時が流れても
「ねぇ、僕の彼女になってよ。」
「何言ってるの、そんなことあるわけないでしょ?」
「何で?」
謙介は本当に理由がわからないというように、首を傾げた。そんな健介に対して、裕美はその時も心のそこから、言ったのだった。
「あなたには、あなたに相応しい人が必ずいるから。」
それが、もう、六年も前の話になるのだ。
あれから、二人の間に様々な事があったが、それでも変わらないことが二つあった。
首を傾げるときの謙介のぽかんとした邪気のない顔と、そして、変わらず謙介が裕美の傍にいるということだった。
裕美は歳を重ねるたびに思うことがある。
自分はちゃんと成長しているのだろうか。
教育の仕事をしていたから、というのもそう感じる一つの要因だろう。あっという間に生徒は成長をしていく。短期間でぐんと成績を上げる生徒もいる。ひと夏越して顔つきが変わる生徒もいる。そんな短い間隔で感じる成長もあれば、気づけばついこないだまで小学生だった生徒が高校入学、そんな長い間隔で感じる生徒たちの成長もある。そんな生徒たちの成長に対して、己を比較してしまうと感じるのだ。自分自身は何も変わっていないのではないかと。特に大学を卒業して、社会人になってからというもの、成長がぴったりと止まってしまっているのではないかと感じるのだ。
「どうしたの、裕美さん?」
二人が座る席からは、新宿の賑やかな通りを見下ろすことができた。地上七階、隠れ家的なレストランの窓際の席。裕美がぼんやりとその景色を眺めていたからだろう。不安そうに謙介が裕美の顔を覗き込んだ。
「気に入らない?」
「そんなことないよ、とっても素敵なお店。」
「そう?」
「うん、謙くんがいつの間にかこんな素敵なお店を予約してくれるようになったんだなぁ‥って思って。なんだか、感傷的になっちゃった。」
謙介と初めて会ったときの事を、裕美は覚えていなかった。彼女が大学三年生になる春のことだ。時間講師として同じ校舎での勤務が三年目を向かえた春期講習、謙介は体験生として初めて裕美と会った、と謙介に言われて裕美は初めて知った。直接授業を担当しなかったので、裕美にとっては学年の変わり目、何人かいる体験生の一人としてしか謙介を認識していなかったので、大きな印象として彼との出会いは残っていない。
「また、歳とっちゃったなぁ‥。」
裕美はサプライズでバースデー用のプレートが運ばれてきて、ケーキに刺さっていた花火が消えると、ふっと寂しい気持ちになった。
「歳とるのは、いや?裕美さんだんだん綺麗になってるのに?」
「ありがとう、本当に綺麗になっているかどうかは別にして。」
「嘘は言わないよ?」
「はいはい、そうね、歳をとることは、嫌ではないかな、生きているのだからしょうがないもの。でも、嬉しくはないかな。」
裕美は小さく息を吐いた。小さな頃は歳を一つずつ重ねるたびに大人へと近づいている気がした。大きくなることは良いこと。そう、誕生日は一つのステージのクリアーみたいなものだった。それが最近では、ただのセーブポイントへと変わりつつある。また、通過した、そうとしか感じなくなっていた。
「僕はまだ嬉しいなぁ。」
無邪気に笑う謙介の横顔を眺めていると、彼ならずっと喜んでいられるのではないか、そんな気がした。彼の誕生日に溜息は似合わない。
学ランを着ていた男の子が、男性として素敵なお店絵を予約してくれえるまでになったのだ。それも、裕美一人では足を運ぶことがなさそうなお洒落なお店だ。都会の真ん中で、夜景を見ながら、誕生日を祝ってもらえる日が来るなんて、自分ごととして想像したことはなかった。そして、祝ってくれる相手が、謙介だとも夢にも思わなかった。
顔にあたる風は冷たかった。十二月に入り、街はクリスマスの雰囲気が色濃く漂い始めていた。平日ということもあってか、仕事帰りの人も多く見られたが、中には楽しそうに歩く恋人たちもいる。
サザンテラスは暗闇の中でぼんやりと浮かびあがり、人々を照らしていた。裕美はこれまで都内にはそれほど縁がない生活をしてきたから、それほど都内には詳しくはない。そんな彼女にとって、このJRの線路の上にかかる橋は、まるで都会の象徴だった。多くの線路を見下ろすことができて、同時に高層ビル群姿も見ることができるから絵女印象を持つのかもしれない。
並んで歩くと、昔は同じくらいの目線だったのに、いつの間にか謙介を見上げるようになっていた。記憶の中の彼は、いつも机に向かっていたから、視線はいつも上目遣いだったのに。
「今日元気ないね、せっかくの誕生日なのに。」
「ごめんね、楽しくない、とかではないの。何だかいろいろと考えちゃって‥」
誕生日は嫌でも、時間を意識させられるから。裕美はそう言おうとして、止めた。
「ねぇ、裕美さん?」
「なに?」
彼は歩きながら、何てことないように、ぽんと言った。まるで謙介自身の現状を報告するかのように。
「社会人になって落ち着いたら、結婚したい。」
「え?」
裕美は思わず立ち止まった。
「裕美さん、僕のお嫁さんになってよ。」
ふわっとしたやわらかそうな髪の毛が通過した電車の風に舞った。優しそうなちょっとだけ垂れた二重の瞳はいつものままだった。楽しげに瞳が揺れる。まるでデートの誘いをした、そんないつもと変わらない笑顔。
「本気?」
「うん、本気。」
彼の言い方だけでは本気だか、冗談だかわからない。そんな普通の雰囲気でさらっとすごい事を言ってのける。でも、これまでも、本気の気持ちをさらっと言いながら、謙介はその自分の言葉を態度で証明してきた。
謙介は裕美の返事を待たずに歩き出した。そんな謙介を裕美は彼の一歩後ろをついて行った。
「あそこのドーナツ屋さん。」
視線の先にある建物を見ながら語りかけた裕美の声に、謙介は顔だけで振り返りながら首を傾げた。
「オープンしたばかりの時は、すごい行列だったのにね。でも、今はそれほどでもないみたい。」
ガラス張りで店内の様子は良く見える。ガラガラというわけではなかったが、辟易するほどの列があるわけではない。ドーナツを買うために、アミューズメントパークのアトラクション並みに行列ができる。この店が活気に溢れていた当時、ニュースを見ながら、ドーナツにそこまでの情熱が持てるのか理解できなかった。今なら、その情熱がドーナツの為だけではなかったことが少し理解できるようになったと、裕美は思う。
「高校生の頃、一度並んだことあったなぁ‥。とにかく甘かったことしか記憶ないや。」
「ブームが過ぎるって悲しいものね。」
「そう考えると、こっちは相変わらず、すごいね。」
謙介が控えめに指差す先には全国展開する大手チェーン店のコーヒーショップがあった。店内は一見する限り満席のようだった。
「そうね‥。」
裕美の頭の中をいろいろなことが巡っていく。まるでメリーゴーランドのように頭の中を巡っていた考えが、ゆっくりととまって行く。そして、ふっと明かりが消えた。
「ちょっと座らない?」
近くにあったベンチを指すと、彼は笑って頷いた。
裕美は丈の長いコートを着ていたが、すっと座ったベンチの冷たさは洋服を通しても感じた。目の前を仲の良さそうなカップルが通り過ぎって行った。ダウンベストから出ている、その彼の腕に愛おしそうに抱きつく彼女。ベストの良いところは、腕の体温を恋人が感じやすいことなのかもしれない、一つの幸せの形を見ながら裕美は思った。
裕美は頭の中の霧を吐き出すように、ゆっくりと話し始めた。霧が晴れれば、きっと答えが浮かび上がってくる、そう信じて。
「謙くん、大きくなったよね。」
「急に、どうしたの?」
「初めて会ったのが中学生。それから高校生になって、大学生になって、今度は社会人。もし、あなたの先生をしている頃の私が今の謙くんを見たら、本当に驚くと思う。大学受験もとっても頑張って結果出したし、今回の就活もそう。どんどん大人っぽくなっていったし、本当にしっかりして。今では私の知らないこともたくさん知ってるし。」
謙介は黙って話を聞いていた。いつものように軽く首を傾げながら。
「今日だって、あんな素敵なお店用意してくれて。きっと、謙くんが連れて行ってくれなかったら、一生行けなかったと思うの。」
「大袈裟だなぁ‥。そんなことないよ。」
「ううん。そんなことあると思う。私は社会人になってから、新しく行くようになったお店とかはほとんど増えてないから。自分のテリトリーからはそれほど出ずに、淡々と時間を過ごしてきたの、私は。」
「そうかな?」
「うん、そうなの。だから、私も通ってきた道ではあるんだけど、高校生、大学生、そして今。謙くんを見ていると、本当に羨ましかった。高校一年生になった謙くんと、駅で偶然再会したあの日から。」
「羨ましかった?」
再会して、SNSを通して連絡を取るようになった。半年後、謙介は裕美に想いを伝えた。その日から二人の距離は縮まっていったのだけど、距離が縮まっていくことが、裕美にとって嬉しくも、同時に怖くもあった。それは生徒と先生としての過去があるから、というのも当然含まれたが、それだけではなかった。
「うん。いつも一生懸命で、どんどん成長していく。最初は先生としての目線が残っていて、成長を見守っている感じだったんだよね。それが少しずつ、弟を見守るような目線になって。」
きっと、それは彼の普段の姿に触れ始めたからだろうと思う。謙介はとにかくまっすぐに走っていた。その分、悩むこともあっただろう。悔しいこともあっただろう。そんな出来事を裕美に話し、そしていつも最後にはにっこり笑った。
「年齢差も気になっていたから、恋人としてはどうなるのかはわからなかったけど、ずっと守ってあげなきゃ、って思っていたの。年上だから、私がしっかりしなくちゃ。私が支えてあげないとって。だからちょっと頑張ってお姉さんでいようとし過ぎちゃったのかな。だから、一度、年上の人に惹かれたのかもしれない。」
彼に告白されてから、三年ほど経った頃だった。裕美に恋人ができたことがある。年上で、自由に生きている人だった。舞台製作の仕事をしていて、自分の世界を持っていて、裕美の周りにはそれまでいたことのないタイプの人だった。ついていきたい、この人について行けば、今まで見えなかった新しい世界が見えるのではないか、裕美にはそう思えたのだ。
謙介に、自分とはきっと釣り合わないというのがわかって欲しかったというのも、少しだけあった。彼には彼に合った人を、同じ時間を生きる人を、今の彼に必要な人を見つけて欲しいと、そう思っていた。
だから、恋人ができたことを裕美は謙介に素直に伝えたし、そうすれば諦めてもらえると思っていた。
結果として、連絡を取る機会は減った。二人で会うことも減った。それでも、謙介はそれまでとは変わらずに裕美に接し続けた。たまに会っても謙介は、最近のことを話し、そしていつもの笑顔で笑った。
恋人とは結局一年半で別れることになる。喧嘩したわけでもないし、特に大きな理由があったわけでない。むしろ別れる直前まで仲は良かったと、裕美は思っている。
価値観、そんな一言で片付けて良いのかはわからない。あと一週もすれば桜が見ごろを迎えるだろう、そんな時期だった。行きつけの中華料理屋で食事をした後、その近くにあるお気に入りのカフェでお茶をしながら話していた時、ふとしたことから将来の話になった。お互い、心の深いところに燻る違和感のようなものをお互いがずっと抱えていたのだろう。会話がすれ違った。未来のビジョンが違っていた。理由はそれだけのことだった。その場では決定的な結論は出なかったが、二人の距離が次第に開き、桜が散ると、二人は別れた。
「でもね、そんな私に別の恋人ができても、ずっと謙くんは笑顔で話してくれた。待っていてくれた。」
謙介は何も言わずじっと裕美の顔を見ていた。
一年半という時間が、長いのか、それとも短いのかは裕美にはわからなかった。しかし、その時間が謙介にも平等に流れていたのは事実だ。
裕美に恋人がいなくなってから何度目かに謙介に会ったときの事。その頃、仕事の失敗も重なって裕美は気分が落ち込んでいた。そんな裕美の心情を察してか、謙介が急にドライブに連れて行ってくれたことがあった。とっておきの場所なんだと、海際の公園に連れて行ってくれた。その公園には裕美も以前、行った事があったが、いつも時間の早い明るい時間帯だった。ところが時間が変わると、びっくりするぐらい綺麗な夜景が見えるポイントで、謙介は黙って裕美の心が満たされるまでずっと傍にいてくれたのだ。
「彼と別れた後、最初のドライブ、嬉しかったな。私のこと、ちゃんと見ていてくれる人がいる。そう思えたもん。だから、そこから謙くんに対する見方がゆっくり変わっていったのだと思う。」
公園からの帰り道、車を運転する謙介の横顔は立派な大人のそれだった。私が支えてあげるはずだった。見守ってあげるはずだった。裕美はそう思っていた。それがこうして謙介と並んで座り、彼のほうが裕美を支えている。そのことに気がついた時、いつの間にか追いつかれている、そう裕美は思ったのだ。
「見守っているつもりが、いつの間にか見守って貰っていた。支えてあげるつもりが、支えて貰っていた。年齢を気にせず、一人の男性として謙くんを見ることができるようになったのはその頃からだった。それでも、彼女になっていいのか、私の中で答えは出なかったの。」
二人が交際することになったのは、そのドライブから半年くらい過ぎた誕生日のこと、そうちょうど一年前のことだ。
それだけ長い年月を過ごしてきたにも関わらず、そして何より恋人を通り越しているような感覚になっていたので、交際するべきなのか、すぐに裕美は答えを出すことができなかった。踏み出したら、これまでの関係が壊れてしまうような気がしていた。悩む裕美に、謙介は笑って言ったのだった。
「嬉しかったよ。『僕は裕美さんの彼氏だよ。僕の彼女になってくれるのはいつでも良いからね。』そう言ってくれたこと。答えを出せずにいるウジウジしている私を、やっぱり待っていてくれた。」
「だって、彼女になっていいのかわからない、なんて言うから。なって、ってお願いしているのは僕のほうなのに。」
そう、この笑顔だ。この笑顔に裕美は何回救われたのだろう。
裕美の心の霧はだいぶ晴れていた。
裕美ははっきりと自分の気持ちがわかった気がした。
私はこの笑顔に幸せになって欲しい。そうだ、私が伝えないといけないのは、この気持ちだったんだ。
「謙くんの傍にいてね。最近はずっと不安だったの。見守ってあげなきゃって思っていた年下の男の子が、あっという間に素敵な男性に成長していった。私がリードしていたはずなのに、いつの間にか横に並んで、今はリードして貰って。どんどん魅力的になって。」
「そんなことないって、褒めすぎ。」
照れて、口元を触る謙介の癖、そのしぐさが裕美は好きだった。たまらなく愛おしかった。
心の底から何かが上がってくることを、裕美は感じた。その何かを抑えきれる自信など、全くなかった。
「そんなことないよ。だから、このままだと私は置いていかれちゃうんじゃないかって。謙くんはこれからも、もっともっと素敵な人になって、私の手が届かないようなところに行っちゃうんじゃないかって。ずっとそう思ってた‥。私は、あの頃から、出会った頃から何も変わっていない。むしろ、ダメになってるそんな気持ちがずっと拭えなくて‥。」
目頭が熱くなった。暖かなラインを頬に描くとすぐに冬の風にぬくもりは奪われた。
明るいところでなくて良かった。こんな顔は見られたくない。冷たくなった手で、何とか涙をぬぐった。
そう、ちゃんと、最後まで言わなくちゃ。
無理やり気持ちを引き上げると、思わず涙声になったが、もう止めることができなかった。
「あなたには、あなたに相応しい人が必ずいるから。」
裕美は謙介の顔を見ることができずに、膝の上のカバンを持つ手に力が入っているのをじっと見つめながら、しゃくりあげそうになるのをなんとか我慢して声を絞り出した。
「私じゃ、ダメだよ‥。謙くんのこともっと幸せにしてくれる人、いるよ‥。」
グスグスしている裕美の手の上に、そっと謙介の手が置かれた。謙介の手も冷たい。それでも、しばらくすると二人の手はどちらともなく暖かくなった。
「裕美さん。」
裕美が顔を上げると、そっと彼はハンカチを差し出してくれた。
「何で、僕が裕美さんのことを好きになったのか知ってる?」
裕美が答えられずにいると、少しの間だけ、静かな時間が流れた。遠くのほうから陽気なクリスマスソングが聞こえた。裕美は、なぜかもっと泣きたくなった。
「中三の春、僕がまだ、校舎に馴染めなくて、どの先生に話しかけるのも緊張していた時のこと。講師室の近くをテキストを持って、オロオロしていたら、裕美さんが声をかけてくれたんだ。僕の抱えた質問を、担当じゃないのに優しく答えてくれて。とっても嬉しかった。そのときに、僕は思わず言ったんだよ。『僕、英語苦手なんですけど、行きたい高校があるんです』って。覚えてる?」
そのときだけ、裕美の意識は春の講師室へと飛んだ。
裕美はいつものようにスーツを着ていて、グレーの天板の机を挟んで‘早乙女くん’と向き合って座っていた。彼は今みたいに目線も合わせてくれることもなく、英語のテキストとシャーペンを持って確かにおどおどしていた。開いたテキストは新品で、強く開かないとすぐに閉じてしまう、一生懸命ページに折り目をつけた彼は今よりも一回り小さかったことははっきりと覚えている。しかし、裕美の記憶では、その彼は、白のTシャツの上に、紺のパーカーを着ていた気がしたが、その服装は彼のお気に入りだったから、後の記憶で改変しているのかもしれない。
裕美がしゃくりながら頷くのを確認すると、彼は続けた。
「正直、僕の当時の成績じゃ、高望みなのはわかってた。しかも、中学に入ってから頑張っていなかったわけではないのに、結果が出ていなかったから。やってないならまだいいのに、やっててもできなかったからね。だから、君じゃ無理って言われるような気がしていたからそれが怖くて、誰にも言い出せなくて。でも、あの時、ふっと言いたくなったんだ、島崎先生の笑顔を見ていたら。そしたら、先生は言ってくれた。『大丈夫、一緒に頑張ろう』って。その瞬間から、僕にとって、島崎先生は、裕美さんは、僕にとって太陽だった。他の先生とは違って、上辺だけの頑張ろう、ではなかったんだ。本気で信じてくれてた。可能性を示してくれた。それは卒業しても、ずっとだよ。大学の入試のときも。就職活動のときも。そう裕美さんが見守っていてくれるから、傍にいてくれるから、僕を理解してくれるから、ずっと頑張れたんだ。僕をここまで育てて、成長させてくれたのは、裕美さん、あなたなんだ。」
謙介は裕美の手をそっと握った。
「裕美さん、傍にいてくれるのがあなたじゃなかったら、僕はここで立ち止まっちゃいます。」
そして、謙介はまたにっこりと笑った。
「もう、顔がぐちゃぐちゃだよ…。すぐには電車乗れないかな。」
「それじゃ、一駅分くらい散歩しようか、まだ時間早いし、お腹いっぱいだし。」
「そうだね。」
不思議なものだ。あんなに冷たかったベンチも二人の体温で暖かくなっている。すると、そのベンチ自体もまるで二人のことを優しく見送ってくれているそんな気になるのだ。
「ねぇ、先生?」
彼が、少し意地悪そうな笑みを浮かべた。
「何?早乙女君。」
「僕、なりたい家族像があるんです。」
ようやく落ち着いてきた裕美は、やっと彼のジョークを受け止める余裕ができてきていた。
「大丈夫、一緒に…」
「頑張ろう!」
二人で顔を見合わせて、笑った。
「あのね、でもね、謙ちゃん、一つ聞いてもいい?」
彼は裕美の手を握り、コートのポケットにねじ込みながら、いつものように首を傾げた。
「こんな年上じゃなくて、同級生とか、歳が近い人がいいなって思ったこと、ないの?」
裕美の言葉に、彼はふふふと、声を出して笑った。
「あるよ。同級生と付き合うってどんな感じだろうって思ったし、僕、こう見えて意外とモテるんで、選択肢なかったけじゃないし。」
「うん、知ってるし、それに意外でもないどころか、モテると思ってるよ。」
「そう?だから、それなりに女の子とも遊んだし、裕美さんと付き合い始める前に、ちょっと付き合った子だっているんだよ。本当に短い期間だったから、わざわざ話すこともないと思ったから、話したことないと思うけど。その子といると、裕美さんといるより楽だなぁって思ったことも、正直あった。ずっと、早く裕美さんに並びたくていつも背伸びしてたから。」
自分の知らない謙介がいることに、裕美は改めて気がついた。自分自身に心の葛藤があったように、彼にも葛藤や、迷いはあったのだ。少なくとも、何も考えずに今日までたどりついたわけではないことは確かだった。やはり、どんどん大人になっている。彼女になってよ、無邪気に言っていたあの頃よりも、ずっと。
「でしょ、だったらなんで…?」
謙介の目の前にはあの頃と変わらず、自分の心の中まで見通してしまうのではないかと思うような綺麗な瞳があった。その瞳にまっすぐ覗き込まれてしまうと、思わず逃げたくなる。謙介は思わず目を逸らした。
「う~んとね、それはまたの機会にしようよ。ちょっとは出し惜しみさせて、プロポーズまでしてるんだよ、誕生日にさ。」
え‥。小さい声で不満を上げつつ、裕美は素直に頷くと、彼のポケットの中の手に力を込めた。
「それじゃ、クリスマスに教えて!」
「近いなぁ‥。」
謙介は否定も肯定もしなかった。
同世代の女の子と付き合えば、気楽で楽しいこともあった。裕美と過ごす時間とは違う刺激や楽しみがあった。人によってはそれを大切にする人もいるだろう。謙介だって、全てが裕美と一緒にいることで満たされると思ったわけではない。誰と付き合ったって、良いところも、悪いところも、きっとある。裕美以外の人と生きることを選べば得るものもあれば、失うものもあるのだ。
一度、失いかけたからこそ気づいたこと。人は得る可能性のあるものは事前に発見することが多いが、失う可能性のあるものに関しては多くの場合見落とし、そして失ってから初めて気がつくことが多い。
しっかり捕まえておく為のプロポーズ。何があっても失いたくないのは裕美さんだから。
照れずにそんなことを言えるだろうか。
謙介は裕美と過ごすクリスマスを想像して、微笑を浮かべながら、夜空の星を見上げた。空からはいつかの帰り道で見上げた星が変わらぬ輝きで見守っていた。
「まずはクリスマスの予定を考えないとね。」
謙介もポケットの中の手に少し力を込めた。
クリスマスも晴れて欲しいな、そう願いながら。