日々短譚 「世界の終わり」
朝起きると世界が終わっていた。終わっていたという表現は正しくないかもしれない。
その日、僕は普段通り6時半に目を覚ました。仕事を辞めたからといって生活リズムを崩すとどうにも調子から狂うのだ。いつも通りの朝が来るはずだった。目を覚ましてコーヒーを淹れているとどうにも外が騒がしい。うんざりしながら煙草に火を点けてコーヒーを啜る。今日はどうやって過ごそうか、そんなことを考えながらぼんやりと部屋を眺めているとテーブルの上にウイスキーの瓶が置かれていた。見るといつの日か飲もうと思っていたフォア・ローゼスのブラックラベルだった。すでに封が切られており横にはグラスが置かれている。いつの間に開けたのだろうか、人来た覚えもないし不法侵入者がウイスキーを一杯飲んで出ていくこともあるまい、部屋も普段と何一つ変わらない。
気が付くと外は随分と静かになっていた。カーテンを開けて外を見てみるとそこには映画でしか見たことのない光景が広がっていた。フロントガラスが割れている車、徘徊している口元に血を滴らせた人、僕はそっとカーテンを閉じた。テレビを点けると何も映し出していない。慌ててスマートフォンを開いたが電波が来ていないのかニュースを開くことが出来なかった。
僕は仕方なく二杯目のコーヒーを淹れることにした。ガスと水道、電気は生きているらしい。ライフラインが生きていればその間は少なくとも外に出ず生きていけそうだ。しかし外は一体どうなっているのだろうか、そう思いもう一度カーテンを開けてみた。先ほど歩いていた人(映画の世界で言うゾンビに酷似していたが)の姿はもうなかった。しかし遠くではいたるところで黒煙が上がっている。何かが起きているのは明白だった。夢ではないかと頬をつねってみたが現実なようだ。まさか自分がこんなベタな事をするとは思ってもみなかった。
僕の慎ましやかな日常、それを取り巻く世界がこんな形で終わるとはおもっても見なかった。きっとそれはこの街に住む人間も同じ気持ちだろう。しかし現になってしまっているものは仕方がない。今僕にできることは僕の住む6畳間でコーヒーを飲むことくらいだ。そう考えるとなんだか随分と今僕が置かれている状況が滑稽に見えた。外の世界は大きく姿を変えてしまっている様子だが僕自身のこの小さな世界では何も変わっていない。僕がまだ仕事を続けていたならばこういった場合上司にどう連絡するべきなのだろうか、外を怪しげなゾンビが出歩いているので本日は出勤できません。という理由が通るのだろうか。なににせよこんなつまらない考えが浮かぶ時点で僕もそれなりに動揺しているのかもしれない。
コーヒーを飲み終わり手持無沙汰になったのでひとまず雨戸を閉め、戸締りをし釣りに行くときに持ち歩く血抜き用のナイフを引っ張り出した。見た目がかっこいいからと軍用ナイフのレプリカを買っておいてよかった。ただこのナイフが何かの役に立つ気は一切しなかった。
外は静かなもので何も起こらない。それが良い事が悪いことか分からなかったが本を読むにはちょうど良かった。雨戸を閉めているせいで時間感覚はあまりなかったが読書の途中空腹を感じインスタントラーメンを2回食べたのできっともう夕方近いのだろう。僕はシャワーを浴びてウイスキーを一口飲み布団へと潜り込んだ。
翌朝、目を覚ましてまず外の様子を見て見た。相も変わらず車のフロントガラスは割れている。今日はその横で血まみれの人が三人地面に跪いて何かを食べていた。それは生肉のようなものに見えた。肉を好んで食べている様子だったが彼らは共食いなどはしないのだろうか。と素朴な疑問が浮かんだ。見ていて気分の良いものではなかったので僕はカーテンを閉めてコーヒーを淹れた。
それから一週間、世界の終わりが来たとは思えない程の凪の日々が続いた。何も起こらず相も変わらず世界は終わっていたが僕の暮らす6畳間の中では何の変化もなかった。
ある日コーヒーを淹れようとするとガスが止まっていた。電気もつかなかった。しかし運よく水道はまだ生きていたので少なくとも今すぐ生命の危機が訪れるという事はなさそうだった。仕方ないので卓上コンロでお湯を沸かしコーヒーを淹れる。いつまでも今の様なぬるま湯につかっていられないのだという現実を思い知らされた。人生において何度もこういった変化点は起きてきたがこれまでの物と比べものにならない程のものだった。これまでの受験、進学、就職などとはケタ違いだ。しかし起きてしまった者は仕方がない。それに対して対応していく他僕には選択肢はないのだ。ただ一先ずその時は今日ではない。それがせめてもの救いだ。食糧も有限である。煙草もコーヒー豆も残り少なくなってきた。僕も外に出なければならない日がもうすぐそこまで迫っている。僕は煙草に火を点け、ナイフを握りしめた。