掌編「ふうちゃんのぬいぐるみ」
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ある縁日の昼間だった。その頃、幼稚園に入る前のふうちゃん(風太)はお祭りの帰りの路に落ちていた緑色のうさぎのぬいぐるみをこっそり拾っていた。ふうちゃんのお母さんは「汚れているから、触らないで。」と言っていたが、ふうちゃんにはとてもこのぬいぐるみを気に入ってしまったので言いつけを守らなかった。
汚れのついていたぬいぐるみをふうちゃんは家に帰ると綺麗にするよう努めた。蛇口を使ったり、手で払ったりした。決してそのうさぎは玩具屋で売っている綺麗さにはならなかったが、そんなことをふうちゃんは気にすることなかった。また、お母さんに頼んだら真っ先に捨てられると幼心にずるさが既に潜めていたのかもしれない。
男の子と女の子のいる家庭だったから、他にも沢山ぬいぐるみはいた。そのなかで思い入れのあるものは成人となっても強く憧れるものだ。それは母性や胎内の記憶に似たものかもしれない。
もし、ふうちゃんが一人っ子だったなら、あの頃ぬいぐるみへの興味はもっと小さいものだったろう。兄弟がいてそれぞれがぬいぐるみを所有したからこそ、自分だけの所有がほしかったのである。母にばっちいと言われても、それは生きていた。ふうちゃんにとっては、自分が細菌に感染して、病気や死に至ったとしてもぬいぐるみや落とし主を恨むことなどしなかっただろう。あの頃のふうちゃんはぬいぐるみと遊ぶ、共生することに喜びを感じていた。
そして、それが突然いなくなったとき、彼の悲しみは極まるのであった。子のことを考えれば親が鬼になることはあるが、それによって子のために一番よいことをしたにはならないのだ。あの頃のことを思い返す子供自身がそう思うのだから間違いではないだろう。ぬいぐるみとは彼が溺愛した最初の他人なのかもしれない。顔の顔的特性がまさにぬいぐるみという客観的な置物に命を宿らせたのであった。ふうちゃんのお母さんは、ふうちゃんの気づかぬ間に祭りの薪で、ぬいぐるみを捨てて燃やしたらしい。当然のことながら、ふうちゃんは悲しんだ。動物の親のように感情を抑えることなくあるはずのものがそこにないことに喚いた。だからといい戻るわけではなく、時間だけが無残にも傷を溶かさずに過ぎて行った。だからなのか、彼は大人になっても生き物を慈しめずにはいられない、その異常な部分と他の正道に倣おうとする姿勢が後々相容れなくなるようになったのもこの体験があったが故なのかもしれない。
共生、それは過酷な道のりだ。どのようにしても孤独に陥らざるをえない人々がいる。そのなかに観念があることを他の群がる人達は知らない。生き物の本質は見限ることができることにある、人はそれを忘却や無感の故だというかもしれない。そこに不条理の萌芽が潜んでいることを皆が知ればよいのだが。経験された知識の資料は重宝される。だからといって、一旦外に目を向けた人にまずやってくるのは失望である。もし、それでも人は狂わないというのなら、わがことのように降りかかるという認識が欠けているのだ。そうあるように人が言い聞かせているのかもしれないし、減少するようにからだが取り計らってくれる。その空虚を神秘的だといえばそれまでだし、生かされている秘訣だといっても然りだろう。共生以外に私の道は閉ざされているのだが、自然のあるがままを受け入れるのなら、狩猟をも認めねばならない。結局、誰かが例えたジレンマにならって、歯がゆさと悲しみが忘却の外周で踊っているのだ。その内側には闘争が眠っているのだろう。
過去に書いた文章です。ふうちゃんは筆者自身でもあります。
改めて読み返すことで、忘れていた動機を思い返しました。




