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アーサーはどれだけ彼女を脅したのだろう。
自分と同じ年頃の女性が、怯え切っている様子を見ていられなくて、ミラはそっと彼女を抱きしめた。
「大丈夫。私達はあなたに危害を加えたりしない。町を回って、生き残りの人達を助けていたの。だから、落ち着いて」
「……ほんとうに?」
「ええ。私達はロイダラス王国の人間ではないの」
マリーレはゆっくりと顔を上げ、ラウルを見上げてほっとしたように息を吐く。彼の容貌は、この国の人間とはかけ離れている。彼女を落ち着かせるだけの説得力があったようだ。
震えが止まり、マリーレの瞳がミラに向けられる。
「あ、あなたは……」
「私はミラよ。魔導師なの」
ここで聖女だと告げれば、また怯えてしまうかもしれない。だからそう伝えたのだが、マリーレの顔がみるみる青ざめる。
「も、もしかしてエイタス王国の……。あの、恐ろしい人の妹……」
マリーレはアーサーよりも、なぜか兄を恐れているようだ。
(お兄様、いったい何を……)
兄のリロイドがロイダラス王国の王城に乗り込み、アーサーとマリーレを脅したことを知らないミラは、不安になる。
「ごめ、ごめんなさい。私は知らなかったの。あなたが本物の聖女様だったなんて。ただ私は、アーサー様と伯爵様の言う通りにしただけでっ」
埒が明かないと思ったのか、深いため息をついたラウルが、マリーレの前に座り、彼女を覗き込んだ。
「伯爵様とは、お前の養父のディアロ伯爵のことか?」
「う、うん。伯爵様は私を亡くなったお兄さんの娘に仕立てるって言って、引き取ってくれたの」
あきらかにこの国の人間ではないラウル相手だと警戒しないのか、怯えながらもマリーレは答えた。
「それは、お前が聖女だからか?」
「神官様はそう言っていたわ」
「神官とは?」
「私がいた遺児院にときどき来ていた、えらい人。他の子はあまり良くない場所に売られちゃったけど、私は特別だから、貴族の養女にしてやるって言われて……」
ミラはラウルと出会った町で遭遇した、ならず者達を思い出す。
仮にも神官である者が、その男達と同じようなことをしていたのだ。しかも被害に合っていたのは、保護者のいない遺児院に住まう子ども達だ。
「なぜ、お前が聖女だと?」
「私は昔から、怪我とか治すことができたの。友達が大怪我をしてしまって、それを癒したところを、神官様が見ていて、伯爵様の屋敷に連れて行かれたわ」
マリーレはそこでディアロ伯爵にお前は聖女だと言われ、それを信じたようだ。だがこうして対面してみても、彼女からは聖女の力を感じない。
たまたま癒しの力を持っていた、魔導師の素質があっただけの普通の女性だ。
ミラはマリーレの存在があったから、偽聖女と呼ばれて追放され、彼女の偽聖女の呪いという言葉のせいで、冤罪で追われることになってしまった。
でもこうして彼女の出自を聞くと、とても責める気にはなれない。
むしろマリーレは、権力のために利用された被害者だ。
ミラは手を伸ばすと、もう一度マリーレを優しく抱きしめた。
「こんなにボロボロになって。つらかったね。でも、もう大丈夫だからね」
「せ、聖女様?」
マリーレは傷だらけだったが、命に係わるほどではない。
でもミラは、彼女を放っておけなかった。癒してあげたいと、強く思った。
魔法は、呪文を唱えることでイメージが固まり、威力が増す。
ミラも非常時を除き、魔法を使うときは呪文を唱えてきた。
でも誰かを思って魔法を使うときは、呪文を唱えなくても魔法の威力が上がる。
これはミラが、【護りの聖女】だからなのか。
マリーレの髪を優しく撫でると、乱れて焦げていた髪は、たちまち元の艶やかな髪に戻った。そっと頬に触れると、体中の痣が消えていく。
「私があなたを守ってあげる。もうつらい思いはしなくていいわ。だから、安心して」
「聖女様……」
マリーレはミラに縋って泣き出した。その背をゆっくりと撫でながら、ミラは彼女が泣き止むまで、優しく抱きしめていた。
泣き疲れたマリーレは、いつのまにか眠ってしまった。
ラウルに手伝ってもらって彼女を安全な場所に移動させ、毛布をかけて寝かせてあげる。
「きっとお腹もすいているわね。何か、消化の良いものを作るわ」
ミラがそう言って立ち上がろうとすると、ラウルの手がふわりとミラの髪を撫でる。
「ラウル?」
不意を突かれて、思わず頬が染まってしまう。
「追放される原因となった彼女を、よく許すことができたな」
「だって彼女も被害者だわ。利用されて、利用価値がなくなった途端に捨てられたのよ」
もし聖女になれなければ、また遺児院に戻されてしまう。貴族の生活を一度体験してしまったマリーレは、もう戻りたくないと必死だったのだろう。
「新聖女は我儘で、要求ばかりしているという噂もあった」
「今まで何も持たなかった彼女が、与えられたものに夢中になって、執着してしまうのも無理はないわ」
甘いかもしれないが、ミラはそう思っていた。
「……そうか」
ラウルは穏やかな笑みを浮かべて、ミラの頬にそっと触れた。
「お前のそういう心は、どんな宝石よりも貴重で、綺麗だと思う」
「……っ」
それだけ告げると、ラウルは見回りをしてくると言って、立ち去ってしまった。ミラは赤くなった頬を両手で抑えて、小さく呻き声を上げる。
(き、綺麗? 綺麗って言われたの? 私……)
容姿を褒められたことは何度もあったが、挨拶のようなものだと受け流していた。兄もいつも可愛いと褒めてくれるが、あの兄のことだから、いつものことだと聞き流していた。
でもラウルに言われた言葉が、いつまでも頭の中をぐるぐると駆け巡っている。
「私も」
そんなときに声をかけられて、ミラは飛び上がるほど驚いた。
振り返ると、眠っていたはずのマリーレが、毛布に包まったままこちらを見ていた。
「私も、そう思う。聖女様は宝石よりも綺麗」
マリーレの瞳から、涙が零れ落ちる。
「伯爵様に引き取られて、夢みたいな暮らしだった。綺麗なものに囲まれて、美味しいものを食べて。私は聖女だから特別な存在だって、ずっと言われていたの。そのうち、自分でも特別な存在だと思い込んでしまったの」




