い年くらいの少女が遊びに来るときがあった。
艶やかな黒髪の綺麗な少女で、信じられないくらい美しく着飾っていた。
そして、まるで彼女自身が価値のある宝石のように、いつも傅かれ、大切にされている。
マリーレは、そんな彼女に、そんな生活にずっと強い憧れを抱いていた。
(私も、あんな生活をしてみたい。あんなふうに、大切にされてみたい……)
けれど現実は惨めで、毎日朝早くから夜遅くまで働かされ、意地悪な下働きに、もうすぐ売られてしまうのだと脅かされる毎日だった。
だが、神官に連れられて大きな屋敷に連れてこられてから、マリーレの生活は一変した。
ディアロ伯爵は、まず怪我をした人を何人も連れてきて、マリーレに治療させた。
そして、間違いなく治癒魔法を使えるとわかったとき、彼は驚くくらい喜んで、マリーレを自分の養女にすると言ったのだ。
(わ、私が、伯爵家のお嬢様に?)
憧れていた美しいドレス。夢にまで見た美しい大きな屋敷に住み、大勢の侍女が自分に頭を下げる。
この国唯一の聖女。
誰もが待ち望んでいた存在だと繰り返し言い聞かされて、マリーレは自分が特別な存在だと思い込んでいた。
王城に迎えられ、この国の王太子にさえ、丁重に扱われる。
お気に入りの神官を傍に置き、大神官に囁かれるまま、神殿の改装を願い出た。大掛かりな工事にも関わらずすぐに許可が下りたことで、自分の願いはすべて叶えられるのだと勘違いしてしまった。
自分は、特別な存在なのだから。
だが、その力を思うように使えないことに、だんだん焦燥を募らせるようなった。
傍に仕えてくれているシスターが、影でそっと囁く。
――ミラ様だったら、あれくらい簡単にやってのけたのに。
――ミラ様の方が、美しくて優しくて、気品があった。あれほどの方が、偽聖女だなんて思えない。
ミラというのは、マリーレの前に聖女だったという女性だ。王太子のアーサーによると、聖女を騙った偽物だったという。
そんな偽聖女が、マリーレよりも優れていたなんてありえない。
だが焦れば焦るほど上手くできず、アーサーも周囲の者達も、次第に厳しい視線を向けるようになっていく。
むしろ偽物はこっちではないかと影で囁かれているのを聞いたとき、マリーレは一度も会ったことのない聖女ミラを、激しく憎んだ。
(私が上手く力を使えないのも、きっとその偽聖女のせいよ。きっと追い出されたことを恨んで、私に呪いをかけたのよ)
アーサーにもそう訴え、偽聖女は咎人として追われることになった。
だが、その偽聖女が実は大国エイタス王国の王妹で、本物の聖女だと判明した。若く美しいエイタス王の怒りを受けて、マリーレは震え上がった。
そうしてマリーレはアーサーの怒りを買って、養父のディアロ伯爵とともに地下牢に閉じ込められた。
暗くて寒い地下牢。
お前のせいだ。役立たずめ、と罵る養父。
やはりシスター達の言うように、偽物は自分の方だったのかもしれない。
(だって聖女ミラは、あんなにも周囲の人達に慕われて、あんなに綺麗な王様に心配されて……)
それに比べて自分は、こんな薄暗い地下牢で、罵りの言葉を聞きながら朽ち果てるのだ。そう思ったら惨めで、涙が止まらなかった。
王都が魔物に襲撃されたとき、崩れ落ちた地下牢からマリーレは何とか抜け出した。見つかったら殺されるかもしれない。そう思いながら必死に逃げて、生まれ育った港街まで辿り着いた。
けれど、街は徹底的に破壊されていた。
あの美しかった屋敷も、育った遺児院も、すべて瓦礫の山になってしまっている。生き残った人はわずかで、顔見知りは誰もいなかった。でも他の行く所などとなくて、マリーレはそこに隠れていた。
聖女でもない自分が聖女を名乗ったりしたから、この国は破壊されてしまったのかもしれない。そう思うと恐ろしくてたまらなくて、ずっと震えていた。
見つかればきっと、国を崩壊させた偽聖女として処刑されてしまう。
けれど、そんなマリーレを救ってくれたのは、マリーレのせいで追放された本物の聖女。
エイタス王国の王妹ミラだった。
優しい光が身体を包み込んで、痛みがすべて消えていく。
滅びの色を纏った剣士が、彼女のことを綺麗だと褒め称えた。
でもそれに対して羨む気持ちなど微塵も芽生えず、本当にその通りだと思った。
優しくて綺麗で、昔憧れていたどんな美しいものよりも輝いていた。
彼女のようになりたいと、強く憧れた。
人のために生き、聖女ミラのように多くの人を救えば、彼女のように美しくなれるだろうか。